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18.8.15

落日燃ゆ(広田弘毅)/城山三郎/新潮文庫

 戦後61年を経過した今年もまたいわゆる靖国問題について、テレビをはじめとするマスコミが騒ぎを煽(あお)り立てています。そのテレビ番組の一つを見ておりましたら、A級戦犯とされ絞首刑にされた広田弘毅元首相のお孫さんが靖国神社への広田元首相の合祀(ごうし)について、「靖国から事前に合祀の連絡はなかった。聞かれていれば断った」また「靖国は軍人や戦没者を祭るところ」であり、事前に合祀を打診されていれば「祖父は軍人でも戦没者でもない。福岡や鎌倉のお墓をお参りすれば十分だからやめてください、と断っただろう」と語っておられました。
 このお孫さんがおっしゃりたいことは、「あの戦争は軍人が起こした戦争であって文民である広田弘毅は阻止しようとしたのだ。広田弘毅はいわば被害者だ。」「軍人は嫌いだ、だから一緒にして欲しくない。」というようなことだと思いました。しかし、私はこれに大変違和感を覚えました。

 最初に思いましたのは、これはあくまでご遺族の見方であって広田弘毅本人の考えがどうであったのかは解らない、ということです。ひょっとしたら、広田弘毅は、軍人のことを多少は気に食わなかったかもしれないが、共に戦った仲間であり、共に無念の死を迎えた同志なのですから、共に英霊として祀ってもらいたかったかもしれないのです。本人の気持ちはわかりません。少なくとも、後の時代の価値観をもって、それがご遺族であっても本人以外の人が、とやかく言うことではないのではないかと思ったのです。
 もしもこういうことが許されるようになれば、この先々色々な子孫が分祀せよといったり再合祀せよといったり、いたずらに混乱するだけです。

 そういう背景の下に、広田弘毅は、靖国に合祀されることをどう考えたであろうか、ということを念頭においてこの本を読んでみました。以下、所感です。(広田弘毅を以下広田と記します。)


 広田は石屋の倅として生まれ、いわゆる名門の出ではありません。外務官僚から一国の宰相にまで上り詰めますが、自分自身を「事務方」であると位置づけ、「背広の首相」として淡々と非常時における大変に困難な職務を遂行していくのです。政治的諸問題への対応方針については、外交努力を優先したのは勿論のことですが、自己に関することについては、「自ら計らわぬ」を座右の銘とし、自分から策を弄するのではなくあるがままの生き方をするということであった、と私は理解しました。この「自ら計らわぬ」という言葉は、作品中何度も出てきます。

 さて、合祀されたことに関して広田がどう考えるだろうかという点ですが、この「自ら計らわぬ」ということではないかと私には思えます。つまり、あるがままを受け入れるだろう、というものです。ただ、実際問題として広田本人の心が不明ですから、次にはご遺族の心を尊重しなければならないのは当然ですが、以下述べるように、ご遺族のお考えを素直に受け止められない部分があります。

 この本では、大東亜戦争開戦直前の段階から敗戦・被占領・東京裁判の段階まで、いわゆる戦争指導者たちの動きが広田を軸として描かれております。当然、そこには軍部指導者も大勢描かれているのですが、作者の城山三郎は、なんとその全てを「悪」として描いているのです。軍人達はいかにも頑固で短絡的で好戦的で、戦争を止めようとする広田の努力をことごとく潰す、そんな悪人に描いてあるのです。驚くべきことに、ほとんど全ての記述がそうなのです。
 そして、決定的なのが「(ほぼその事実は無かったと考えられている)南京大虐殺」があったとして、それに対応する政府の動きなどをリアルに描いている部分です。(ほぼ無かった訳ですから、悪く言えば捏造です。)これは、明らかに東京裁判の結果を受け、あるいは洞富雄という偏向した作家の「南京事件」をそのまま援用していることによる結果なのです。この本(落日燃ゆ)が上梓された昭和49年時点では、現在のように事件の解明が進んでいなかったこともあるでしょうが、上に記したように軍を唾棄すべき物とする視点があるものですから、極めてイージーな資料の取り扱い方をしているといってよいのではないでしょうか。
 いうなれば、城山三郎は(少なくともこの時点では)東京裁判史観に完全に染まっていたといってよいでしょう。そして、不幸なことにこの本は昭和49年の毎日出版文化賞と吉川英治文学賞を受賞してしまいました。当然、広田弘毅のご遺族もこの本を読まれ、大きな影響を受けておられる思われます。したがって、冒頭のような発言に至っていると思うのです。

 さて、この本は、(気持ちの悪いくらい)広田を目一杯に持ち上げた内容になっているのですが、果たしてそう言えるのでしょうか。著者が何度も取り上げている「自ら計らわぬ」というのが、そんなに素晴らしいことなのでしょうか。
 というのが、広田は東京裁判において、最後まで積極的な行動を全くしないのです。自分自身には戦争についての責任があるとして、自ら口を開くことをしませんでした。「自ら計らわず」ということなのでしょうが、この裁判は広田弘毅個人を裁くことのみならず、日本を裁くことを目的としたものであることが彼の念頭から抜けておりました。一国の宰相を務めるほどの見識を持ちながら、また、実際の裁判の渦中に身を置きながら、この重要なことに思いが至らなかったのでしょうか。東條英機などが正々堂々国家の弁護を行なっていた状況を彼はどのように見ていたのでしょうか。ひょっとしたら随分身勝手な人間性であったのではないでしょうか。
 広田には、彼のことを悪し様にいうあだ名が着いています(能力の低いことを言ったものだったと思いますが、正確には失念)。もしかしたら、彼はこの本で書かれているような「スーパー」ではなく、総合的に見ると、むしろあだ名の方に近かったのではないでしょうか。(少し言い過ぎかもしれませんが、総合的に見ると、です。)

 本の記述の中に次のようなものがあります。
<引用開始>
(連合艦隊司令長官山本五十六からの葉書を見ながら。その葉書の中には、)
短いご無沙汰の挨拶の後、
「花ならば、今が見ごろ」とあった。
「博打うちじゃあるまいし」
広田は、吐き捨てるように言った。
「山本はそれでいいかもしれんが、国はどうなる。国家というものは、永く続くことが大事なんだ。君が代にも、さざれ石の巌となりて苔のむすまでとあるじゃないか。それなのに…。」
<引用終り>
(本当にこのとおりの言葉があったかどうか、引用元も示されておりませんし、小説ですから目くじらを立てるほどではないと思いますが)山本長官の「非まじめさ」と広田弘毅の「まじめさ、巾のなさ」が私には感じられます。また、もしこの発言が事実であったのなら、東京裁判では東條と並んで国家の弁護に努力すべきであったはずです。

 
 以上のように、冒頭の広田弘毅のお孫さんのご意見については、やはり私は同意できません。また、全体として城山三郎の筆致に疑問がありますし、広田個人にも疑問を持ちました。

 でも考えてみれば、この本は歴史小説です。
 そして、その歴史小説にも濃淡色々あって、これなどは歴史的事実から少し離れた、更には少し赤い色がついた小説といってよいでしょう。ただし、司馬遼太郎の名作「坂の上の雲」のように、国民全体に大きな影響を与える場合もあるわけですので、注意して書かなければならないし、同じく注意して読む必要があると思いますね。

 この作品は総括すると、東京裁判史観をもって描かれた作品で、文民=善、軍(人)=悪に色分けの濃い、大変にバランスを欠いた歴史小説風の小説といえると思います。私の評価は45点です。

 

18.7.20人間魚雷回天/小灘利春/ザメディアジョン
 最初に写真の紹介です。左の写真は出撃前、桜の枝を手に持って、見送りに答えている風景です。笑みが見えます。
 私の仕事場の上司にあたる田○部長が、広島県呉市の大和ミュージアムを見学した際に、感激のあまりそこで売っていたこの本を購入し、右翼である私にさっそく貸してくれたものです。

 この本は、全国回天会の会長(海兵72期、回天隊隊長(待機中に終戦))ほかの関係者の方々の監修によって作成された回天に関する写真記録集です。
 内容の構成は、回天そのものの解説、基地及び訓練、攻撃隊ごとの戦闘状況、遺書、1人ひとりの搭乗員の顔写真となっています。

 回天は簡単に言えば、93式魚雷(炸薬1.5d)をベースにして、これに人間という誘導装置を搭載するための操縦席を取り付けたものです。誘導は基本的に自動操縦で、これに手動による操縦がオーバーライドできるというもののようです。針路は、ジャイロによって調停された方位が維持され、深度も調停された深度に自動で制御されるようです。
 
 基本的な運用は、次のようです。
 潜水艦に取り付けられた状態で作戦海域に進出し、潜水艦艦長が攻撃を決心した後、搭乗員が連接された通路(交通筒)を通って回天に移乗します。所要の距離になったところで、エンジン始動、ジャイロ調停(これはもっと早い時期かもしれない)、固定バンドの開放、その直後、それまでに連絡用に使用していた電話線を引きちぎりながら発進していきます。
 途中、目標を自らの潜望鏡で確認して、最終の突入となります。敵艦に衝突する直前に、搭乗員は信管に繋がったハンドルに手を添え、衝突の衝撃で体重がそれに掛かるような姿勢をとります。そして、…。
 最後は、自らが信管となるのですね。
 
 訓練は、困難を極めたようです。回天はもともとが魚雷ですから、一回しか使用しないことを前提に設計してあります。エンジンなども、一回限りきちんと動けばよい訳です。ところが、訓練を行なうに際しては、繰り返し使用しなければなりません。このために毎回、分解して検査・手入れを行なったそうです。現在のような品質管理が十分でなかった当時、整備担当の将兵の苦労は相当なものであったようです。そして、事故による殉職も何回か起こっています。実戦はもちろんのこと訓練も決死であったわけです。

 エンジンは純酸素とケロシン(白灯油)を燃料とし、両者を燃焼室で一気に燃焼させ、そこに海水を噴霧し、膨大な高圧高温蒸気を発生させ、これで2気筒ピストンエンジンを駆動するというものです。排ガスは蒸気ですから、航跡も出にくいという訳です。
 その他にも種々の工夫が施されており、なかなかのものであったようです。ゼロ戦にしてもそうですが、こういう分野の技術力はたいしたものでした。

 基地は周防灘を囲むようにして何箇所か設けてありました。訓練に主眼がおかれたのでしょう。

 回天作戦(9ヶ月)で戦没された隊員は1229名。そのうち回天搭乗員106名、回天を搭載して出撃の潜水艦乗り組員812名、その他基地関係員等々、です。潜水艦乗組員の戦死者が一番多かったのですね。
 
 辞世の句がいくつか紹介してあります。
 そのなかで私の心に残った句。
 「敵の前五十でざまあみやがれと 叫んだその声聞かせたい
 海軍少尉 今西太一(25) 1944.11.20 ウルシー海域にて突入 慶応出身予備学生

 下に載せた写真からも伺えるのですが、実にさばさばとしています。ここに至るまでには、あるいはその後でも、大変な苦悩を味わったはずです。そして、自分達なりに気持ちの整理をして、心のほぞを決めた訳です。

 以下、写真を載せます。いずれも、上司などが入った、かしこまった記念写真ではありません。仲間で撮った記念写真です。皆、実ににこやかな顔です。知覧の特攻記念館でも同様な写真がありました
 今も昔も変わらない、青年たちの底抜けの明るさが感じられます。
 死が確約されているのですが、こうしてふっきれられるということなのですね。
 分かるような分からないような、そんな気持ちです。







 私達は、こういう人たちが居たのだということを少なくとも知ってあげなければならないし、あわせて感謝の気持ちを持たなければならないと思います。

 
18.7.4逝きし世の面影/渡辺京二/平凡社ライブラリー
 以前、イザベラバードの「朝鮮紀行」という本を大変興味深く読みました。大変優れたドキュメンタリーであるとともに、日本人の優れた特性が支那朝鮮との比較において活写されている点に興味を覚えたのでした。
 この「逝きし世の面影」も、ジャンル的にはこの「朝鮮紀行」と同様の本でありまして、当時の非常に多くの外国人による日本についてのコメント集といってよいと思います。
 以下に記しますが、かって「豊かなバラ色の日本」は確かにあったのです。私達は、日本人にもっと自信を持つべきです。そして、それを取り戻さなければなりません。

 ペリーの浦賀来航以来、多くの西洋人が日本にやってきました。
 江戸末期から明治にかけて、大使、その家族、旅行家、船員、軍人、教員、学者、画家・・・等々が大いなる好奇心をもって、日本に上陸してきたのです。そして、そういう人たちが、日本についての上質の記録を大量に残していまして、著者はその膨大な資料をベースにしてその頃の日本の姿を再現してくれているのです。
 この本に繰り広げられているのは、私たちのご先祖様たちの生き方、考え方でして、単なる写真集などからは解らない、一段深い内容なのです。

 さて、その頃の日本の姿なのですが、あえて一言で言えば大変「豊かな世界」であったのです。
 その「豊かさ」とは、単なるモノやお金ではなく、個々人の心のなかにある充足感、幸福感のようなものなのです。その点で、当時は大変豊かだったと思います。親が子を殺し、子が親を殺すということが頻発している現代。これは、決して豊かとはいえません。この「豊かさ」を私たちは失ってしまいました。だから、著者は「逝きし世」と、当時を偲んでいるのです。
 この本は文庫本ですが、厚さは約3p、約600頁、学術研究書といっても良い内容になっています。そして、この分厚い本のなかには、西洋人たちが遺した数々の文献によって、この豊かさが事細かに例証されているのです。
 その目次からざっと取り上げましても、「陽気な人々」「簡素とゆたかさ」「親和と礼節」「雑多と充溢」「子どもの楽園」「風景とコスモス」…等々、「豊かな世界」であったことが伺われます。

 少しその内容に触れてみたいと思います。(以下、「■記録者(その人の紹介);内容」の順になっています。)
■オリファント(1858、日英修好通商条約締結のために来日したエルギン卿(使節団)の個人秘書)。彼は、これまでに、セイロン、エジプト、ネパール、ロシア、中国についての見聞をもち、旅行記も書いています。その彼が「バラ色の日本」を強調します。
;「個人が共同体の犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべきことである。」「…来る日来る日が、われわれがその中にいた国民の、友好的で寛容な性格の鮮やかな証拠を与えてくれた。…」「日本人は私がこれまで会った中で、最も好感のもてる国民で、日本は貧しさや物乞いのまったくない唯一の国です」(39p)

■オズボーン(同、使節団の使用した船の船長)の記述。日本人の色彩感覚について書いています。そして、これらは全ての外国人観察者が共通に認めたことである、と著者は付け加えています。
;「あらゆる階級の普段着の色は黒かダークブルーで模様は多様だ。だが女は適当に大目に見られており、もちろん、その特権を行使して、ずっと明るい色の衣服を着ている。それでも彼女らは趣味が良いので、けばけばしい色は一般に避けられる。」(44p)

■ゴンチャロフ(1853、プーチャーチン使節団の一員)の記述。
;応接の役人たちの服装をみて、「その中にどぎつい鮮明な色がな」く「原色のままのはひとつも無く」「全てが混和色の和やかな軟い色調である」。また「ひとことでいうと(ヨーロッパの)最新の流行色が全部揃っていた」。(46p)

■オールコック(初代駐日英国公使)
「日本人はいろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる」

■ペリー;「人々は幸福で満足そう」(74p)

■ティリー(1859、ロシア艦隊の一員として訪日した英国人)
;函館の印象として「健康と満足は男女とこどもの顔に書いてある」(74p)

■イザベラ・バード(ここを見て
;東北地方を馬で縦断中の青森県黒石で「(泥で塗り固めたような)住居の前で腰まで裸で据わっている人々の表情が『みな落ち着いた満足』を示していた」と書きとどめています。(76p)

■リンダウ(スイス通商調査団長、駐日スイス領事)
;「この民族は笑い上戸である」「日本人ほど愉快になり易い人種はほとんどあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子どものように、笑い始めると、理由もなく笑い始めるのである。」(76p)

■ベルク(オイレンブルク使節団)
;彼らは「話し合うときには冗談と笑いが興を添える。日本人は生まれつきそういう気質があるのである。」(77p)

■メーチニコフ(1874、東京外語学校、ロシア語教師)
;「のべつまくなしに冗談をとばしては笑い転げるわが人足たち」に見とれずにはおられなかった。(77p)

■ボーボワール
;豪州、ジャワ、タイ、中国の歴訪後「日本は、この旅行全体を通じ、歩きまわった国の中で一番素晴らしい」。なかでも「本当の見もの」は美術でも演劇でも自然でもなく、「時々刻々の光景、…」。日本人の「顔つきはいきいきとして愛想良く、才走った風があり、これは最初の一目でぴんと来た」。女たちは「にこやかで小意気、陽気で桜色」をしている。

■アンベール(1863、スイス遣日使節団長)
;農村を歩き回っていると、人々は農家に招き入れ、庭の一番美しい花を切り取って持たせてくれ、しかも絶対に代金を受け取らないのだった。

■イザベラバード(前出)
;その日の旅程を終えて宿に着いたとき、馬の革帯がひとつ無くなっていた。「もう暗くなっていたのに、その男はそれを捜しに1里も引き返し、私が何銭かあたえようとしたのを、目的地まで全てのものをきちんと届けるのが自分の責任だと言って拒んだ。」「ヨーロッパの国の多くや、ところによってはたしかに我が国でも、女性が外国の衣装でひとり旅をすれば現実の危険はないとしても、無礼や侮辱にあったり、金をぼられたりすすものだが、私は一度たりと無礼な目に会わなかったし、法外な料金をふっかけられたこともない。」

■ブスケ(1872、司法省顧問)
;日光旅行の際の駕篭かきについて「彼らはあまり欲もなく、いつも満足して喜んでさえおり、…、このような庶民階級に至るまで、行儀は申し分ない。」

■アンベール(1863、スイス遣日使節団長)
;「江戸庶民の特徴」として、「社交好きな本能、上機嫌な素質、当意即妙の才」をあげ、さらには「日本人の働く階級の人たちの著しい特徴」として、「陽気なこと。気質がさっぱりとして物に拘泥しないこと、子どものようにいかにも天真爛漫であること」を挙げる。

…きりがないので、ひとまず例証はおきます。
 いずれにせよ、この本ではこの調子が延々として続くのです。もちろん、例外もあったはずですが、圧倒的な量のこれらの好意的な証言からすれば、まちがいなくバラ色の日本があったといえるでしょう。
 農村も例外ではなく、幸福で安楽な表情で満ちていた、という記述が溢れています。
 このことは、「徳川時代の農民生活は困窮の極みであった。」という俗説とおおいに反しています。実際、農村もバラ色であったという証明がトマス・スミス(「徳川時代の年貢」東大出版1965)によってなされています。
<要約引用>
 これまでに歴史家は、検地によって査定された石高に対する年貢の比率(五公五民)の高さから、過酷な収奪があったとしている。しかし、一般に検地は1700年以来ほとんど行われず、19世紀の中ごろには年貢は100年から150年前の査定を基礎としていたのだ。このように査定石高が固定していた一方で農業生産性は絶えず向上し、作物の収量も増加した。生産性の向上は、食料の輸入なしに、この時期を通じて都市人口が顕著に増大したことからも明らかである。その一方で税率は低下しているわけだから、農民側に余剰が次第に蓄積されていったことは疑いようがない。すなわち、江戸時代後期においては、課税は没収的にはなく、時とともに軽くなったのである。
<引用終>
 農民が権力側から収奪を受けていた、というのは、マルクスレーニンの「階級闘争史観」の産物でして、私達はそういう刷り込みを受けているのです。(これを、毎週のテレビ番組「水戸黄門」が助長していますね。)

再び、例証を少し。
■アーノルド
「日本には、礼節によって生活を楽しいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、『やかましい』人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりになにか要求するような人物は、男でも女でも嫌われる」

■メアリー・フレーザー(1889、新任英国公使夫人)
「この国の下層の人々は、天が創造し給うたさまざまな下層の人間のなかで、もっとも生き生きとして愉快な人々である」

■ベルク
大名行列への平伏について、たしかに先触れは「下にいろ」と叫ぶが、彼は、実際の平伏シーンは一度も見なかったといっている。というのは、民衆が行列を避けるからで、彼の見るところでは彼らは「この権力者をさほど気にしていないのが常」であり、「大部分のものは平然と仕事をしていた」。
またスミス主教のいうところでは、尾張侯の行列が神奈川宿を通過するのに2時間かかったが、民衆がひざまづいたのは尾張候本人とそれに続く四、五台の乗り物に対してだけで、それが通り過ぎた後では「ひざまづく必要から解除されたものとみなして。立ち上がって残りの行列を見ていた」とのことである。

■リュードルフほか
「日本の女性は一般に、健康ではつらつとした様子をしていた。」
下田の娘達の「立ち居振る舞いは大いに活発であり、自主的である。」という。つまり、日本の女達は、少なくとも庶民の女たちは、観察者たちにけっして抑圧された印象を与えはしなかったのだ。
 著者は、次のようにいう。
徳川期の女性はたてまえとしては三従の教えや「女大学」などで縛られ、男に隷属する一面があったかもしれないが、現実は以外に自由で、男性に対しても平等克自主的であったようだ。…徳川期の女の一生は武家庶民の別を問わず、そう窮屈なものではなく、人と生まれて過ごすに値する一生であったようだ。悲惨な局面があったように見えるとすれば、それは現代人の目からそう見えるだけで、それも一種の知的傲慢であるのかもしれない。」

 …そう、一種の知的傲慢なのです。今の私たちの感覚で歴史を判断しているのですね。農民も、町民も、女もひどい生活環境や低い地位に貶められていたというのは、間違いのようです。この本のほかの項目にでてくることですが、子供が非常に大切にされており、あたかも大人と同等にみなされている様子が描かれています。また、犬もまた、いわば仲間として扱われている(当時犬が溢れるほど居たようです)のです。これは、日本人の平等意識の現われだと思われます。(他の本に書いてあったのですが)日本人の平等意識というのは徹底しておりまして、草木や石ころも含めて平等だというのです。従って、犬や子供も平等であるのは当然であって、女、農民…、すべて平等なのですね。

 また、大名行列などもそれが露骨でなければ実際はうまく無視していたようです。そして、大名側も「しょうがねぇなぁ」といった感じでそれをとやかくは言わなかったのでしょう。なんとなく、私たちの今の感覚と合っていると思いませんか?そうです。長年にわたって作り上げられて気質が、そんなに簡単に変わるはずはありません。私達は、すーっと繋がっているのです。


 もっと、書き記したいことがたくさんあるのですが、最後は、江戸期の風景です。
 左の挿絵は、「江戸近郊の茶屋」です。外国人の目にはこれが、まさに一幅の絵のように見えるのですね。もちろん今の私達の目にも、そう見えます。この雰囲気が、江戸を中心にしてグラジュエーションで、郊外まで広がっていたということです。
 私が、ビックリしましたのは、屋根の一番高いところにに見える雑草のような部分ですが、これは「いちはつ」という花なのです。お家の屋根を花で飾っているのです。店先には藤棚が見えますし、庭先にも植え込みがあるようです。そして、小川との関連付け等など、相当の飾り付けがなされているのですが、その他に、この屋根の飾り。これらを、恐らく金持ちではない茶屋がやっているのですね。それも代々にわたって、です。
 お金やモノではない、違う豊かさあると思うのは、ここなのですね。

 左の挿絵は、「江戸郊外の農家」です。
 シッドモアという人がこんな記述を残しています。
 「この道路に面した百姓家は絵のように美しく、とても実利一点張りの用途を持つものとは思えない。現実のすみかというよりは、むしろ今まさに巻いて片付けようとする舞台装置の絵のようなのだ。」
 このように、舞台装置のようだ、という感じ方は江戸の街中の描写の中にも多く見られます。そこには、今と違う精神的なゆとりのようなものがあった、と思わせます。
 なお、、左の挿絵の屋根にも「いちはつ」が植えられています。
 屋根に花が植えられていて、それが比較的一般的であるという国が他にあるでしょうか。

 右は「いちはつ」の花。

18.6.23

東京裁判の呪ひ/小堀桂一郎/PHP

 小堀先生の本は、本当に中身が濃いと思います。内容そのものが濃いということはもちろんですが、文章に無駄がなくまた実に適切な用語が駆使されておりまして、その意味でも濃いものになっています。
 従って、読む際にはその一語一語を玩味しながら読み進んでいかなければならない訳ですが、文章構成が大変分かりやすいものになっておりますのですらすらと理解することができます。さらに、先生の文章は旧仮名遣いで書いてあるのですが、これが不思議なくらいに苦にならずに読めるのです。

 さて、この本、いたるところで膝を叩くような内容になっているのですが、3点ほど感じたところを記したいと思います。

1 「戦争謝罪」という、世界史上空前にして絶後の着想
 平成7年、村山首相、土井たか子衆議院議長という史上最悪コンビの時に「国会における戦後50年謝罪決議」なるものが採決された。これを受けての小堀先生の論である。
 昭和16年12月8日、日本は対米英に対して宣戦布告をし、戦争状態に入った。米英は翌日対日宣戦布告、中国(重慶政府)とオランダは既に対日宣戦布告をしていた。(このように相互に宣戦布告すること自体は、実は重要ではなく、)国際法的には、ある国は宣戦布告によって相手国との間に戦争という法的な状態を作り得る。すなわち一方的な宣戦布告によって、相互的な関係としての戦争状態が出現するのである。受けないということはありえず、それは戦闘前の降伏を意味する。
 ここで重要なことは相互に納得づくで戦ったのだということである。もしここで、一方が降伏の意思表示をし、そういう相手に武力を行使したとすれば、ここに初めて一方的な関係が生じるのであって、それをなしたのが停戦後におけるソ連であるのだ。戦争とは、完全な相互関係である。停戦後のソ連はそれに該当せず、一方的なものであるから戦争法規違反である。
 このような場合こそ、被害者に向けての謝罪とか補償がなければならない。しかし、日本の場合ももちろん含めて、相互関係にある戦争に関して、その終了後に一方が他方に対して謝罪するなどという必然性はそもそも全くないのである。
 まして、日本はサンフランシスコ平和条約及びその後の個別協約により法的に完全に清算を終っているのである。
 すなわち、国会決議は2重の過ちを犯しているのだ。
 (歴史上の問題を政治的に評価するという過ちを加えれば3重の過ちである。)
 なぜ、そのような愚挙をなしたか。
 小堀先生は、大衆のある部分(国内の反体性分子;左翼政党)に対する迎合の上に、自分達の私利私欲、党利党略の欲望を満たそうとした結果である、と断じる。そして、このことで生じる3つ害悪を述べておられる。(細部省略)
 ・国内人心の二分という災い。
 ・世界の歴史に全く日本独自の解釈を国会で下すという恥を世界にさらすという愚。
 ・外交的敗北。

2 大東亜戦争の開戦に関わる東條英機の評価
 東條英機に対する評価は、誰に聞いても相当低い。極端には、「負けると分かり切っている戦争を始めた元凶」とまで言う人さえ居る。しかし、戦争に負けた作戦指導上の責任はあっても、開戦の責任はないといってよい。戦争は社会現象であるが、実体としてはその複雑さゆえに一種の自然現象的な事象であるからだ。さらに、この戦争は、白人優位の人種偏見をその基調低音として、そもそもアメリカが仕掛けてきた戦争であるし、自国を滅亡させようとして、いわれるような「負けると分かっている」戦争を始めるなどということなどあり得ないからである。そこには、間違いなく「究極の選択」を繰り返しながら、国のために良かれと判断して始めた戦争であったはずである。
 本文に次の記述。
 <引用開始>東條は軍人として、…、ほとんど直観的に、アメリカの要求を入れてシナ大陸全土から日本陸軍が撤退したらどんなことになるかという結果については考えていたであろう。東條の強硬な意見だけを指して、彼を好戦的な人物だと見るのは、この国際関係の背景についての無知からくる短見である。忠実な「臣下」であった東條は、天皇の平和堅持という意思と日本を追い詰める国際関係の不条理とのジレンマで悩み、苦闘する。
 しかし、それはアメリカの強引な国際伸張意思とは絶対に相容れない、徒労に終るほかない苦闘だった。アメリカはとにかく日本を大陸から排除してしましたい。もしおとなしく出てゆかないのなら戦争に訴えるというのは既定の戦略路線だった。<引用終わり>

3 人倫の普遍性を目指した「教育勅語」
 教育勅語には、目指すべき人倫について極めて簡潔に述べられています。父母への孝養、兄弟間の友睦、夫婦の相愛、朋友間の信義、又恭倹と博愛、就学修業の勧め、智能の啓発、徳器の成就(特性の練磨)がその内容です。これらは、全て私たちの心にしっくりと入ってきます。これを、子どもたちの道徳教育などで唱和するだけで随分世の中が変わると思いますね。
 下に、この勅語の価値を絶妙な表現で書いてある部分を要約します。
 <要約>明治維新がなって20年後、近代国家として諸制度の整備が一段落着いた1980年、明治天皇の教育勅語が国民に下賜された。これは、この20年に形作られた目に見える形による、いわば功利的な建設作業には必然的に欠落している、精神・道徳面での前進のための指針であった。これだけの大建設事業に、本来先行すべくしてなお欠けていた理念の提示、その大きな空白を補うのに、この勅語が示している文言の短さ、簡潔さはある意味で驚くに足ります。
 これに依って観るに、精神の高さというのは、質量を以ってしても空間的延長を以ってしても計測することの出来ない精妙な霊の動きであって、秤皿の一方に二十年余にわたる国土・都市・文明の諸施設の充実という巨大な実体を載せながら、他方の皿には唯一枚の紙片に記した言葉で均衡を保ってしまう、そうした不思議な作用を持つものが言葉なのだということが良く分かるのです。<要約終わり>
 小堀先生は、このあと、この教育勅語を新しいアジアの哲学となすべきとの提言をされております。最近、日本の美点を世界に向けて広げるべき、という動きがみられますが、これなどもその最右翼に位置づけられるものだと思います。ただし、日本がその魁にならなければなりませんが…。
 

18.6.13

自民党「橋本派」の大罪/屋山太郎/扶桑社
 橋本元総理には日本歯科医師連盟からの1億円献金疑惑があり、限りなく黒に近い印象がありましたが、それは結局うやむやになってしまいました。しかし、ご本人は(当然のことですが)一応はみずからのご判断で政界を去られました。しかし、このことは、「実は1億円の献金を受けたのだ」ということをギリギリの形でお認めになったのだと私は思っています。

 橋本元総理というと、剣道6段の腕前も持っておられることや、比較的端正なマスクであることや、日米交渉、日露交渉などの外交面でもタフネゴシエータと評されたり、ということから好印象を受けるのですが、実際はかなり違うようです。
 それをひとことで言えば、一国の総理大臣として必須のものである強固な国家観・公的精神に欠けているということであります。(もっとも、我が国ではこの面で太鼓判が押せる国会議員を探すことが難しいという、悲しい状況にある訳ですが・・・。)
 
 この本を読みますと、橋本さんはあの田中角栄をルーツとする金権政治をしっかりと引き継いでおり、「金」を媒介にして、自分たちの利を追い求めるという心根があることを見て取ることが出来ます。
 そういう観点から歴代総理大臣の顔ぶれを、田中角栄以前と以後とに分けて見ると、両者には大変大きな違いがあることが分かります。
 田中角栄以前を遡ると、佐藤栄作、池田勇人、岸信介、石橋湛山、鳩山一郎、吉田茂・・・となるのですが、これらの方には、それぞれに苦難の中をある種の覚悟を持って国家の舵取りをしたという印象を受けます。例えば、日米安保条約に関わった吉田、岸両首相の判断力と実行力には深い尊敬を覚えるほどです。
 ところが田中角栄以後を見ると、三木、福田、大平、鈴木、中曽根、竹下、宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山、橋本・・となるのですが、大平さんを除いてそれぞれの経歴について最初に思い浮かぶのは、まず汚点なのですね。
 この両者の差異というのは、国家の運営に求められる「公」を最優先にした判断基準のセンスの良し悪しであると思いますが、田中角栄以後の方々にはそれが薄いというか極端には欠如しているとように感じます。

 橋本さんについて言えば、火達磨(ひだるま)になって行財政改革をやるという大看板をすぐに思い起こしますが、結局は議員(自分も含む)や官僚のエゴに負けてしまって何も出来ませんでした。もっとも、そもそもがあまりにもお金にまみれてしまっているから、その体質を変えることなど出来るはずもなかったと言って良いのでしょう。
 また、外交の面でも(その端正な外見に反して)凛としたところはありませんでした。ペルー大使館人質事件ではアンパンを運ぶ位のことしかしなかったし(フジモリ大統領との差は月とすっぽんでした)、中国の女性公安には絡めとられてしまうし、足元総理と揶揄されるような謝罪外交しか出来なかったし、・・・まったく失望の限りです。

 もちろん、橋本さんひとりが悪いのではなく、その器量に不釣合いな権力の座についてしまった国会議員や官僚達からなる利己追求集団の存在がその元凶と言えるでしょう。(もちろん、だからといって総理という地位についた者がその責任はまぬがれ得るものではありません。)この利己追求集団の跳梁跋扈というのはやはり田中角栄を分岐点として生じた戦後日本の典型的な姿なのかも知れません。

 各々の幸せの追求は庶民のレベルであれば問題は小さいのですが、国家運営に任ずる人たちがそうであるのは誠に残念なことです。
 藤原正彦氏が言う「真のエリート」の出現が本当に望まれます。

 (この点、前回の「白洲次郎」などは真のエリートといって良いですね。)

18.6.6

白洲次郎 占領を背負った男/北康利/講談社

 私はこれまで、白洲次郎という名前と彼の言葉『「今に見ていろ」トイフ気持抑へ切レス』しか知りませんでした。この本を読んで、凄い日本人がいたということ、占領期当時のGHQの横暴とそれに立ち向かう日本があったことを知りました。

 白洲次郎は明治35年現在の芦屋市の大富豪の家に生まれ19歳でケンブリッジ大学に留学。占領期から戦後に掛けては、吉田茂に見込まれて、実質、日本を背負っての活躍をしました。読み終わって、著者があとがきに記しているように、高倉健の映画を見終わったような感覚が残ります。それほど、颯爽とした欲得のない実に美しい生き方をしているのです。

 占領期当時、日本の敵はGHQ、とりわけ民政局でした。(ちなみに、「民政局」は日本独特の自己欺瞞の翻訳でして、英語ではGoverment Sectionですから「統治局」が実体を良くあらわしています。) その局長はホイットニー准将、次長はケーディス大佐でして、ケーディス大佐に至っては本国でのニューディル政策に染まっており、日本という真っ白なキャンパスにそのニューディルを展開しようと張り切って来日した人物です。両者とも出身は弁護士でして、日本としては大変迷惑な2人でした。

 この「統治局」のカウンターパートに位置したのが終戦連絡事務局(終連)でして、政府とGHQの間の折衝を行なうために新設された役所です。その参与として、吉田茂に見込まれて、民間人に過ぎない白洲次郎がその重責を担うことになった訳です。当時あらゆる指示はGHQから発せられる訳ですから極めて重要な部署であった訳です。

 GHQは公職追放という強力な鞭を使いながら、日本を振り回しに掛かってきます。これに対して、立派なのは、「戦争に負けただけで、奴隷になった訳ではない」という白洲次郎らのスタンスです。実際に身に降りかかってくる火の粉を払いながらのこの言葉です。現代とは、正反対なのですね。なんとなく友好が第一だからと、中国様の言葉をそのまま聞こう、という今の多くの政治家とはまったく雲泥の差です。

 冒頭の『「今に見ていろ」トイフ気持抑へ切レス』という言葉は、憲法改正(押し付け)の際の言葉です。当初は、日本独自案で憲法を作ろうとするのですが、米軍の手によって適当に作成された憲法を、天皇のお身柄をカードにして飲まされてしまうのです。
 この辺りの経緯を知れば、一部学者などの意見にあるように、この憲法は一旦破棄してしまうべきでしょう。
 また、世の中に憲法学者という人たちが存在し(そういえば土井たか子という人も憲法学者という触れ込みでした)、概ね護憲を唱えておられますが、まことにケッタイなことです。
  (なお、直接関係ありませんが、この憲法策定プロジェクト名が「真珠の首飾り」というのは初めて知りました。グレンミラーの名曲と同一ですが、これと日本の名産である真珠とを引っ掛けたのでしょうか。ちなみに私はグレンミラーのファンです。)

 白洲次郎は、通商産業省を立ち上げ、復興の基盤を確立します。なみいる政治家や官僚を差しおいてのこの成果ですから、その力は並大抵のものではありません。そして、通産省が軌道に乗ると、さっと身を引き、次は東北電力の会長として只見川開発の指揮をとり、これを稼働させます。このようにして、占領初期の政治的活動の後は、経済の面でまさに内外に向けての態勢を完整するのですね。

 そして、最後のエピソードは、吉田茂の随行として参加したサンフランシスコ講和会議でのことです。外務省がGHQにおもねって作成した英文の吉田演説草稿を見た白洲次郎は、必死に抵抗する外務省の反対を押し切って、その直前に日本語で書き直したのです。まさに演説の直前に作業をし、巻紙に書いた文字もまちまちで、つぎはぎだらけの原稿になったという状況でした。
 外務省の、あいも変わらぬ卑しい心情とこれをギリギリで変えさせた男の「プリンシプル」との対比が際立った情景がそこにありました。

 このようなかっこよい人生は、私には全く実行不可能なものです。しかし、多少はまねしたいですし、多少は近づきたいと思います。
 そして、もうひとつ。
 私達は、このような歴史上大きな役割を演じた先人達のことを少なくとも知るべきです。失礼な言い方ですが、少なくとも知ってさしあげるべきだと思います。

18.4.1

教室から消えた「物を見る目」、「歴史を見る目」/小柳陽太郎/草思社

 著者は大正12年(1923)生まれ。
 東大文学部−学徒出陣−九大文学部−修猷館高校教諭−九州造形短期大学教授・・・というご経歴です。戦前・戦中・戦後と、じっくりと日本を見てきて来られた訳でして、この本では特に教育分野の現状を大変鋭く分析されています。私が感得したのは、「抹殺された漢字、歪められた古典」の項でした(24p)。

 「新学期が始まって、現代国語の教科書を手にすると、いつも心が痛むのは、漢字による表記のあまりにもひどい無秩序ぶりである。」に始まります。
 素晴らしい文章が載っていても、「原文に用いられた漢字は、例によって大幅に削除されて」おり、安易にひら仮名で表現されている、ということです。
 たとえば、「『たそがれ』も『黄昏』という字は使われて」おらず、それが当て字だからということらしいのですが、「むしろこの当て字の中にたたえられた美しさこそ生徒の心に刻むべき大切な教材ではないか。」、「ほのぐらく光を消していく夕暮れの情景をいみじくもとらえた『黄昏』という漢語に、『たそがれ』というやまと言葉をあてた繊細なこころばせも、ここではいっさい通用しない。」とおっしゃています。
 この他にも多くの例をあげて説明をされ、この問題は直接的には「当用漢字、常用漢字」による制約という点にあるのですが、その根本には教育界にいる人たちの心にある、「異常な文化感覚、もっと端的に言えば過去の文化遺産に対する徹底した傲慢さだ」との指摘なのです。
 本来は、原典を損なわないように「万全の配慮」をしなければならないのに、「教育的配慮のもとに」お手軽に変更され、教育の根幹であるべき「文化の継承」が損なわれてしまっているのです。
 
 なぜ、そうなるのか。
 それは、おそらく「教育のためであれば、過去の文献に少々手を加えるぐらいは許される。」という、本来とは逆の恐るべき考え方が蔓延しているからだ、と著者は指摘します。
 では、その「教育的配慮」とは何か。
 端的に言って、子供へのおもねりです。漢字習得の負担を軽くしてあげたい・・・などという考えなのです。言い換えれば「文化に子供を適合させるのではなく、子供に文化を適合させるという恐るべき文化感覚」なのです。
 このことは国語教育にとどまらず、平和教育と称して戦争を単に悪であるとし、先人達の尊い努力や業績を否定したり、日本の歴史上、常に重要な役割を果たしてこられた歴代天皇の事跡を避けたり、これを要するに、過去の文化を自らの判断で左右できるという教育者独特の感覚、つまりは傲慢の表れなのです。
 著者は、さらに同様の例を挙げ、教育の惨状を示し、最後にこのように纏めておられます。
 「ここに共通して見られる言語観は、言葉とその言葉が意味する精神を別けて考えようとする見方だと言える。「(例えば、十七条憲法の)和を以って尊しとなす」を「たがいになかよくせよ」と教科書に書いても、表現は別でも同じ内容を示すという考え方だ。(原文の持つ張りつめた思いも無惨に砕けてしまうし、原文のもつ言葉のしらべに親しむということも無くなる。)
「だから、光が『翳る』を『かげる』と書こうとも、光が暗くなった事実を伝えさえすればよいではないかということになる。」
 「日本の長い文化の伝統では、言葉と精神、すなわち、言と事とは『コト』という言葉によって不可分の関係に立っていると考えてきた。従って精神を鍛えることは、言葉を鍛えることであり、人々は言葉をととのえることによって精神を鍛えてきたのである。だが、このような言葉に対する厳粛な態度を放棄し、言葉を単なる意思伝達の記号と考えたとき、いかに人の心が衰弱し、そして重みを失ってしまったか。」
 「この異常な文化感覚、文部省も日教組も全てを含めて、教育に携わる者の心を蝕みつつある過去に対する傲慢さ、それに根底から反省を加えない限り、教育界の是正はとうてい望むべくもないことを知らなければならない。」

 「言葉」というのは、本当に不思議な存在です。まさに「言霊」という言葉がそれをぴったり表しています。
 パスカルは「人間は考える葦である」といいました。そして、「考え=言葉そのもの」なのですから、「人間とは言葉で成り立つ存在である」といっても良いのではないでしょうか。
 その言葉も、昨日今日出来上がったものではありません。数千年の時間を積み重ねて、不適なものは淘汰され、洗練されて着ているのです。 著者の言う「文化」なのです。そのことを理解もせずに、今現在の浅薄な考え方だけで変えてしまおうとしているのが、現状なのです。
 これは、改革を叫ぶ某首相に似ています。
 まさに、物言わぬ過去と未来の日本人に対する傲慢ではないかと私には思えます。
 改革と言われるものが、根底にある伝統的なものを確保した上で、必要な修正を加えるというのなら良い。しかし、私には、将来の姿も描かないまま、ただ単にぶっ壊す、といっているように思えます。
 著者が言わんとされることと同じである、と思いました。
 縦軸の観念の欠如のなせる業なのです。

 以上のほかの部分でも、大変内容の濃い本でありました。
 それに、文章が生き生きとしており、無駄がありません。
 本当に良い本でした。

18.3.22

祖国とは国語/藤原正彦/講談社

 藤原先生の随筆集です。今ベストセラーの「国家の品格」の原型にあたる本のようです。
 文章が大変読みやすいのは、御両親の影響があるのだろうと思います。御両親は、作家の新田次郎と藤原てい。私は、藤原ていを知りませんでしたが、満州引き上げの際の体験談を本にされており(「流れる星は生きている」)、ベストスラーになったそうです。

 藤原先生は、国語教育の重要性について力説されておりますが、この御両親の御薫陶、自身の数学者としての経験を通じて得られた御結論だろうと思います。私も全く賛同します。藤原先生が言われる「思考」と「情緒」に必要不可欠なのが「国語(言葉)」なのです。
 
 冒頭に書きましたように、この本は「国家の品格」とほぼ同様の内容になっていますが、全体の約3分の1にわたって書かれた「満洲再訪記」も大変面白かった。特に、20世紀前半からの、満州を舞台にした、日・中・露・米の抗争史は非常に分かりやすくまとめられており、参考になりました。
 ただし、残念なのは、満洲事変・支那事変の頃の日本(関東軍に代表される軍部)を一方的に、悪として捉えておられる点です。これは、苦難の満洲引き上げという体験がその背景にあるものと思いますが、東京裁判史観の影響を受けておられ、それが拭い去られていないように思えます。
 私が思いますのは、たしかに結果的には誤りもあったろうが、それを避けようとした努力があったろうし、またそうできなかった事情もあったろう、ということです。そういう面にも目を向け、語ってもらいたいなぁ、と思うわけです。
 もう少し、わが民族に対する「信頼」を持っても良いのではないでしょうか、ということなのですが、いかがでしょうか。
 「国家の品格」もそうでしたが、藤原先生のお考えになっている「国家」「祖国」が、この考え方とどういう風に繋がっているのか、少し疑問に感じています。


 

 

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