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18.10.25

日本奥地紀行/イザベラ・バード/平凡社

 イザベラ・バードは1879年(明治11年)春、サンフランシスコから横浜に到着しました。
 当時47歳。イギリス人の女性旅行家です。
 外国人女性として初めて、東北地方と北海道を踏破します。同行するのは通訳を兼ねた伊藤青年のみ。
 イザベラおばさんは言葉も通じない発展途上国で、何ヶ月もの不便な旅行をやるわけですから、たいしたおばさんです。風呂とかちょっとした用足しとか、女性だからこそ一層大変だったはずですが、3ヶ月の大旅行をこなしてしまいます。

 6月10日、江戸を皮切りに北上し、当時も観光地であった日光までは、まあまあなんとか普通の旅でしたが、それから先はいわば未開の地を行く探険家のような状況になります。
 この日本奥地紀行の一つのエピソードとして「(馬の装備である)革帯がひとつ紛失していた。もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに1里も戻った。彼にその骨折り賃として何銭かをあげようとしたが、彼は、旅の終わりまで無事に届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受け取らなかった。(171p)」というのがあります。私は、この本はこのようなエピソードで埋まっているかという期待?で読み始めたのですが、思ったよりも悪く書いてある部分が多いのですね。
 その内容は、村々の家屋が汚く悪臭がするとか、蚤が多いとか、人々の衛生状態も相当悪いなどというものです。しかしこれは奥地のいわば貧困の地についてのものでして、やむを得ないところでしょう。そのかわり大きい町(久保田(現秋田))などは、道路でも土足で歩いて良いのかと躊躇するほど美しく、まるで桃源郷のような状況であると描かれています。

 全般にネガティブな表現が多いのですが、ひょっとするとこれには文化の差もあるのかもしれません。例えば、「その地方の比較的大きい家に宿泊したが通された部屋はやはり悪臭がし、庭には黴(かび)が生えており、池には藻が溜まっていた」というような表現がありますが、これはもしかしたら、「部屋の悪臭というのは、普段あまり使わない客間のかび臭さであり、黴(かび)と言っているのは苔庭であり、藻は池にわざと配置されていた」のかもしれません。
 
 そのような違和感を覚える部分も若干ありますが、この本を通して当時の田舎の暮らしぶりがよく分かります。また、日本人の行動様式も基本的にあまり変わっていないように思いました。旅館の同宿者たちの騒々しさ、バードを一目見ようと集まってくる人々の異常なほどの好奇心…などなどです。

18.10.19

壬生義士伝/浅田次郎/文春文庫

 一言で言えば、大変面白い小説でした。
 内容についての感想はひとまず措(お)きまして、久しぶりに心の底から揺さぶられる小説を堪能した、という満足感一杯で読了しました。心の洗濯ができた、といっても良いでしょう。
 
 小説家というのは、なんと凄いのでしょうか。彼の作ったお話のなかに我々をぐいぐいと引き入れて行く。考え抜かれた構成は、我々の脳味噌の一本一本のニューロンをざわめき立たせる。著者は、登場人物たちの心のひだの奥の奥までを、ひとつひとつ手を分け入れるようにして見せてくれる。絵や音や感触などを使うことなくただただ文字を綴ることだけで、読者一人一人の脳内に一大ドラマを展開してくれる。
 小説家というのは、なんと凄いのでしょうか。今回、認識を新たに致しました。

 さて、この本の内容も素晴らしかったと思います。
 私なりの捉え方をすれば、ここに描かれたものは「損得を離れた美の世界」です。巷間言われるところの「人間の命は何よりも尊い」に対するアンチテーゼなのです。
 ただし、そこは小説。単純にそのように言い切っているのではなく、人間の弱さ、醜さなどもからめられながら話が進められていくのですが、それにしても登場人物たちのほとんどは一様に「損得を離れた美」というものをしっかりと認識しています。通常は、損得観念の最上位におかれる人の命という価値を超えて、武士(人間)は更に高位にある精神的価値を守らなければならないというのです。(実は、この物語の舞台である新撰組の隊員は武士の姿をしてはいますが、近藤勇を始めとしてその出自(しゅつじ)は農民や足軽などでありました。それだからこそ、武士になりきろうとして無理に背伸びをしていたのです。その辺りのことが良く描かれています。)
 
 それにしても、そこに描かれているのは今の世の中の全く対極の世界です。
 このような高貴な精神を持った人々の子孫である私達が、なぜこうも変わってしまうのだろうかと、本当に不思議な気がします。落差が非常に大いのです。(私得意の)東京裁判史観に原因を持っていくのは簡単ですがそればかりではないように思われます。
 それにしても、私達は、1センチでも1ミリでも、この先人達の精神に近づきたいものです。

 加えて、この物語では東北盛岡の情景が叙情溢れる筆致で描かれています。これも、あの美しい時代へ、美しい風景へ帰ろう、という著者のメッセージなのでしょう。
 その極めつけは、物語の中で何回も使われる「盛岡の桜は岩を割って咲く」という言葉です。桜の美しさと岩をも割るという力強さ、その両方がうまく織り合わせられた素晴らしい言葉だと思います。

 この本を読みながら、安倍新総理の「美しい日本」という言葉が何度も頭の中を去来しました。安倍さんは、私達に問いかけています。「損得だけで判断して良いのか?」と。
 私は、安倍さんもきっとこの本を読まれていると思いましたが、どうなのでしょうか。

18.10.10

それでいいのか蕎麦打ち男/残間里江子/新潮社

 私も蕎麦打ち男の端くれですので、この題名に惹かれて読んでみました。 ここでいう蕎麦打ち男とは、団塊の世代を指しており、この世代の男たちが蕎麦打ちや陶芸やNPO活動に、いわば逃げ込んでいるということをおっしゃっているのですね。
 このうちの二つ(蕎麦、陶芸)が私のケースにあたっていますことから、心穏やかでない状態で読み進みました。
 この本で著者が伝えたいメッセージは「あとがき」に書いてあります。
 「(蕎麦打ち自体を非難するものでは決してないけれども、)蕎麦を打って家族や友達に振舞って、それだけでいいのかと言いたいのである。蕎麦もいいが、自分自身に向かって人生最後の鞭を打つべきときがきているのではないかと思うのである。安穏な日々を送るのはまだ早い。変化を怖れず、自ら荒野を目指して生きよう。今なら間に合う。きっと出来る。」
 そして、最後に
 「団塊の世代よ、苔むさないよう、いつまでも転がり続けよう!」

 と、言われてましてもどうもしっくり来ません。
 こんな甘ったるい言葉で言われると、心が動くどころか反感さえ覚えました。そればかりに集中しているのではなく、あくまで余暇のの自分の時間を使っている訳ですし、ボランティアにも積極的に参加していますしね。著者も言っていますが、蕎麦打ち、陶芸と言ってもものすごく奥が深いですよ。
 著者が言われたいことは、外向きに力を注げということだと思いますが、それは仕事の面でそうしていますしねぇ。(ただ、私もこうして少しムキになっているところをみると、指摘が多少当たっているからかも知れませんね。)
 
 それにしてもやっぱり、なんでそこまでいわれなきゃいけないのかなぁと思いました。
 

18.9.25

近衛文麿とルーズヴェルト/中川八洋/PHP研究所
 驚くべき内容の本でした。
 近衛文麿首相は共産主義者であり、盧溝橋「事件」を支那「事変」にし、日中「戦争」への道筋をつけたというのです。 そしてそれが大東亜戦争に繋がっていきます。近衛首相は、日本を共産国家にするために戦争を拡大していった、というストーリーになっています。謀略史観というのでしょうか。極端すぎて、にわかに同意できませんが、説得力があり大変興味ある内容です。
 ただ、この内容をそのまま受け入れるには躊躇されますし、それだけの判断力も私にはありません。
 しかし、マルクスレーニン主義/ソ連共産党の力というのは大変に大きく、かつ闇の部分が非常に大きいということは言えるようです。闇というより、ある力で故意に隠蔽されているといったが良いのかもしれません。
 今後、これを意識しながらさまざまな本を読んでいこうと思います。
 それにしても中川先生には凄みがありますね。

18.9.18

美しい国へ/安倍晋三/文春新書

 「美」について、本来日本人は大変敏感であると思います。であるのに、そこから目をそらして、美しくない言動をとる日本人が増えているように思われます。この本では、そのことについて「損得だけで判断してよいのか?」という問いかけが随所で読者に投げかけられております。
 つまり、安倍さんがおっしゃる美とは、損得を度外視して、人間として(日本人として)本来取るべき行為、ということだと思います。(後で出てくる「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人といえども吾(われ)ゆかん」という言葉の中の「縮(なお)い」ことを、損得なしに貫くべきだ、と言っておられるのですね。)

 サブタイトルは「自信と誇りのもてる日本へ」となっています。
 大変共感を覚えました。
 日本は、まさしく世界に誇るべき歴史と伝統を持った国です。一点の恥ずべきところもないと言ったら言い過ぎかもしれませんが、少なくとも他国に比べれば、恥ずべきところはほとんど無いと言って良いと思います。ところが、今の日本の状態はというと、そのことが認識されておらず、国内はガタガタになってしまっています。尊属殺人のニュースがメディアを賑わしており、いうなれば、国内にまるで家庭内暴力が蔓延しているといった状態であるといってよいのではないでしょか。国全体が自分自身を見失ってしまい、空中を漂っているといった状況なのです。一般の国民はまだしも、本来、これを正しながら導いて行くべき役目の国のリーダ達からして、頼りない存在になっているのです。(最近の歴代総理をはじめとする、主だった国会議員の言動は惨憺たるものといってよいでしょう。)
 そういう中で、安倍晋三という、堅固な国家観をもって国家を語り、国家を良導し得る力量を持った人材がやっと現れたように思います。国民も鋭い感覚を示し、早い時期から次期総理大臣と期待し、支持する声が異常なほどに高まっておりました。
 この国民の支持はどこからきたのでしょうか。
 国民も、支那朝鮮に対する我が国の卑屈な態度に象徴されるように、世界の中で我が国が正当に評価されていない状況を、なにかおかしいと感じていたと思います。そんなに日本は悪いのか、と。その気持ちを、安倍さんは国外に向けて代弁してくれている。支那・朝鮮に対して毅然とした態度をとっている。特に北朝鮮に対するあの強い態度には、日本国民の多くが大変に深い共感を覚えているはずです。
 それで、この本の最初の言葉が「闘う政治家」です。
 これを言い換えれば、国家国民のためになるか否かに物差しを当ててそのために行動するということだと思います。本文中に掲げられた座右の銘(吉田松陰も同様)「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人といえども吾(われ)ゆかん(孟子)」に通じる考えであるといえます。
 言葉だけでなく既に実績が伴っていますから、大いに期待が膨らむところです。

 以下、特に感じた部分を抜き書きします。
■「リベラル」という言葉。(知識の整理ができました。)
 リベラルという言葉は、欧州と米国ではその意味するところが異なる。
 欧州では王権に対して市民が血を流しながら自由の権利を獲得し、民主主義の制度を作り上げてきた歴史を持つことから、同じ「リベラル」でも、他者の介入を許さないという「個人主義」に近い意味合いで使われる。これに対して米国では、社会的平等や公正の実現には政府が積極的に介入すべきであるという捉え方をされる。1929年に始まった世界大恐慌の際にF.D.ルーズベルトがとったニューディール政策は、政府が経済に積極的に介入しようとする社会主義的な性格を持つ政策であった。このとき、このニューディール政策を唱えた人たちが自らを「リベラル」と呼び始めたことから、社会主義あるいはそれに近い考えを持つ人たちをリベラリストと呼ぶようになった。

■国民のために祈る天皇。(このような皇室を国家の中軸に持つ我々は幸せである。)
 天皇がほかの国の国王と違うのは、冨や権力の象徴ではなかったという点だろう。天皇は冨を誇っていたのではなく、文化的水準の高さを誇っていたのである。歌集の編纂といった仕事がそれだ。
 故・坂本多加雄学習院大教授によれば、聖武天皇の大仏建立の詔には「天下の富も権勢もすべて自分(聖武天皇)が所有している。それを用いれば大仏造営はたやすいことである。しかし、そのようにして大仏を建立しても何の意味があるであろうか。人々がまことの信仰心から、一枝の草でも一握りの土でも持ち寄って大仏の造営に力を注ぐことが尊いのである」と書かれていたと言う。(『国家学のすすめ』ちくま新書)
 そうした天皇の日本国の象徴としての性格は、今も変わっていない。国家、国民の安寧を祈り、五穀豊穣を祈る…皇室には数多くの祭祀があり、肉体的には相当な負担だが、今上陛下はほとんどご自分でおつとめになっていると聞く。

■「公」の言葉と「私」の感情(これが下の私の記事、保阪氏に対する答えになるのではないか。)
 陸軍特別攻撃隊鷲尾克己少尉(23)の日記の1節から
 《如何にして死を飾らむか
  如何にして最も気高く最も美しく死せむか
 我が一日々々は死出の旅路の一里塚
     (中略)
 はかなくも死せりと人の言はば言へ
 我が真心の一筋の道
 今更に我が受けて来し数々の
 人の情けを思ひ思ふかな》(神坂次郎『今日われ生きてあり』新潮文庫)

 彼らは日本のために、父母兄弟友人恋人のために散っていった。
 他方、自らの死を意味あるものにし、自らの生を永遠のものにしようとする意志もあった。それを可能にするのが大義に殉じることではなかったか。彼らは「公」の立場で発する言葉と、「私」の感情の発露を区別することを知っていた。死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつも、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである。
 日記の最後の次の部分が、特に胸に迫る。
 はかなくも死せりと人の言はば言へ
 我が真心の一筋の道

■マニフェスト・デスティニィ。(その由来がわかりました。)
 アメリカ人の信じる普遍的価値観とは何か。
 アメリカは、神と聖書を信じ、宗教弾圧や迫害から逃れて、世界中から新天地に希望を求めてやってきた人たちが、独立戦争を経て1776年、母国イギリスから独立を勝ち取って生まれた国である。
 アメリカ建国の父と呼ばれるなかの一人、トマス・ジェファーソンは、自分自身、奴隷を持つ農場主の家に生まれたにもかかわらず、
 《全ての人は生まれながらにして平等であり、全ての人は誰からも侵されない権利を神から与えられている。その権利には、生存、自由、そして、幸福を追求する権利がふくまれる》
 という文章からなる独立宣言を起草した。
 実際にはまだ確立されていない理念であったが、それらは実現されるべき理想として高らかに掲げられた。ジェファーソンをはじめ、ジョージ・ワシントン初代大統領などのアメリカ建国の指導者達はこの理想こそアメリカの気高さであり、神によってそう運命付けられていると考えたのである。
 1803年にルイジアナをフランスから、1819年にはフロリダをスペインから、そしてテキサスをメキシコから獲得して、さらにフロンティアを求めて西へ西へ傍聴していった過程は、まさに神から与えられたとする「マニフェスト・デスティニィ」(明白な運命)のなせる業であった。

以上です。

 さて、総裁選用に作られた安倍さんのパンフレットが薄くて具体性に欠けるという評価がされているようですが、それは間違っていると思いますね。総裁選ですから、目標と戦略(グランドデザイン)が述べられていればそれで良いのです。消費税をいつから○%にする等といういわば作戦・戦術によって、我が国の経済を良くしようとする考えは適当ではありません。我が国の経済を良くするには、多くの国民が、サブタイトルで述べられているように「自信と誇りの持てる日本」にしようとする気持ちになることで可能と私は思います。多くの国民が、日本を好きになれば、いろんなことが良くなっていくはずです。今、国民は自分の生活を守ることで精一杯であって、安心して暮らせる日本だとは思えていないのです。
 
 美しい日本、自信と誇りの持てる日本、まずここだと思います。

18.9.4

「特攻」と日本人/保坂正康/講談社現代新書

 なにかの書評で、推薦されていたので読んでみました。
 著者の保阪氏に対する、これまでの私の評価はどちらかというと低かったのですが、読み終わって、やっぱりねぇという印象が強まりました。再評価の結果は最低ラインです。それに文章があまり上手ではありません。今後、この人の本は読みません。

 この本のテーマは、ひとことで言えば、「特攻とは、軍(=国家)という悪の機構が、学徒兵に死を強要したものである。」というものであろうと思われます。
 特攻という「死」に直結した行為を命令する訳ですから、確かに「死を強要した」と言えるでしょう。しかし、それだからといって命令者側を責めることができるでしょうか。中には、不適当な指揮官がいたでしょうが、大方の指揮官は苦悩のなかでそういう命令を発したのであって、大西中将が言うように「特攻は統率の外道である」という認識はあったものと思います。(ただ、戦争という異常事態の中でそれが麻痺していったこともあるかもしれません。ただし、それをもって私達はそれを責めることはできないと思います。)
 それなのにこの著者をはじめとする後世の多く人は、旧軍指揮官は人間性が非常に欠けており、人命のことなど考えないまさに外道の集団であった、とそういう感じ方をしています。
 本当にそうでしょうか。
 
 著者は、軍指揮官(=国家)を被告、特攻出撃者を原告として、自らは裁判官という高みに立って「第3者として」被告を断罪しています。物理的に高所に立っているというだけでなく、あの時代の情勢というものからも離れたところに立って判断をしているように見えるのです。さらに言うならば、自分自身も当事者の方々と血が繋がっており、考え方も繋がっているのだという自覚もないように思えます。「第3者として」と書いたのはそういう意味です。
 特攻出撃者の遺書などを読んで涙したということを随所に書かれておりますが、その気持ちが指導者側にほとんど向けられていないのが、私には不思議な気がします。

 以下気についた箇所についての感想です。

 「彼らは国家のために、天皇のために、そして国民のためにその生を捧げたと説く人たちがいる。なんという非礼な解釈であろうか。なんという無責任な理解であろうか。(6p)」

 →著者は、特攻隊員は実際のところ国家を批判しながら不本意のうちに死んでいった、ということを言いたいようです。その事例として特攻出撃者の遺稿に書かれたことなどを例示しています。しかし、私は、それらは「部分」に過ぎないのではないかと思うのです。中には、最後までそういう考えの方もいたでしょう。しかし、ほとんど特攻隊員は我々が安易に想像出来ないような非常な苦悩の中を自分なりの結論付け(価値付け)をして出撃して行った。多くの遺書からは、そう読み取れると思います。
 ところが著者は、そういう制約の中に国家があるいは軍指揮官たちが、押し込めて行って死を強要したのだ、だから特攻隊員は涙して語るべき哀れな被害者なのだ、という言い方をしています。
 著者には時代というものに思いが至っていないのではないかでしょうか。当時は死に対する考え方が今とは全然違うのです(よしあしを言っているのではありません)。武士道について書いた葉隠れという本があります。「武士道とは死ぬことと見つけたり。」というあれです。葉隠れでは、死よりも高い価値のものがある、死を恐れて無様(ぶざま)なことにならぬように、また、その覚悟で日々事に当たれ、というようなことが書かれています。今の私達日本人はこれと全く反対の価値観の中にあり、一方、特攻が行なわれたあの時代には、この考え方が、むしろ色濃くあったといえます。そういう価値観であった時代のことを、それと全く反対の今の価値観で評価するのは明らかに間違っています。
 再び記しますが、特攻隊員は私達が経験したことのないような苦悩の中で自分達なりの決心をして命を捧げた方々なのです。著者は、そう考える私達を非礼であるとか、無理解であるとか言うのです。著者の方こそ非礼であると私は思います。

 「特攻作戦は個人に対する国家の犯罪行為である。何のいわれも無く死刑を命じているからである。(133p)」

 →なんと無情な言い方か。戦争は、運命共同体としての国家の存亡をかけて国民がこぞって戦ったものです。特攻の発想は必ずしも戦争指導部側にあったのではありません。回天という特攻兵器がありましたが、これについて言えば戦争末期、呉工廠に多量に保管してあった長魚雷を見ながら現場の(たしか)中佐くらいの者が発想したものであるといわれています。いずれにせよ、このように上下の阿吽(あうん)の呼吸で考えられていったという状況が当時はあったのだと考えるのが普通ではないでしょうか。あのような苦しい戦局の中、起死回生の戦法として、葉隠れの精神の流れを汲むあのときのほとんどの日本人は上下の配置、階級など関係なしにそれを発想したのだと私は思います。

 「あのヒトラーでさえ体当たり攻撃の命令をくだしたことはないという。むろんヒトラーにはそれよりもはるかに重い非人間的な所業は多いが、人間特攻を命じることの罪の重さは自覚していたと言うべきだろう(174p)」

 →ついにここまで言う。要するに、数百万の全く無辜の人々を惨殺した、あの非道のヒトラーよりも悪いというのです。おまけに、そういうことをしたヒトラーは人間特攻の罪の重さを自覚していたというのですね。笑止千万。著者は本一冊をかけて、「特攻」という非常に重い問題について「日本人」との関連を踏まえて思索を深めていたはずなのに、この軽さ。肩透かしを喰らったようです。

 この本の最後の部分で再び暗然とした気持ちになります。書き起こすのも面倒ですが、こういうことが書いてあります。
 「あえて結論とするが、次の三点を中軸に据えて、特攻隊員の真情を理解すべきと思う。
(1)特攻隊員は、特に学徒出身の特攻隊員は、こういう理不尽な作戦に当事者として反対であった。反対であったから、彼らは自らの肉体を爆弾としてアメリカ軍の艦艇に体当たりして行った。(もし賛成であったら、彼らはと週で特攻隊員としての訓練を積むことは出来なかっただろう。自分ではなく、他人にこの役を押し付けようと謀ったに違いない。)
(2)彼ら特攻隊員は戦争指導にあっている軍事指導者に心底からの怒りを持っていた。(そんなことは誰も書いていないという反論があるだろう。しかし彼らの遺書や手記に戦時指導者についての信頼も不信さえ書いていないということ自体が、信頼していないことのなによりの証なのである。‥略‥)
(3)特攻隊員は臣民から「神」と扱われることで、軍事指導者への怒りとともに臣民に対しても抜きがたい不信をもって体当たり攻撃をしていった。(彼らを特攻という狂気にも似た戦術の歯車に仕立て上げた臣民の責任もまた大きいことになる)」

 私は、全く反対であったと思いますね。
 もう、申しあげる言葉がありません。


18.8.21

新編どどいつ入門/中道風迅洞/三五館

 著者の中道風迅洞は八戸出身の方で、現代どどいつを確立した、どどいつの第1人者といってよい方のようです。NHKラジオなどで現在も活躍されております。
 
 この本は、産経新聞で産経抄を長年担当していた石井英夫氏推薦によるもので、少なからず関心がありましたので読んでみました。

 どどいつは、七七七五の四句を連ねた二十六文字の定型詩です。肩肘を張らず、やさしい言葉を使って、どちらかというと艶っぽい内容を歌ったものです。

例えば、
 あなただけよに ぼせた馬鹿へ
    やり蛍が んでくる (風迅洞)

 起承転結が出来ていて、最後ににやりと笑わせる、そんな感じなのです。この句自体も面白いのですが、この句は折込(おりこみ)どどいつにもなっていまして、頭の文字をつなぐと「あのひと」になるのですね。このように、裃つけずに、物事を面白がりながら眺めて、さりげなくちょっとひねりを加えて一句ものする、という姿勢なのです。
 これをジャンル分けをすれば「俚謡(りよう)」といい、これは官の保護を受けた「みやこのうた」(大歌。いわゆる和歌など。)に対する「ひなの歌」(小歌)、わかりやすく言えば「地方のうた」「田舎のうた」という意味だそうです。

 七七七五という音節からなっているのですが、さらに分解して「三四・四三・三四・五」という音節(リズム)にするというのが非常に重要な点のようです。これから外れることは、絶対に許されないということはもちろんありませんが(なにしろ「俚謡」ですから)、このリズムを守るということは大切なことのようです。
 この本にたくさん出てくる句をリズムをつけながら読んでおりましたら、音楽に通ずるところがあることに気がつきました。
 リズムは次のようになります。

  (3連符) (16分音符) (16分音符)(3連符)
 |@AB CDEF|@ABC DEF| (七七)
    \    /      \    /


     (3連符)(16分音符) (16分音符)(8分音符)
    |@AB CDEF| @ABC D○ |  (七五)
       \    /      \    /


 このように、1小節が2拍の、4分の2拍子のリズムの取り方なのです。

 今、私が津軽三味線で習っているのは、本庄追分という曲ですが、
 1番;ほんじょ めいぶつ  やけやまの わらび
      やけば やくほど  ふとくなる
 2番;おさけ のむひと  はななら つぼみ
      きょうも さけさけ あすもさけ

 となっており、ジャスト七七七五になっております。
 つまり、どちらが先か分かりませんが、民謡とどどいつは同根であるということのようです。

 人々が口ずさんでいたものが、一つは民謡になり、一つは言葉遊びになり…ということなのでしょうか。
 そして、民謡になっていったものは、メロディに趣向がこらされ、言葉遊びになっていったものは、リズムだけは残って、内容の面白みが求められていった、ということなのでしょう。

 この七七七五が定着したのは17世紀ごろだそうでして、以後変形もありますが、現在良く歌われている民謡の大半はこの七七七五型が用いられているそうです。また、今日の歌謡曲にさえこの形が多いのは、歌っても聴いても快い音韻の「快感原則」とも言うべき安定感があるからだといわれているそうです。

 調べれば面白そうですが、そこまでの力と根気がありません。
 

 

 

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