(↑の項目に続く)

←フレームを表示  ↑HOMEへ
☆ひとりごと

17.10.26

女性・女系天皇容認反対

 26日付産経新聞によると、政府の「皇室典範に関する有識者会議」(座長・吉川弘之元東大総長)は25日、皇位継承資格を女性・女系皇族に拡大することを基本に最終報告書をまとめる方針で一致した、とのことである。これを受けて小泉首相は次期通常国会への皇室典範改正案提出を「その方向で進めている」という。

 なぜ、このような大事な問題を、そんなに急ぐのであろうか。
 天皇は、日本という国家の中心軸であられる。これが二千六百有余年、連綿として維持されてきていることに極めて大きな意義がある。過去、現在そして未来に続く我々日本人の拠り所となっているのである。そしてこの間、皇位は男系により引き継がれてきた。2600年間の長きにわたってである。この2600年の間、断絶の危機が何度かあったが、我々の御先祖はその都度工夫を凝らしながら、それを凌いできた。ところが、その光輝ある伝統を、いまここに簡単に破ろうとしているのである。傲慢すぎるのではないか?過去及び未来の日本人に対して、あまりにも不遜ではないか?

 この有識者会議では、このままでは皇位継承がいずれできなくなるので、女系というオプションを選択するのだというが、昭和22年に臣籍降下(皇籍離脱)された旧皇族の皇籍復帰や現宮家への養子入りなどのオプションがあるのに、それについては「ほとんどのメンバーが可能性がないとの結論に達した」そうである。非常に恣意的な方向付けがなされているように思えてならない。その一方で、皇籍復帰や現宮家への養子入りなどについての方策を探るべきだとする意見も(本当の)「有識者」から数多く出ているのに、それを無視する形になっていることに怒りすら覚える。

 また、当事者であられる皇室の意見が全く聴取されていない、という異常な状況で検討が進められているのも納得いかない。吉川座長は、意見聴取することは憲法に反するとして、終始「聴かない」という立場を貫いているという。意見を聴くというのがなぜ憲法に違反するのであろうか?より良い成案を得るために広く自由な意見を聴取しその上で、「有識者」であられるこの会議のメンバー諸氏が総合的に判断を下す。それが、この種の会議の運営のイロハではないのか。このようなところにも、恣意的なものを感ずる。

 その「恣意」とはなにか。
 その一つは、国民に対する「おもねり」ではないかと、私は思う。
 愛子さまがおかわいそう、雅子様の心労を取り除いてさしあげなくては雅子様がおかわいそう、と言う国民の自己満足だけの心情。これに、この有識者会議は縛られている。
 ばかなことだ。ただいま現在のことしか頭にないのである。冒頭部分に述べたように、天皇は国家の軸である。そして国家は、現在を生きている我々だけのものではない。過去の御先祖たち、未来の子孫たち、これらの共有物である。只今現在だけの浅薄な考え方で取り扱っていいはずがないではないか。
 また、もしも、女系天皇ということになってしまえば、愛子様は本当にお幸せになれるであろうか、また雅子様のご心労がもっと大きなものなりはしないだろうか。

 慌てふためいて結論を出して欲しくない。広く議論をし、あるいは正しく国民を教育し、伝統を守る形にして貰いたい。
 心からそう思います。

 

☆ひとりごと

17.10.20

靖国参拝をめぐって7

 くどいですが、またまた靖国神社についてです。
 靖国神社にどういう態度をとるかというのは、我々日本人にとって、(日本という)国家をどう捉えるのかという意味で非常に重要な問題であります。従って、その態度によって、その人の国家観(とまで意識していなくとも、結果的にそれ)が良く分かる尺度になると、私は思っております。
 特に国家運営に当たる国会議員にとって、靖国神社は一種の踏み絵の役割を果たしていると思います。つまり、靖国神社に心を込めて参拝し、その発言に曇りがない議員は、堅固な国家観を持った「良い議員」である、と私は見ます。ただし、「皆で靖国神社を参拝する議員連盟」などという形でぞろぞろと団体で行動している議員にはなんとなく胡散臭さがあり、それだけで「良い議員」とは私は見做しません。
 今回の郵政民営化選挙で落選されてしまいましたが、森岡正宏議員などは実に堂々とした発言をされており極めて「良い議員」でありました。(過去形で書かねばならないのが残念至極です。)

 さて、小泉首相は公約である8月15日こそ参拝されておりませんが、就任以来毎年1回、計5回の参拝を、一応続けられました。小泉首相のこの参拝が、あるべき国家観・歴史観に基づいたものかどうかに私はやや疑問を感じるのですが、国家運営の責任者たる首相として一定の成果を挙げつつあると一応の評価を致したいと思います。それは、中共と韓国の反日攻勢に歯止めをかけたからです。

 中韓は、靖国問題を外交カードに、日本に対してことあるたびに難くせを付けてきました。そしてそのたびごとに日本は膝を屈してきました。東京裁判という全くの茶番劇で作り出された、いわゆるA級戦犯を材料にして、完全な国内問題に口を挟み、日本人の心の中に土足で踏み込んでいるのに、日本はそれに甘んじているのです。
 日本がこのような目に会うのは、日本に非があるからでは決してありません。日本が、いとも簡単にそれに屈し(土下座外交)、そのことで中韓は簡単に国益の増進を図れるという構図になってしまっているからです。隣国を凹ませる事は、相対的に自国が得をすることだからです。
 したがって、このような相手に対しては、理詰めで話をしても無駄なのです。政治的対応をしてくる相手に対しては、同じく政治的対応をしなければなりません。つまり、内政干渉だとつっぱねておいて、国民が参拝する姿を、また首相が参拝する姿を、さらには陛下御親拝のお姿を、繰返し繰り返し見せつけて、強い意思がある事を感得させればそれで良いのです。

 小泉首相は一応それをやってくれています。ただ、望むべくは、その際のコメントとして「不戦の誓い・・・云々」とおっしゃるのではなく、「参拝は、A級戦犯といわれた方々を含む英霊に対する鎮魂と感謝である。これは国家として至極当然の行為であり、従ってその国家を代表する総理大臣の責務なのである」と述べられるべきです。そうすれば、私は首相に70点を差し上げます(あとの30点は8月15日の参拝なされば差し上げます)。

 実際その効果が現れております。
 中韓両国とも、前回のような反日デモのような大騒ぎをしなくなりました。
 これには、3つの理由があると思います。
 1 上で述べたような外交カードとしてその効果が薄れてきたこと。
 2 デモを行なうことで民度、品性を疑われてしまうので得策でないと考えていること。特に、中共は、上海万博や北京五輪を控えており、押さえる必要があること。
 3 最後は、中共のだけに関することですが、デモをやらせる(中共のデモは官製デモ)ことで、収拾がつかなくなりついには国家的危機に陥る恐れがあること。

 以上から、首相は参拝を継続し、理屈では分からないこの両国に参拝の姿を繰り返し見せつけ、我が毅然たる意思を知らしめ、そしてまた同時にこのことをもって、日本は悪くないのだという、国民に対する教育とするのが適当であると思います。
 次は来年8月15日しかありませんよ、首相。


☆ひとりごと

17.10.18

靖国参拝をめぐって6(首相の発言)

 昨日の首相参拝を受けて今朝の産経新聞に首相の発言がいくつか載っておりました。昨日、私の書いた内容に、首相を揶揄するトーンが強かったことを少し反省します。
 以下、首相の発言と私のコメントです。

1 靖国で譲れば日中関係が円滑にいくなんて考えるのは間違いだ。
  首相、このことを国民に聞こえるように、もっと大きい声で言って貰いたいのです。特に加藤紘一に向かって、きちんとたしなめたがよいですよ。彼は、テレビで公然と「靖国参拝すべきでない」と言い、首相非難をし続けていますよ。
 国民は、こういう毅然としたリーダーの発言を待っているのです。

2 本来、心の問題に他人が干渉すべきじゃない。ましてや外国政府が日本人の戦没者に、あるいは世界の戦没者に哀悼の誠をささげるのを、いけないと言う問題じゃない。(17日夕)
 そうです、首相。あきらかな内政干渉です。日中友好平和条約にもはっきり書いてあります。ただ、条約を守りなさいといっても、彼の国には効果は無いかも知れませんが・・。
 1項にも関連しますが、だから、淡々と公式参拝を続ければ良いのです。彼の国は理屈ではないのですね。彼の国が、(このカードが使えなくなったと)分かったら、靖国問題は終わるのです。

3 (来年の参拝も)適切にこれからも判断していきたい。
 首相は、来年9月に任期を切っておられますね。
 したがって私は、8月15日に参拝されると信じております。
 毎年参拝されたのはご立派でした。中曽根さんも含め、これまでの首相をはるかに凌駕する実績ですよ、これは。是非とも、変人宰相としての有終の美を発揮してください。
 
4 中国は、日本人の心の問題にまで踏み込んだことを後悔するだろう。
 首相、ここまでの発言があるとは知りませんでした。
 そのとおりです、彼の国は、日本人を甘く見ています。彼の国は、一時的な戦後の気迷いをしている日本人が全てであると思っています。ところが、今、日本は徐々にその呪縛から解き放たれ、本来の姿に変わりつつあるのです。それは、中国や韓国が図に乗りすぎて、日本人を小ばかにし続けたからなのですね。
 見方を変えると、そういう中国韓国のおかげで、日本人は徐々にではありますが、確実に立ち直りつつあるといえると思います。(マスゴミには、そうでない人がものすごくたくさんおりますがねぇ。)

 首相のほかの発言には、明らかに東京裁判史観に染まったものがあります。
 しかし、上のように、さすが一国の宰相といえる識見(失礼)も伺えます。少し見直したわけですが、これらのことをもっとアピールすべきです。国内及び国外(支那朝鮮)に向けて、です。

 

☆ひとりごと

17.10.17

靖国参拝をめぐって5

 本日より靖国神社秋季例大祭。
 小泉首相は、周囲にも全く予告することなく、靖国神社を参拝されました。

1 小泉首相は、もっと堂々と参拝すべきだ。
  本日の参拝は、周りの目をかすめるようにして、首相ともあろう人が一般の参拝者と全く同じ平服で、二礼二拍手一礼という礼儀も無視し、失礼ながらコソコソとアリバイを作られたと言う風にしか、私には見えなかった。もちろん、歴代のへタレ首相に比べれば立派であられるが、もう少し変人振りを発揮して貰いたかった。首相に就任に当たっての公約「いかなる障害があろうとも、必ず8月15日に参拝する」はどこにいってしまったのだろうか。

2 マスコミの報道スタンスは間違っている。
  あたかも首相が間違った行動をとっているという前提で報道などが組み立てられている。
 「他の国が嫌がることをなぜやるのか。困ったことをしてくれる。」という論調である。
 とんでもないことだ。
 嫌がることやっているのはどっちか。国のために命を捧げた英霊の鎮魂と感謝の誠を捧げるという、全くの国内の行為に対して内政干渉をやっているのはどっちか。
 「困ったことをしてくれる」というのは、支那朝鮮を怒らせたら経済・外交その他に影響が出てくる、というのである。そもそも間違ったことをしていないのに、それに難くせをつけてくる相手の言うがままになっているのが分からないのか。
 「A級戦犯が祀られているから」という声が相変わらず大きい。加藤紘一もさっそくテレビに映されて、このことをとくとくと話している。しかし、我が国の存続のために敢然と立ちあがった当時の大臣、軍人をさばいた東京裁判は、でたらめな茶番だったのだよ。戦勝国がやった復讐のための私刑(リンチ)だったんだよ。その証拠は十分に在る。我が国は、その論拠を示しつつ裁判自体を認めないと世界に向けて明言すればよいと思うのだが、それが行なわれず、それどころかそれに完全に呪縛されたままの日本になっている。本当に残念なことだ。

3 支那も朝鮮も国益に照らして行動していることを知るべきだ。
  こっけいなのは加藤紘一をはじめとする人たちの考え方。靖国に参拝しなければ支那・朝鮮が仲良くしてくれると思っている。とんでもない。靖国問題は自国の国益を増進し得る一枚のカードであるのだ。仮に、日本が靖国で完全に屈服したとしよう。そうしたら、彼らは新手のカードを切ってくるだけだ。目に見えている。それが、国際社会とりわけ隣国同士の力学であるのだ。

 テレビを見ていると本当に腹が立つ。
 日本国の背骨(バックボーン)が、眼前で徐々に崩れつつある。
 こういう場所で愚痴るしかないのが悔しい。

☆ひとりごと

17.10.6

逝く空に桜の花があれば佳し

 2001年4月15日、7年間のガンとの闘病の後お亡くなりになられた「三波春夫」さんの辞世の句です。

「逝く空に 桜の花が あれば佳し」

 いつも読んでいる正論「談話室」という掲示板に載せられた記事の中で知りました。
 三波春夫さんは、「お客様は神様です」という言葉で有名ですが、そのことが、お客を無制限にあがめる態度であるとして、少し小馬鹿にして見られていたように思います。実は、当初私もそのような見方をしていたのですが、三波さんの著作の数々(「聖徳太子憲法は生きている」「熱血!日本偉人伝」「真髄三波忠臣蔵」ほか)を見てそれだけの人ではないと思いつつありました。
 そこに、この句。
 ぐっと来ました。
 また、この掲示板の記事を読み進むと、
<引用>
(「お客さまは神様です」という言葉は、)観客を大切にする気持ちはもちろんですが、歌手として舞台に立つ時は、神様に手を合わせる時と同じ気持ちで、雑念を払わなければ真実の芸はできないと、自らを励ますために、毎度自分にかけたゆるぎない信条の気合だったそうです。
<引用終わり>
 知りませんでした。
 時代遅れな、あるいは時代から外れた場所で、伝統芸能的な芸に徹しておられた訳ですが、芸自体はあまり好きにはなれなかったものの、その一生懸命な生き方と最後のセリフ(冒頭の辞世の句)にはぐっと来ました。
 カッコいいですねぇ。
 あこがれる生き方です。
 
 最期をばっちりと決めるために、句作も訓練しようかしら・・・。

 

☆ひとりごと

17.9.10

戦艦大和@呉市大和ミュージアム

 イージスのつぎは、戦艦大和についてです。
 先日、大和ミュージアムを見る機会がありました。

 正式名称は呉市海事歴史科学館と云い、呉市の歴史を軸にして各種の展示がなされております。ただし、呉の歴史といっても、ほかの市と違って呉は帝国海軍と表裏一体となってその歴史を刻んできておりますので、「呉と海軍についての歴史館」といっても良いのではないでしょうか。一般的な海事や船舶技術などの展示もありますが、それらはおまけであって、やはり内容は帝国海軍、とりわけ「大和」であることは間違いありません。観客もそちらを集中してごらんになっていましたね。
 その内容ですが、大変すばらしいものでした。

1 まず「展示の配置が良く考えられている」
  メインの展示品は1/10模型(全長26.3m)の「大和」です。実に迫力満点。細かい部品が再現されております。そして、この模型を前後左右からまた2階3階の高さから、さらには下からもゆっくり見れるようになっていまして、この点が大変優れていると思いました。
 高い位置から眺めまして、良く見えたのが艦橋付近を防護するための機関砲などの配置の状況でした。艦橋を取り巻くようにして海自護衛艦の主砲である5インチ、3インチ相当の砲が防護用として配置されています。そういったことが、今回良く分かりました。視点を変えて考える、などということの意味が良く分かりますね。
 それにしても、60年前に、この10倍の艦を作ったのかと思うと、日本民族の偉大さを改めて思いますね。大和に対しては色々な批判がありますが、その技術の高さは比類のないものでまさに世界に誇るべきものです。素直に、誇りたいものです。
 話題がずれましたが、このミュージアムはこの「大和」を中心にして良くまとまっている、ということです。

2 次に「展示品が良い」
  呉は古くから海軍の町です。したがって海軍にかかわる貴重な資料がたくさん残っています。
 魚雷、砲弾等など製品や各種の書類、手紙・・・すべてが大変貴重です。
 大事なのは、そういう史料を保存し展示する「場がある」ということだと思います。まだまだ眠っている史料が、これからこの科学館をめがけて集まってくるはずです。適切な入れ物を作るというのは大切です。(単なる箱物は駄目ですけどね。)

3 最後に「説明ぶりが良い」
  各種の展示品に合わせてビデオの説明がされているのですが、大きな歴史の流れを簡明にまとめ、そして呉とのかかわりが述べられています。ここは呉市の科学館ですから、ローカル色が出ていないと意味がありません。その配分も適切です。
 もう一つ。とても大切な点。
 その歴史観も適切です。自虐的な歴史観が蔓延するなか、大変良いことであると思います。

 以上、思いつき的に書きましたが、総括すると大和ミュージアムは「テーマがしっかりしている。展示品の質が高い。」といえると思います。おそらく、これからも賑わうことでしょう。
 近々、潜水艦の実物が隣に展示されるそうですから、ますますの繁栄間違いないと思います。江田島の教育参考館との組み合わせで売り出せばもっと良いと思いますが、どうでしょうか。

 

☆ひとりごと

17.9.4

亡国のイージス

 久しぶりに一家で映画鑑賞。ちなみに前回の家族映画鑑賞は「プライド−運命の瞬間」。(変な家族)

 原作は、数年前に発売になったころに読みました。比較的厚い本であったにも関わらず一気に読んでしまいました。そのときの印象は、内容が大変面白いということと、海上自衛隊についての記述が非常に正確であるということでして、著者は海自OBであるに違いないと思ったものでした。ところが、実は、著者の福井敏晴氏はOBではなく、驚くことに現場を実地に訪問することなしにこれを書いたというのです。時に、文献だけを基にして立派な著述を物される方がおられますが、この著者福井氏もその一人であったわけです。

 さて、その映画のこと。
 大変面白い映画でした。
 映画に求められる最も大きい要素は娯楽性であると思いますが、ハリウッドばりのリアルな撃ち合いがあったり、リアルな艦内描写があったりで、従来の日本映画にないレベルになっています。またその一方で、「国家・国防」という大変重い内容も含んでおり、暴力シーンが生々しいだけに観客の心中にぐっと迫ってくるものがあります。要すれば、硬軟あわせ持った作品であるといってよいと思います。
 
 ただ、不具合な点も若干あります。
 その一つは、元自衛官の目から見て、ちょっとおかしいと思われる部分があることなのですが、これは娯楽性を旨とする映画ですからある程度良しとしましょう。
 もう一つ、なんとかならないのかなぁと思いますのは「わかりやすさ」ということに関してです。
 端的に言って、この映画、筋が分かりにくいのです。原作を読んだ範囲では、こんな感じは全く持ちませんでした。たしかに、あの厚い本で物語った内容を2時間位で表現しようというのですから、そこにはかなりの困難があります。それは分かるのですが、改善の余地があるのではないか、もう少し見る側の立場になって分かりやすくできるのではないか、と思うのです。
 
 1つは、登場人物の関係。
 これは、映画の冒頭に整理した方が良いと思いますね。登場人物の少ない映画なら最後の方で種明かしをするというテクニックもあるのでしょうが、このような規模の大きい映画では、最初にうまく説明しないとだめだと思います。
 映画の冒頭に、雨の降る中をヨンファが宮津副長を訪ねるシーンがありますが、原作では宮津副長の息子が防大生であって、「亡国のイージス」という論文を書いたということと、事故死をしたということがそこで明らかにされます。映画では、この辺の事情がよく分かりません。
 如月士長の暗い生い立ち、女工作員との関係もいまいちよく分かりませんでした。
 
 2つ目は、用語。
 例えば、いきなり「ダイス」と言う言葉を使われても、ピンと来る人はごく少数でししょう。その言葉を急に聞かされた方は、「うっ、今なんて言った?」と、思考が一時混乱するわけです。それなのに、映画のストーリーはどんどん展開していくのですから、ますます筋が追えなくなっていきます。ここは、ゆっくりとした口調で「防衛庁情報本部」とかなんとか言わせる方が良いと思います。
 ヨンファ一味は「FTG」の隊員として「いそかぜ」に乗り込んでくるのですが、この言葉自体が分かりにくいと思います。「FTG」はFleet Training Group(艦隊訓練指導隊)の略で艦(部隊)を訓練指導することを任務とした部隊です。会社でいえば監査部といったところでしょうか。この映画では、訓練指導を名目にして堂々とグソーを持ち込む訳です。この辺のところをうまく説明できていれば理解も一層すすむと思いますね。

 3つ目は、画面の字幕による説明。
 例えば、護衛艦のCIC(Combat Information Center)や情報本部のオペレーションルームなど、その最初の画面に名前を一行入れればずいぶん理解の仕方が違うと思います。その区別のつかないまったく基礎知識のない人たちも見ているわけですから。

 以上のことは、実は、プレゼンテーションの際に留意しなければならないことと同じです。プレゼンテーションでは、書いたものを読んでもらうのと違い、スライドなどを使用して話を一方的に進めて行くのですから「わかりやすく」をモットーにしないと、すんなり理解して貰えない訳です。つまり伝えたいメッセージが伝わりません。映画もまさにプレゼンテーションですから、「わかりやすく、わかりやすく」でないといけません。
 同じメッセージを伝えるのでも、本(書いたもの)と映画(プレゼンテーション)では、やり方が変わってきて当然です。それぞれの特質を生かしたやり方をしなければならないと思いますね。(自衛官時代、プレゼンで苦労しました。ずいぶん指導を受け、指導もしました。)
 せっかくの大作、それも我が海上自衛隊の姿が大変忠実に表現されている映画、また国民教育という観点からも非常に優れた作品、もう少し工夫があればなぁ。
 以上、素人の感想でした。

 
 娘が隣の席で熱心に見ておりまして、空自のF2が「テルミットプラス(架空の爆弾です。)」を搭載して出撃する場面で、「すごい。これ自衛隊なの?」との質問。たしかに、画面で見るF2は大変美しい。空自は乙女心を射止めました。でも、そのあとの娘の感想は「海自がかっこいいと思っていたけど空自もいいじゃん」とのこと。
 で、どっちがいいのかというと(僕のいた)海自?

 

☆ひとりごと

17.8.28

暴力か愛の鞭か(駒大苫小牧高校暴力?事件)

 駒大苫小牧高校の"暴力"問題は、暴力をふるったとされる部長が謹慎処分とされ、部員はこの件には関係がないとしてお咎めはなく、優勝の取り消しもないということになった。

 今回、「暴力−愛の鞭」に関する論争が巻き上がるのではないかと思っていたが、その論争はほとんどなく、世間は最初から最後まで「暴力である」と看做しているようであった。このことは、テレビで報道された街頭インタビューによく現れていた。つまり、皆さん口をそろえて「暴力は絶対にいけない」というのである。したがってマスコミの論調もそれにあわせたものになり、結局は世の中の雰囲気全体がそういうものになってしまっていた。
 ここには、ムードとして「暴力否定」が声高に唱えられているが、事実(fact)としてはどうだったのかが、ほとんど言及されていないのである。
 部長とされる高校教諭が特定の一人の部員を(数発〜数十発)殴っているのは間違いがないようであるが、なぜ部長が殴ったのか、なぜその一人の部員だけが殴られたのか、なぜ第1試合の直前に父親が校長に連絡をしてきたのか・・・この辺の経緯や背景が全く吟味されること無く、ただただ暴力はいけないの一点張り。面倒なことには無条件に眼をふさぎ、思考停止をしているように見える。
 
 これはなぜであろうか。
 私は、誤った教育が効を奏してきたからであると思う。それは、過度の「人権」教育である。そして、この人権の侵害のひとつの典型が今回問題になった「暴力」である。もともと「和をもって尊し」として、出来るだけ争い事を避けることを処世訓としてきた我々日本人であるから、暴力の否定が基本であった。ただし、「単なる乱暴狼藉」と「正しい力の行使」とは明白に分けて来た、という点を見逃してはならないと思う。すなわち、上に記した昨今の事例に見るような、なにがなんでもダメといった思考停止はなかったのである。必要な戦争には断固として立ち上がったし、教育上必要な体罰は容赦なく与えていた。(小生も、暖かいビンタを食らったことがある。)
 それなのに、昨今は「暴力=乱暴狼藉」という形でしか認識されなくなっているのである。
 おそらく、この事件の関係者(当事者〜高野連〜マスコミ〜国民)の頭によぎっているのは人権という名の妖怪である。この妖怪に恐れをなして、皆が皆、腰を引いて逃げ回っているのである。
 暴力=悪ではない。
 もう少し冷静になるべきだ。
 
 さて、体罰に関して言えば、「後遺症の残らない程度に、必要に応じてやってよい」と私は考えるのだが、皆さんはいかがでしょうか?


 ところで、駒大苫小牧の件。実際のところ事実はどうだったのだろうか。
 ひょっとして、愛の鞭ではなかったのだろうか。
 ひょっとして、この部員が特殊な部員であったのではなかろうか。
 肝心のところを私は知りたい。


☆ひとりごと

17.8.23

ホリエモンは不適だ

 今回の衆議院選挙は、国民の政治への関心を呼び覚ましているという点では評価できるが、その他の面では全く評価できない。
 一部を除いて議員としての資格に疑問のある候補者が刺客というふざけた名前で多数現れ、これらと比べるとはるかにましな議員が落選の瀬戸際に立たされているのである。最終的には国民の良識が働き、おおかたの刺客は、その任務を全うできないと思うのだが、自民党(今、これしか頼らざるを得ない)の勢力をそぎ、全く頼りにならない民主党や公明党を利することになるのである。つまり、大いに国益に反することが行なわれつつあると思う。
 
 その典型がホリエモンである。
 8月23日の産経新聞にホリエモンに対するインタビュー記事が載っていた。
 これによれば、ホリエモンは国家についてこんな風に考えている。
 <以下引用>
 「国家観」について、「国という単位を特別視していない。国にこだわるのではなく、もっとグローバルな視点で物を見なければならない」と述べた。小泉純一郎首相について、「靖国神社の参拝になぜ、こだわるのかわからない」と語った。
 堀江氏は、選挙戦について、「日本町会議員に立候補するようなつもりでやっている。自分の国を知らなければ、世界も分からないという考えは間違い。自分の田舎のことを知らなくても、東京で成功する人はいる。だから自国を知らなくても、世界には通用する。僕の世界観は世界は一つということ」と語った。(このインタビュー後半では、能力あるものが稼ぎ、低所得者層は最低賃金が保障されているからそれでいいのだ・・というようなことを言っている)
 <引用終わり>

 唖然とする内容である。
 が、彼の人となりを考えれば納得できる内容ではある。
 彼はマネーゲームの世界に生きている。それも、インターネットの世界である。とりあえずは国家を全く意識しなくともやっていける世界である。その中で彼は非常な成功を収めた。国家が関係しない世界でのこの成功体験をもとにすれば、冒頭の発言になる訳である。
 しかし、待ってくれホリエモン。今君が活動したいといっている場は「国政の場」なのだよ。そこでは、国家という単位で、内政を行い同時に外政を行うのですよ。この国家という枠をしっかり意識せずしてどうするのだ。
 もうひとつ、「靖国神社・・わからない」とはなんたる言い草。反対なのか賛成なのか。これほど国を挙げて議論沸騰し、支那朝鮮までもがその議論にはいってきているのに、分からないはないでしょう。国会では、ありとあらゆる問題を「議して決する」のだよ。意見のない人は議会に出る資格はありません。
 あなたは、マネーゲームの世界で所信を貫けばよろしい。そして、日本のGDPの向上に寄与すればよろしい。さもなくば、あなたが言う「(日本)町会議員」にでもでるのが身分相応と思いますよ。
 でも、あなたはしっかりしている。株が上がっているようですね。株価を見ながら、ひとりほくそえんでいるのでしょうね。ああ、いやだいやだ。

 小泉、武部さん。実は、おふたりにも唖然としています。自民党も落ちましたねぇ。
 なんらかの形で、きっと鉄槌が下されるでしょう。

 9.11‥‥国民の判断がどうでるか。
 議員・候補者諸氏のていたらくを反面教師にさせてもらって、少しづつ学習している国民の良識に期待したいと思います。

☆ひとりごと

17.8.15

靖国参拝20万5千人過去最高

 小泉首相は、結局参拝されませんでした。
 代わりに、不肖、午後から参拝してまいりました。
 去年よりもやや遅い時間に参ったのですが、地下鉄九段下駅付近から人出が多く、去年と比べて雰囲気がずいぶん違いました。
 翌日の新聞によると、参拝者は過去最高の20.5万人だそうで、国民の関心が非常に高いことが伺えます。これは、明らかに支那朝鮮のおかしな言動に対する反発であるとともにやっと国家意識が台頭してきたということであると言えます。また、小泉首相に対する警鐘であるともとれます。この意味で、小泉首相は惜しいチャンスを逃したと思います。衆議院選挙の追い風になったし、歴史にも名を残すことが出来たはずです。支那朝鮮にも鉄槌を加えることできました。なにか目先の得失で判断してしまった訳で、本当に残念なことでした。
 その小泉首相の「戦後60年の首相談話」。またまた、あの村山談話を基本的には踏襲して、「・・我が国は、かって植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。・・」との文言が入れられています。そろそろ、こんな考えは止めるべきですし、そもそも国家として発言する内容ではありません。この辺が、分かっていないのですね。
 また今回は、談話に中国、韓国という単語を挿入して支那朝鮮に対する関係改善に向けての配慮をしたそうですが、ほとんど無駄なことです。15日の産経新聞によると、「中国は15日から、9月3日の『抗日戦争勝利記念日』に向け、『抗日戦争勝利60周年』キャンペーン一色に染まる。各地ではすでに、中国政府の資金援助により抗日関連の記念館の新設・拡充ラッシュが起きており、これらの施設は、展示会を催すなどしてキャンペーンの拠点になりそうだ。」とのことです。記事によれば、この種の施設(愛国主義教育基地)は全国で約2000!!あるそうです。2000ですよ、2000!支那はこれをさらに拡充している訳です。こんな国に媚びてどうするのですか。さらに馬鹿にされるだけですね。湖錦濤や金正日やノムヒョンの高笑いが聞こえてくるようです。
 ここで毅然とした行動をとるのは非常な抵抗があるでしょうが、殺されても良いという気持ちで郵政民営化をやるとおっしゃっているようですから、これに比べれば朝飯前だと思いますがねぇ。
 なにより、靖国に集まった20万5千人、それを支持する多くの国民がいるのですから、もっと自信をもって毅然とすればよいのに、と思います。
去年と違って、列が出来ていました。

☆ひとりごと

17.8.14

戦争観の差

 NHKスペシャル「戦後60年・靖国問題を考える」を見た。
 次の4氏による討論が行なわれた。
 代表:所功京都産業大学教授、上坂冬子
 代表;子安宣邦阪大名誉教授、姜尚中東大教授

 議論は相変わらずのすれ違い。お互いに言いっぱなしの感。
 所教授が、テーマに合わせて論点を集約しようとするが、NHKの司会も含めて、左の方は議論を発散させる。そして、すれ違い・・。

 聞いていて、左の御両人の底の浅さにあきれた。これが、有名大学の教授である。子安名誉教授に至っては、御専門は「日本思想史」であられるという(驚)。

 ご両人によると、先の大戦は、いわゆるA級戦犯とされた方々が、日本国民の鼻面を引き回して、引き起こしたのだという。したがって、このA級戦犯が諸悪の根源であり、その他の国民は迷惑をこうむった。よって、このA級戦犯を祀った靖国神社は、許せない。・・これが、その主旨であり、支那朝鮮の言い分と同じ軌道上にある。

 子安氏は、次のように表現する。
 「日本を戦争に導いた指導者達。その象徴的存在が東條英機。」
 これに対して右のお二人は、いう。
 「(そんな単純なものではない)時の情勢があり、流れがあり複雑な大きな動きの中で戦争になっていく(主旨)。」
 上坂さんは、
 「(戦争のことは)らっきょの皮をむくようなもので、あまりとやかく言ってもしょうがない。」ともいう。つまり、それほどな複合的で重層的であるということである。
 私は、これが全く正しいと思う。歴史の重大な一駒としての戦争は、色々な見方が出来る。逆にいうと、ある特定の見方であれば、これを把握することができるが、それは一面にしかすぎないということでもある。左側のお二人は、極めて一面から、それも子供の発想でしか見ていない。
 例えば、ヒットラーを見よ。
 彼とて、いきなり、現れてドイツを引きずり回した訳ではない。彼も国民の選挙で選ばれている。このヒトラーを選ばせたのは、第1次大戦後の復興にあえぐドイツに対してブロック経済体制で締め上げたアメリカ、イギリスにも責任の一端がある。さらに、ヒトラーの行動を、当初は許した西洋列国の甘さもあの不幸に陥る大きな原因になっているのだ。つまり、このような大きな情勢が、関係国をして第2次大戦への道へ進ませていったのだ。

 このような、視点が、この左巻のお二人には完全に抜けている。
 支那がいま良く言っている、また、かって占領軍アメリカが良く言った「日本人民には責任はない。政府/国家が悪いのだ。」と同じ論法なのである。さらに付け加えると、左巻のお二人は、「したがって自分達には責任はない。責任はあの戦争指導者にあるのだ。」といって、逃げているのである。口では、我々はもっと自覚しなければならない、とか反省をしなければならないとか言っているが、実は、わが身はその対象外に置いているのだ。
 彼らは、苦悩の中に身を削りながら努力をした先人たちと一線を画しているのである(だから、靖国で感謝の誠をささげる気持ちは毛頭ない)が、これはもう日本国民ではない、といわねばならない。

 そういえば、お二人は盛んに戦後日本は新しい価値観念の国家として生まれ変わったのだといっていた。この二人は有史以来の日本を捨てているのである。

 いまどき、子供でも「世の中、一人では生きられない」と理解している。人間は、複雑な社会の仕組みの中の一人としての存在であり、社会という大きな動きに自分を沿わせなければならないことがある、と知っている。この二人にはそれがない。

 長くてくどくなるが、北朝鮮による拉致問題の非情を見よ。明らかに非情、非道であると分かっているのに、国という存在があるために多少の個人の力ではこの流れを変えられないのである。


 
 このような左巻の人の頭はどうなっているのだろうか。
 基底にあるのは、日本大嫌いなのだろうなぁ。それでいて、その日本の中でさまざまな恩恵を得ながら生きている。その心理というのは、いったいどのようなものなんだろうか。
 よぉ、わからん。

 

 

(↓の項目に続く)