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☆最近読んだ本

18.3.18

名歌I「昭和の武人の歌」/小柳陽太郎/扶桑社

 前に読んだ本「名歌でたどる日本の心」の中で、私の心琴に触れた歌を2首づつ取り上げています。
 今回は、山本五十六と栗林忠道。

 益荒男の ゆくとふ道を ゆききはめ わが若人ら つひにかへらず
 ― 山本五十六 ―
 「わが国の武人として重大な使命を帯び、この決死の道を覚悟を決めて突き進んだ、わが大切な若人たち、それが終に帰らないことになってしまった。」

 昭和16年、対米戦の開始に際し、連合艦隊機動部隊は真珠湾を奇襲攻撃した。攻撃は航空攻撃のみでなく、特殊潜航艇5隻も港内に潜入しました。
 山本長官は、潜航艇乗員の作戦後の収容が困難であることから、この作戦を容易に許可しなかったのですが、最終的には承認を与えました。
 乗員は結局未帰還でした。上の歌はそのときの作です。

 「益荒男のゆくとふ道」という表現は聖武天皇の御製の中にあります。山本長官は、「万葉集」と明治天皇御製を愛誦したそうですから、当然、この御歌を踏まえての作なのですね。
 「名歌でたどる日本の心」に紹介した戦国時代の武将「武田信玄」や「上杉謙信」の示した「たしなみ」と同じです。

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 国の為 重きつとめを 果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞかなしき
 ― 栗林忠道陸軍中将 ―
 「(硫黄島における最後の敢闘を行なおうとするものであるが、)弾丸尽き、水も涸れ、ついに戦うための手段を失い、本土防衛の要地確保という任務を達成できないことは、これほど残念なことはない。」

 昭和20年2月19日から3月下旬の間、硫黄島は大東亜戦争最大の激戦地となりました。栗林中将は現地最高指揮官小笠原兵団長として約2万1千の陸海軍将兵を指揮し、島内全長18キロにわたって建設した地下壕の中で、その地熱に耐えながら長期持久戦を敢行された訳です。この悪条件のなかで、圧倒的兵力を誇る米侵攻軍約10万に多大な損害(死傷約2万9千)を与えました。
上は、大本営への最後の報告電報に添えられた辞世の歌です。

 自分の務めを果たすために本来持っているべき道具がない無念さ。いかばかりであったでしょうか。先日、「男たちの大和」を見ましたが、そのときにも同様の感慨を持ちました。言葉は大変悪いですが、なぶり殺しです。絶対こんな目にあわせてはならないと思います。

 さて、
 平成6年2月、硫黄島に天皇皇后両陛下が行幸啓され、慰霊の歌を御詠みになりました。
 天皇陛下御製
 精魂を 込め戦いし 人未(いま)だ 地下に眠りて 島は悲しき

 皇后陛下御歌
 慰霊地は 今安らかに 水をたたふ 如何ばかり君ら 水を欲
(ほ)りけむ

 


☆最近読んだ本

18.3.16

名歌H「君臣の心の交流」/小柳陽太郎/扶桑社

 前に読んだ本「名歌でたどる日本の心」の中で、私の心琴に触れた歌を2首づつ取り上げています。
今回は、南方熊楠と昭和天皇。

 一枝(ひとえだ)も 心して吹け 沖つ風 わが天皇(すめらぎ)の めでましし森ぞ
 ― 南方熊楠(みなかたくまずす) ―
 「沖の風よ、木々の一枝も痛めることのないように注意して吹けよ。この島の森は、天皇が心から慈(いつく)しまれた森なのだぞ。」

 南方熊楠(みなかたくまずす)は明治から昭和にかけて世界的に活躍した博物学者です。熊楠の研究の中心は「粘菌(ねんきん)学」でした。(粘菌とは、森の中など暗く湿った場所の古木などに腐生(ふせい)し、アメーバ運動を行なう原生動物。)熊楠は鎮守の森の保存に尽力し、特に和歌山県田辺湾に浮かぶ「神島」の自然保護には心血を注ぎました。
 昭和4年、昭和天皇の南紀行幸に際し、熊楠はご進講をすることになりましたが、そのご進講のあと、熊楠は、粘菌標本百十数種を粗末な「キャラメル」の箱に入れて、昭和天皇に献上したそうです。
 キャラメルの箱、です。
 このご進講のあと、その時の感激を詠んだのが上の歌です。
 陛下に対する思いの深さが、素直に良く表されていると思います。

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 熊楠は昭和16年に没します。そして、昭和37年、昭和天皇は再び南紀に行幸され、神島を親しくご覧になり次の歌をおよみになります。

 雨にけぶる 神島をみて 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ
 ― 昭和天皇 ―

 熊楠の人柄と偉業を偲ぶ御製です。
 約30年の時を経て、日本ならではの君臣の心の交流なのです。
 大変に素晴らしい情景ではありませんか。


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18.3.14

名歌G「民を思う心」/小柳陽太郎/扶桑社

 前に読んだ本「名歌でたどる日本の心」の中で、私の心琴に触れた歌を2首づつ取り上げています。 
 今回は、光格天皇と昭和天皇。

 身のかひは 何を祈らず 朝な夕な 民安かれと 思ふばかりぞ
 ― 光格天皇―
 「私は自分自身のためにこうあって欲しいと祈ることは何ひとつない。朝な夕なに思うことはただ民の幸せだけである」

 光格天皇の天明七年(1787)、天明の大飢饉によって世の中は騒然としていましたが、その六月から九月にかかえて京都の御所の周辺を、万を越す民衆が、御所への参拝を繰り返していたそうです。それは、これほどの飢饉ののさなか、打つ手を知らない幕府への不信と、最後にすがるのは朝廷以外にはないという民衆の切なる願いの現われであったそうです。
 この状況を見て、天皇は、旧例を破って幕府に対して民衆救済の強化を命じられました。
 上掲の歌は、当時、民衆の中で万民の安穏(あんおん)を願う天皇のお歌として言い伝えられたものだそうです。書き物としての証拠はないけれども、そうであるとして言い伝えられている、というのが素晴らしいと思います。
 この当時から、天皇と国民との間にはこのような特別な感情があったということではないでしょうか。それが、今も続いていると私は思います。

 
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 爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ いくさとめけり 身はいかならむとも

― 昭和天皇―

 終戦時の御製です。
 ポッダム宣言(降伏条件などが記された連合国による、いわば降伏勧告文書)を受け入れるか否かの御前会議が行なわれた際、全く異例でしたが、陛下の御聖断を仰ぐことになりました。その際陛下は、この歌のように自分の身はどうなってもよいから戦争を止めるとの御決心を示されています。
 実際、占領軍である連合軍総司令部にマッカーサー総司令官に会われた際、まず、このことを御申し出になっています。
 陛下の御気持ちに反して始まった戦争でしたが、終戦に際しては真に捨て身で国民を救おうとされたのでした。
 天皇家に引き継がれている精神です。

 

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18.3.12

名歌F「堂々たる日本人」/小柳陽太郎/扶桑社

 前に読んだ本「名歌でたどる日本の心」の中で、私の心琴に触れた歌を2首づつ取り上げています。 
今回は、村垣淡路守(むらがきあわじのかみ)と伴林光平(ともばやしみつひら)。

 えみしらも あふぎてぞみよ 東(あずま)なる 我が日の本の 国の光を
 ― 村垣淡路守 (遣米使日記)― 
 「えみし(外国の人々)も東方に輝く日本の国の光の美しさをあおぎ見て欲しい」

 安政五年(1858)に締結された日米修好通商条約の批准のため、2年後の万延元年、幕府から使節団がアメリカに派遣されました。村垣淡路守はその使節団の副使。
 この歌は、首都ワシントンで無事、大統領との謁見を終えたときの感慨だそうです。
 この使節一行をニューヨークで迎えた詩人ホイットマンは、「西の海を越えて、ここ日本より、礼儀正しく、両刀たばさむ色浅黒き使節たち、無蓋車のまま、ひるまずおくせず、きょう、マンハッタンを乗り打ってゆく」とうたったそうです。
 まさに堂々たる日本人の姿を、ここに見ることができると思います。

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 君が代は いはほと共に 動かねば 砕けてかへれ 沖つ白波
 ― 伴林光平 ―
 「国家「君が代」にあるとおり、天皇の御代は巌(いわお)のように磐石であるのだ。日本に押し寄せる西洋の夷狄(いてき)どもよ、岩に寄せ来る白波のように砕け散って消え去ってしまえ。」

 伴林光平は幕末の国学者。大阪の出身。
 歌は、嘉永年間の黒船来航の時の作だそうです。
 昨今、国の要職にあって、やみくもに諸外国(特に中国)に対して媚びるだけの人物が多いのですが、この歌に示された気概を少しは見習って貰いたいものです。
 分かりやすくて力強くて良い歌だと思います。

 

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18.3.10

名歌E「出征する父。夫を想う妻。」/小柳陽太郎/扶桑社

 前に読んだ本「名歌でたどる日本の心」の中で、私の心琴に触れた歌を2首づつ取り上げています。 
 今回は、前田利定と大須賀松江 。

 父の顔 見覚え居(お)よと 稚児(ちご)にいへど ちご心なく 打ち笑みてのみ
 ― 前田利定陸軍歩兵少尉(山桜集)―
 「いとしい我が子よ、お父さんの顔をしっかり覚えておくんだよ。もう、会えないかもしれないんだよ。でも、そう言っても、お前は無心に笑っているだけなんだねぇ。」

 「山桜集」とは、日露戦争の従軍将兵及び遺族、銃後の人々の詩歌を日露戦争のさなかに収録、編集したものだそうです。巻頭は明治天皇御製、皇后宮御歌(こうごうぐうみうた)が掲げられており、短歌1200余首が収められています。これを大戦争の最中に、勝つか負けるか分からない状況の中で出版しているのです。
 この状況をどう見たら良いのでしょうか。
 掲載されているのが1200首ですから、応募したのはその数倍、数十倍はあったのでしょう。当時の人たちには短歌がごく身近に、まるで呼吸のような存在であったのでしょうか。そして、戦争という極限の状況であったからこそ、おりおりの高揚した気持ちを短歌として表したのでしょうか。

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 つはものに 召し出(めしいだ)されし 我(わが)せこは いづくの山に 年迎ふらむ
― 大須賀松江(山桜集)―
 「陛下の兵士として戦地に向かった私の夫。今年の正月は、いったいどこで正月を迎えたのでしょうか。果たして無事にいるのでしょうか。」

 明治38年(1905)、新年の歌会始めに選ばれた歌です。作者は、陸軍歩兵二等卒妻、大須賀松江。
 二等卒といえば軍人の中で最も位が低い、その妻が宮中の儀式に参列していた訳です。日本人は、歌の前にまさしく平等なのです。
 この奥さんも偉いが、選者達も偉い、と思いますね。


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18.3.8

名歌D「信頼。」/小柳陽太郎/扶桑社

 前に読んだ本「名歌でたどる日本の心」の中で、私の心琴に触れた歌を2首づつ取り上げています。
 今回は、別府長治(べっぷながはる)とその妻照子の歌。

 今はただ 恨みもあらじ 諸人(もろびと)の 命にかはる 我が身とおもへば
 ― 別府長治の辞世―
 「(長い篭城(ろうじょう)戦も限界となり降伏をすることとなったが、)今となれば、なに一つ恨みに思うことは無い。自分の命をもって部下や城下の人々の命に代えることができるのだから。」


 もろともに 消え果つるこそ うれしけれ おくれ先立つ ならいなる世に
 ― 妻の照子の辞世―
 「夫婦とはいえ、亡くなるときは、遅れたり先立ったりするのが世の常なのに、こうしてあなたと一緒にあの世に旅たつのが、私は嬉しい。」


 天正7年(1579)、播磨の三木城(兵庫県三木市)は、織田信長の配下の羽柴秀吉の猛攻にさらされましたが、城主別府長治は容易に降伏しませんでした。しかし、兵糧攻めが始まったために、長治はついに降伏を決意します。降伏条件は、城内の兵士の助命と荒廃した城下の復興のための租税の減免。この2つを約束した上で、別府一族は全て自害しました。
 
 私達は、戦国の世というと、為政者の圧制によって一般の人々は抑圧され悲惨な生活を送っていたと、思い込まされています。戦後、ソ連共産党を源として押し広められた階級闘争史観に基づく考え方によるもので、戦前は全て暗黒の歴史であったとされているのです。
 しかし、事実は全く違います。前回の源実朝の歌にも見るように、為政者と民との間にはある種の信頼関係ができていたのです。
 長治の行為は、この信頼関係をしめす究極の姿であったと思います。
 更に、2つ目の歌。
 その妻照子の覚悟と愛情の深さ。
 これもまた信頼関係の極致であると思います。



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18.3.7

名歌C「日本の美。為政者の姿。」/小柳陽太郎/扶桑社

 前に読んだ本「名歌でたどる日本の心」の中で、私の心琴に触れた歌を2首づつ取り上げています。
今回は、藤原定家と源実朝。

 見渡せば 花も紅葉(もみじ)も なかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ
― 藤原定家(新古今和歌集)―
 「この荒涼とした秋の海辺には、春の花も秋の紅葉もない。ただ見えるのは漁夫達の苫(とま)で葺(ふ)いたわびしい小屋だけ。大きく広がった海、その中の小さな苫葺きの小屋、しかしそこにこそ、これまで見逃してきた秋という季節のもつ美しさがある。」

 日本人の美意識の幅広さ、奥の深さを私は感じます。
 百花繚乱、花々が咲き乱れた美しさというのは、いわば当たり前。そのような単純な美しさではなく、何かくすんだ情景の美しさなのです。いわゆる「わびさび」ということなのでしょうか。
 まぁ、理屈は抜きにして、とにかくいいなぁと思いませんか。

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時により 過ぐれば民(たみ)の 嘆きなり 八大龍王(はちだいりゅうおう) 雨やめ給え
― 源実朝(金槐集)―
 「雨も降りすぎれば民の嘆きになる。八大龍王よ雨を止めよ。」

 建暦元年(1211)、実朝20歳の七月、大洪水が襲ったとき、実朝は、民の嘆き悲しみに心を痛め、ただひたすらに「八大龍王」に祈ったそうです。常に民(国民)とともにあった為政者の姿がここにもあります。歌としても、武家らしく力強い調べになっています。
 後世、正岡子規は実朝を「柿本人麻呂以来の優れた歌人である」と評しているそうです。
 実朝は優れた武人/政治家でありながら優れた芸術家なのですね。
 これはまさに、藤原正彦さんの本「国家の品格」に記述のある「エリート」ですね。

 

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18.3.5

名歌B「人生とは。忍ぶ恋について。」/小柳陽太郎/扶桑社

 前に読んだ本「名歌でたどる日本の心」の中で、私の心琴に触れた歌を2首づつ取り上げています。
今回は、後白河天皇とその皇女の歌。

 遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ 遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ
 ― 後白河天皇(梁塵秘抄)―
 「遊ぶ子どもの声を聞いたときの心のときめきはというと、我が身までがゆらぐような気がする。そう思えば、自分はひょっとすると遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのではないだろうか。」

 「梁塵秘抄」は平安時代末期に民間に行なわれていた歌舞の芸能の歌詞を集成したものだそうです。その編者は後白河天皇(77代)でして、天皇がこのような民間の芸能に関心を持って接せられている訳です。
 天皇陛下が民のことを我が事のように思っておられるということ、あわせて、日本人は和歌の前に皆平等であるということが言えるのではないでしょうか。

 さて、上の歌。
 自分は、なんのために生まれてきたのだろうか。人生の目的とは何なのか。生きていると悩みが多いものです。後白河天皇は、源平の争乱の真っ只中で生涯を終えられています。その心労は並みではなかったと思いますが、そんな環境の中でのこの心境です。
 自分はこの世に、遊びのために生まれてきたのなのではないだろうか・・・。
 私達庶民など、まさにその心境でよいのではないでしょうか。

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 玉の緒よ たえねば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする
 ― 式子(しょくし)内親王―
 「(「玉の緒」は命のこと。)私の命は、絶えるなら絶えてしまってもいい、これ以上生き長らえてゆけば、じっと耐えているこの気持ちが弱ってしまって、二人の間が人の目にたつかもしれない。そのようなことになれば、あの方がどんなにつらい思いをなさることか、それを思えば、私の命は絶えても良い。」

 上の歌は、いわゆる「忍ぶ恋」の世界を詠んでいます。
 我が身をさしおいて相手の幸せを願うのです。現代には全く消滅した考え方です。
 どちらが良いかは、直ぐにはなんともいえませんが、こういう精神世界もあるのだということは知っておくべきだと思いますね。
 
 式子(しょくし)内親王は、幼くして皇籍を離れられたようで、歌道に励まれ、最終的に出家されております。平安末期の代表的女流歌人とされています。

☆最近読んだ本

18.3.4

名歌A「防人の歌2首」/小柳陽太郎/扶桑社

 前に読んだ本「名歌でたどる日本の心」の中で、私の心琴に触れた歌を2首づつ取り上げています。
 今回は防人(さきもり)の歌を2首。

 忘らむて野行き山行きわれ来れどわが父母は忘れせぬかも
 ―商長首麻呂(あきのおさのおびとまろ)(万葉集(国歌大観4344))―
 「忘れようとして野に山に旅を続けてきたが、どうしても父母のことを忘れることはできない」

 防人は日本の辺境を防備する兵士。この読み人は少年兵の防人なのでしょう。

 防人は、天智二年(663)、百済救援軍が白村江(はくすきのえ)で唐の船軍に敗れて以来、増大する半島からの脅威に備えて、筑後、壱岐、対馬などに配置されました。3年交代で東国(静岡、長野以東、関東全域に及ぶ)などの農家の若者が出征していきました。東国から、難波(大阪)までは徒歩で行き、ここで集合して、あとは船で瀬戸内海を経て任地へ向かいました。当時のことですから、遠い遠い外国に行くような感じだったのではないでしょうか。帰る保証も無いような状況であったようです。
 
 父母や妻や子のことを思う兵士達の歌が多数ある、その一方で心を決め義務感を持って雄雄しく立ち向かう気持ちを、けなげに詠んだ歌も多数あります。この時代に、既に国家という意識が存在しており、「天皇=日本国」のために国難に殉じようという意識があったということなのです(次の歌)。
 これらの人たちは、ただ単に猛々(たけだけ)しいだけではなく、当然に人間としての情を持っており、それを素直に表現しています。更には、これらの歌を後世の人たちが万葉集という歌集に取りまとめ、その人たちの心情を優しく反復しているのですね。私は、この辺の経緯が大変に素晴らしいと思います。

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 けふよりはかえりみなくて大君の醜(しこ)の御盾(みたて)といでたつわれは
 ―今奉部与曽布(いままつりべのよそふ)(万葉集(国歌大観4373))―
 「今日からは、自分は、心にかかるすべてを打ち払って、天皇の強い御盾として出陣するのである。」

 先の大戦で、特攻機に乗って敵艦に突撃し散華(さんげ)された方々が遺言や辞世の句などを残しておられますが、それに読むときに似た感慨を覚えます。
 防人は父母の許に帰れる可能性はありましたが、必ず帰れるというものではなく、やはり心を整理し、それなりの覚悟をする必要があったのでしょう。上の歌にも、恐怖や不安や寂しさを振り払おうとする気持ちを感じます。

 

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18.3.3

名歌@「君が代、海行かば」/小柳陽太郎/扶桑社

 今回から、何回かに分けて「名歌でたどる日本の心」の中で、私の心琴に触れた歌を2首づつ取り上げたいと思います。

 我が君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで
 ―読人知らず(古今和歌集の巻七賀歌の部)−

 いわずと知れた国家「君が代」の元になった歌です。古今和歌集に「読人知らず」として収められています。古今和歌集は醍醐天皇の延喜5年(905)に勅撰和歌集として完成しました。「我が君」が「君が代」になったのは、鎌倉時代初期の古今和歌集においてだそうです。
 「我が君」、「君」はだれのことか、などという(私に言わせれば)たわけた議論がありますが、「君」とは、言うまでもなく天皇です。昔も今も、「日本=天皇」なのです。この感覚が平安の時代から続いているのですね。
 また、どこの誰が詠んだか解らない歌が国歌になっているのですね。いいものはいいという、実におおらかな態度です。私は、本当にかっこいいと思いますねぇ。
 この歌の意味は、「天皇の御世が(=日本という国が)細かい石の粒が徐々に固まって岩になり、苔が生えるぐらいの長い期間、栄え続けて欲しい」というものです。なんと、壮大なことでしょう。そして、それをこの短い句で言い表しているのです。
 御先祖に、ただただ敬意と感謝です。

   
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 海行かば 水漬く屍(みずくかばね)
 山行かば 草生す屍(くさむすかばね)
 大君(おおきみ) (へ)にこそ死なめ
 (かえり)みはせじ
 ―大伴家持(おおとものやかもち)(万葉集(国歌大観4094))―

 「海を行けば水に浸る屍(しかばね)、山を行けば草の生える屍となっても、大君のお側で死にたい。後ろを顧みるような卑怯なことはすまい。」

 この歌は「言立て(ことだて)」といい大伴氏の先祖以来、守り続けられてきた誓いの言葉であるそうです。すなわち、天皇に対して忠誠を尽くすという大伴家に伝えられた家訓なのですね。
 この歌に信時潔がメロディをつけ、今は「海行かば」というタイトルの曲として有名です。その荘厳な曲想から、鎮魂の歌として使用されていますが、本来は上記のような趣旨の歌なのです。

 この歌が収められている万葉集とは、7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に現存する最古の歌集であるとされています。約1500年前の歌がこうして現代にも生きている訳です。そして、その頃の人たちの気持ちや考え方に直接触れることができる。いろいろ感想がありますが、まず私達がなすべきは、これらの歌を沢山読み、当時の人たちのことを良く知り、そしてそれを後世に伝える、ということだと思います。


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18.2.26

国家の品格/藤原正彦/新潮社

 今話題のベストセラーです。
 私は、次のような理解をしました。

 日本は、他国と比較して非常に優れた要素を持っている。唯一品格を秘めた国なのだ。であるのに日本人はそれを知ることなく、グローバル化という誤った道を闇雲に進もうとしている。日本人はそれに気づくべきだ。

 
 一つのキーワードは「論理」です。
 次のように認識しました。
 私達は「論理」的ということに過剰な価値を置いているのかもしれません。
 例えば、なぜ人を殺したらいけないのか。なぜ、援助交際が良くないのか。
 これらのことを子供達から問いかけられて、私達はなんとか論理的に答えようとします。しかし、それを論理的に説明することができません。そうなりますと、説明できないのであるから、これらのことは許され得ることではないか、という変な状況がそこに生まれる訳です。
 このことは、法律に関しても同様でして、法律に決まっていないものは許され得るという考え方がでてくる訳です。
 これらの例は、「論理」というものに価値を置き過ぎているためにみずからその落とし穴にはまってしまったのだと言えるでしょう。

 上記の問いかけに対する答えは「道徳や倫理がそれを許さないのだ」という極めて単純明快な言い方で済むのですが、その答えを示せない、あるいは示してもその効果が全く期待できない世の中になっているのです。
 その昔、会津藩の藩校「日進館」では「ならぬことなならぬものです」と教えたそうです。すなわち、「だめなものはだめ」ということです。そういう指導ができないというのは、「論理」という足かせに絡め取られて、そこから我々が抜け出せないでいるということなのです。

 もう一つ、「論理の出発点」ということについてですが、私も思わず膝を打ちました。
 論理は、A→B→Cという形で表せますが、このAにあたる出発点が非常に大切です。数学の場合は、誰でもが納得できる「公理」から出発するのですが、実社会ではそういうものはありません。なぜなら、価値観が皆違うからです。したがって、一つのことを論理的に表現しようとしても、Aに当たる部分が人によって異なる訳ですから、そのあとの論理構成が正確であればあるほど結論は確実に異なります。これが、芸術などの分野であれば、それはそれで良し、ということになるのですが、行動を伴うようなものであれば不具合が出てきます。
 つまり、論理の出発点には、上で述べたような道徳や倫理のようなものを持ってくるべきであるということでしょうか。これを著者は「情緒力」という言い方をしています。

 
 さて、著者は真のエリートの条件に2つある、と言います。
 第1は、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役に立たないような教養をたっぷり身につけていること。そうした教養を背景として、庶民とは比較にもならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること。
 第2は、「いざ」となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があること。
 第1の条件については、前回読んだ本「名歌でたどる日本の心」に書いたように、和歌を通じて学ぶ芸術と日本の歴史、国体・・に極まるのではないでしょうか。日本のエリートといしては。

 
 また、著者は英語を小学校から習わせるのは愚の骨頂と言います。
 英語は、ほんの手段に過ぎません。生徒、学生が学ぶべきは、考える力であり、そのためには国語をしっかり学ぶべきだ、というのです。なぜなら、思考とはすなわち言葉であるからです。人は、言葉をつないで物事を考えているのですから、多くの語彙を正しく習得し、概念を言葉で体系付けづけるという能力が、絶対的に必要なのです。
 著者曰く、「(過度な英語教育を続ければ、)英語の実力がアメリカ人の五割、国語の実力が日本人の五割という人間になります。このような人間は、アメリカでも日本でも使い物になりません。少なくとも一つの言語で十割の力が無いと、人間としてまともな思考ができません。言語と思考とはほとんど同じものだからです。」



 最近、日本人を構成する要素のうち最も大きなものは「美意識」ではないか、と思うようになりました。
 私達は、バカとかアホウとかののしられても、場合によってはそういわれることを是とする風がありますが、お前は汚い、と言われるとこれはもうただでは済みません。そのくらいの意識があります。
 ここで言われる「品格」も一種の「美」です。
 著者が言うように、ひょっとしたらこの「美」が世界スタンダードになるのでしょうか。
 相当な時間が掛かるでしょうが、日本に対する評価は昔から知識階級の間では非常に高かったし、先日のアンケートによれば世界中で(支那朝鮮を除いて)日本の評価が高まっているようですし、本当にそうなっていくのかもしれませんね。


 以上、大変参考になる本でしたが、次の1点がすこし引っかかりました。
 「日中戦争(正しくは「支那事変」というべき)は、スターリンと毛沢東に誘い込まれたとはいえ、まったく無意味な「弱い者いじめ」でした。・・このような弱いものいじめをしたのは、日本の歴史の汚点です。・・武士道精神が廃れつつあったことの証拠です。・・」
 これは、先生の言われる「論理の出発論」に沿わないような気がします。つまり、当時の日本に対する評価について、支那事変は「日本の弱い物いじめ」であるという見方を論理の出発点にするのはどうかな、ということなのですが、どうでしょうか。
 私は、支那事変はスターリンと毛沢東に引きまわた戦争であって、著者のいうような弱いものいじめをした戦争という捉え方は偏っていますし、狭い見方のような気がします。


☆最近読んだ本

18.2.20

名歌でたどる日本の心/小柳陽太郎/扶桑社

 スサノオノミコトから昭和天皇まで、187人436首の歌を時代を追って紹介した本。この本は共同執筆であるが、主は小柳陽太郎氏。同氏の著書には他に『教室から消えた「物を見る目」、「歴史を見る目」』があり、これは今読んでいるところ。こちらは教育論。
 
 さて、この本、2000年の歴史で培われた日本の心を取り戻そうと言うのが主旨です。この2000年で培われたものとは、日本語の美しさ、日本人の感性の素晴らしさということではないかと思います。そして、それが今、見事に欠落した状態になっているのです。この落差。
 例えば、この本の冒頭「はしがき」のなかで、武田信玄と上杉謙信という2人の武将の歌が紹介されておりますが、

 ■武田信玄
 (かす)むより心もゆらぐ春の日に野べの雲雀(ひばり)も雲に鳴くなり
 はるがすみがかかると、もうそれだけで「こころもゆらぐ」というのです。この感性、そして表現力。

 ■上杉謙信
 武士(もののふ)の鎧(よろい)の袖を片敷(かたしき)て枕に近き初雁(はつかり)の声
 いわば戦闘中の野営の一場面なのですが、これを実に美しく詠んでいるのですね。

 彼らは、戦国時代という殺伐とした時代の中でも「優雅」を忘れなかったのです。
 一方、現代。
 ライブドアの変な面々、耐震強度の偽造にからんだ建築会社等の社長達、法律を破ってホテルの改築をし、恬(てん)として恥じない東横インの社長、談合にうごめく官民の要人たち・・・・、当時の武将に相当する地位を得ているこれらの人たちに、上のような文化の香りは一切しません。あるのは、「金」の臭気だけです。
 この差は、本当に気が遠くなるほど大きい。
 戦後から現在に至る教育が間違っているのです。

 さて、残された和歌によって、当時の人たちの文化素養がわかるというのは実は副次的なもので、それよりもその歌を通して当時のその人の心に、私達が直接触れることができるということが重要なのです。その手段を、私達は無数に持っているのです。日本は本当に素晴らしいと思いますね。

 この本には、歴代の天皇の御製(天皇が作られたお歌)はもとより、庶民の歌も載せてあります。
 例えば出征兵士の奥さんや母親が、さらりと心のこもった歌を詠んでいます。
 なぜ、そういうことができたのか、なぜ今の私達にはできないのか。(もちろん皆が皆ではありませんが。)
 それは、和歌になじんでいるかどうか、だと思います。
 山本五十六も歌を残していますが、彼は万葉集を愛読していたそうです。多かれ少なかれそういう環境にあったので、名歌を下敷きにするなどして比較的容易に作れたのではないでしょうか。

 いずれにせよ、今の私達には歌を作ることすら、また先人が作った歌を読んで先人の気持ちに接することすらできなくなっているのです。
 私はこの本を読むのに大変時間がかかりました。しかし、これら436首を熟読し味わっていきますと、和歌に親しみを覚えている自分を発見しました。そして、多分このようにして多くの和歌に接し続けることで、先人は作れるようになったのではないか、また自分も作れるようになるのではないか、と思った次第です。

 次回から、私の心に響いた歌を何回かにわたって紹介したいと思います。

 
 さて、上記に関連して、
 今朝の産経新聞「談話室」に吐田(はんだ)さんという奥さんの投稿記事がされておりました。

 息子さんの通う幼稚園では名札など、全て漢字を使っているそうです。不安があったそうですが、子供達(3歳児)はすぐにお互いをフルネームで呼べるようになり、あっという間に友達の名前を読めるようになったそうです。さらには、「松田さんの松と山中さんの山やから、松山や」などと道すがらの表札や看板をよんだりするのだそうです。そして、吐田さんは、子供達は自然に漢字の読みが身につくことに驚き、漢字の大切さを実感したそうです。
 そしてその息子さんは、4月から小学校に通うことになるのですが、小学校では名前はひらがなで書けとの指導だそうで、大いに疑問を抱いているそうです。

 この小学校の例に見るように、子供におもねった教育が横行しているのです。
 本来子供は乾いた砂が水を吸うようにあらゆるものを吸収できる。それを、あえて殺しているのですね。
 漢字もそうですが、古典も教育すべきなのです。百人一首など最適の教材ではないでしょうか。
 これを続けて教育してやれば、ぐっと深みのある人間が出来上がると思いますね。
 

☆最近読んだ本

18.2.11

正論18年3月号/扶桑社

 今月の一押しと二押を、メモします。

■1押し;「前原発言の衝撃と中国政府の靖国外交の破綻(評論家/石平(せきへい))」
 民主党党首前原誠司代表は「中国は脅威である」と公言している。なんと敵地の北京においても、堂々と中国脅威論を展開した。中国は、痛いところを思い切り突かれてて早速反応した。本来、中国高官が対応すべき会談にも中国外務省の1外務次官が出てきたという。前原代表は「まともな」対話の相手として取り扱われなくなったのである。最大野党の党首との対話を持とうとせず無視をしてきた訳である。付き合いもなにもあったものではない。

 ところが実は、前原代表は靖国参拝問題に関して、首相の参拝について明確に反対しているのであるから、この点で中国政府と意見の完全な一致をみており、いわば仲間同志なのだ。日中友好を語り合って日中改善を大いに図らねばならないはずだった。
 なにしろ、靖国問題が日中の最大の懸案であるはずな訳であるから、これが解決すれば、日中友好が大いに促進されるはずなのである。ところがどっこい、「靖国参拝大反対です」と言っていても、中国に都合の悪いことがあれば、まともな外交は直ちに中止、口を利くことすらしないという状態なのだ。
 つまり、靖国問題を解決すれば日中関係はよくなるというのは真っ赤なウソ。要は、日本を蹴落そうという、国際社会では至極当然のことなのであって、靖国問題は単なるその手段にすぎないのだ。
 前原代表に対する仕打ちで、そういうことがはっきりと解った。
 前原代表も「靖国の問題が仮に解決したとしても、日中間の問題は永遠に解決されない」と発言してそのことを明確にした。
 小泉首相も、結果的にこれと連動するように「(靖国参拝という)一つの問題で中国は会わないと言っているが、(これを理由に)首脳会談ができないのは理解できない」と中国を非難し続けている。
 与党と野党が一致して、極めてまともな理由で中国を攻撃しており、世界も認める状況のように見える。大変結構なことだ。

 マスコミは、この状況をもっと宣伝し、国民教育をしっかり行なうべきだ。


■2押し;「どどいつよむ奴/石井英夫」
 
著者は、以前産経新聞の産経抄を書いていた方。辛口コラムニスト。
 正論にも結構柔らかい記事があります。この記事は、詩人・中道風迅洞の「新編どどいつ入門」を軸にしたエッセイです。
  「ぎすぎすした世相や殺伐とした出来事ばかりの世の中、しばし柔らかで粋で美しい日本語の調べを味わってみようではないか」と著者石井英夫氏の言です。
 以下「新編どどいつ入門」からの歌です。

 逢って三年 愛して五年 飽きて十年 あと惰性(風迅洞)
 
 風迅洞は八戸出身。大正9年生まれ。早稲田の文学部だそうだから、あの名門八戸高校出身かもしれない。

 よよと泣くには きたない部屋を すこし片付け よよと泣く(本田山葉)

 男はこういう発想の歌はつくれないそうです。たしかに。

 燃えた一夜の のこり火消して 干した布団に しなう竿(秋山ふみ子)

 これは、も・の・ほ・し四音の折り込み句。そして、作者は御歳103歳!!

 他人のそら似と わかった背(せな)へ 未練がついてく 五歩六歩(風迅洞)
 どどいつよむ奴 この指とまれ そっと触れてる だけでいい
(風迅洞)
 
 そこで私も、
 触れてるだけでは どどいつよめぬ それより触れたい あなたの指に(たか陶)

 おそまつ。


☆最近読んだ本

17.7.1

オニババ化する女たち/三砂ちづる/光文社新書

 話題の本です。
 女性の体、自然にあれ、ということだと理解しました。
 例えば、お産は、西洋医学が普及していなかった時代には、病院に入院することなく助産婦さんの力を借りて行なわれた。それが普通の姿であったし、結果的に産婦の身体、精神にも優しいお産が行なわれた。一方、今は病院で、医者の主導によって、ある意味母体と赤ん坊を制御しつつお産が行なわれる。そして、それが当たりまえのこととして捉えられている。
 この例のように、現代では、デリケートな女性の体が自然でない力によって、いうなればさいなまれている、ということです。
 それで、女たちがオニババ化しているのだ、ということになるのです。
 世の中がギスギスしてきているのは、このことが一つの原因になっているのでしょう。
 女性に読んで貰いたい本だと思いました。
 
 最近、特に、国会では女性の進出に目覚しいものがあります。もちろん、女性が社会で活躍することに異論はありません。むしろ、能力のある方がそれにふさわしい場を得て、社会のために働かれるのは大変良いことだと思います。
 しかし、一部の女性の方でその言動に首をかしげることが多々あります。そこに男女の区分なく世の中のために、というスタンスで活動されるのであれば良いのですが、ことさらに「女性のために」ということを旗印にして、それも「被害者意識」を強く抱きながら活動される方が多いように思えるのです。田島某女、福島某女などはその典型でしょう。また、猪口大臣もその範疇のお方のようです。度の過ぎた男女共同参画法の整備を図っておられます。女性が、社会に押し出されることが本人にとっても社会にとっても幸せなことであるとは私には到底思えません。
 古い、という一言で片付けられてしまいそうですが、女性は妻として母親として家を守り子を育(はぐく)む。それが何よりも大事で尊い仕事であると、私は思います。
 もちろん、力のある方は社会に出て活躍されれば良いのですが、この本を読むと、それは女性本来の姿ではないなぁと思う次第です。
 国会に出られた女性議員の中にも立派な方はおられます。前述の変な議員さんと違って、そういう方はあくまで世の中全般を良くするために、女性の立場でものを見、考えるというスタンスでおられます。山谷えりこさん、などはそういうお方とお見受けしています。

 この本の中で、これはと思った部分(要旨)。
 「少子化対策は、少々おかしい。「妊娠出産子育て」というのが、働く女性にとっては重荷になっていて、この近代産業社会を維持していくのに負の要因だから、どうやって公の人たちがその負の要因をカバーできるか、という議論になっている。それだけでは女性の心と体にまったく響かないことに気づいていません。・・本質的なところに気づいていない。とにかく相手を持ったり、子どもを生んだりすることは、女性のからだにとって必要なことなんだ、と。必要で楽しいことだからやるんだ、というメッセージを伝えずに、いつまでたっても、「妊娠出産子育てはマイナスなこともあるけれども、それをカバーすることを行政が設けますから、生んでください」と言うことばかりでは、誰も子育てしたいとは思いません。子どもが増えないと産業社会が衰退してしまう。どうやって社会を維持していこうか。・・という側面しかない。」

 

☆最近読んだ本

17.6.20

文化人の通信簿/田久保忠衛・古森義久/扶桑社

 米国を知らずして米国を批判する文化人を、米国によく通じた2人が痛快に切りまくる。
 切られる人は、
 ・偏向するニュースキャスター;田原総一郎、筑紫哲也
 ・「ブッシュ落選」を叫んだ;鶴見芳浩、寺実郎、姜尚中
 ・幼い世界観による無知と錯乱;曽野綾子、井上ひさし、浅田次郎
 ・言論界のオソマツな虚人たち;大江健三郎、小田実、梅原猛、加藤周一、立花隆
 ・跋扈する国籍不明者たちの正体;藤原帰一、天木直人、浅井基文、宮本ひろ志、落合恵子、榊原英資
 ・衰えたり2匹のスピッツ;西部邁、小林よしのり

 私のアメリカの捉え方は、終戦後の日本をめちゃめちゃにしたばかりでなく戦後においても白人世界のトップに位置して、なおも人種的偏見を心の奥底に持ちつつ、日本をカモにしている国である、というものである。もちろん、アメリカはそれを露骨に出しはしないが、上手に(当然ながら)国益を追求している国であるといえると思う。こうして、(うぶな)日本は手玉に取られ続けている。
 しかし、著者お二人の見方は、やや違う。米国の良心的な部分に焦点を合わせた書きぶりになっている。
 確かに、物事を単純に、一つの側面からだけで判断してはいけないし、冠たる米国通の、また国際政治に造詣の深いお二人の意見である訳だから、十分に尊重したいと思う。

 一方、この本で槍玉に挙げられた面々。
 とんでもない人々である。
 各々の具体的な発言を捉えて、いかにとんでもないかが説明されている。
 ただ、この中で意外なのは「曽野綾子さん」。
 「イラクにおいては、正義など言葉の飾りに過ぎない。『イラク国民の幸福と利益』などという観念は存在しない。」という決め付けを曽野さんがされているという。さらに、イラクには民主主義は根付き得ない、という発言に繋がっていく、という。
 曽野さんの反論も聞く必要があると思うが、ここにに記述されている範囲では曽野さんに分がない。

 曽野さんについては弁護をしたい気もするが、それ以外の人々については全く賛同できる。
 どうしたら、こんなひねた人間ができあがるのだろうか。
 本当に困った人たちだ。


 本論に関係がないが、ふーむとうなった部分。
 「民主主義とは統治される人たちの自由な意思によって統治されるしくみ、メカニズムを築くという政治システムです。」
 なるほど、と皆さん思いませんか。

☆最近読んだ本

17.6.10

ザビエルの見た日本/ピーター・ミルワード/講談社学術文庫

 ザビエルは1549年(足利時代)来日。キリスト教の布教に邁進し、この間、スペインのイエズス会や友人に手紙を書き綴る。
 この本の構成は前後段に分かれており、前段ではこれらの手紙のうちの日本人に関するものが掲載されており、後段にはこの手紙を踏まえての著者の考えが述べられている。

 私は、この本にイザベラ・バードの「朝鮮紀行」のような客観性の高い内容を期待したが、ザビエルの手紙は、いささか偏った内容になっているように思われた。つまり、極端な言い方をすると報告書というものにありがちな粉飾があるようだし、また、キリスト教という高級な宗教を未開のものどもに教え諭してやるのだというおごりのようなものが感じられた。従って、この本にはある種の「にごり」があり、日本人が正しく捉えきれていないのではないかと思われた。こういうのは1次資料とは言えず、何がしかの割引をしながら読まなければならないということであろう。
 
 例えば、ザビエルは手紙の中で
・「日本人が、キリスト教の(優れた)教えを得たくて集まってきている‥」などと言っているが、これは単に日本人の知識欲が極めて旺盛であるということによるのではないか。
・「彼ら(日本人)は、神が宇宙の創造主であるという真理について何もしらないのです」「(そこで説明をすると)彼らは私たちが本当のことを教えたことがわかって大変喜びました」「日本人は気立てがよくて驚くほど理性に従います。昔からのやり方が間違っていて神のおきてが正しいのだということを彼らははっきりと悟りました。」などと言っているが、人種的優位性の感覚からくる押し付けであっても、日本人の心優しさ(サービス精神)によるものが大きいのではなかろうか。あるいは、神を信じるようになったのではなくて、キリスト教の作った一つの理屈(ロジック)を納得し、知的な満足を得た、ということではなかろうか。というのは、現在の日本でキリスト教が隆盛を誇るまでになっていないし、日本人の宗教観の根底は祖先崇拝であり、唯一絶対神を芯から信仰するようになったとは私には思えないからである。
 つまり、ザビエルの努力は残念ながらあまり奏効せず、また日本人に対する見方も皮相的であったように思う。これは、当初その予定も無くまた十分な準備も無く日本に来て布教活動をやったのだからやむを得なかったということかもしれない。

 この本の後段は、著者であるピーター・ミルワード氏(東京純心女子大教授)のコメントである。私の偏見かもしれないが、やはり西洋人(白色人種)の東洋人(有色人種)に対する、これまたおごりのようなものが感じられる。常に自分を高みにおいてのコメントに聞こえるのである。私が狭量なのでしょうか?
 ただし、ザビエルが(布教に成功したか否かは別として)何故日本で受け入れられたかについては私なりに納得できる、次のくだりがある。「ザビエルの熱意と誠実さは確かに日本の聴衆に感銘を与えたに違いない。きっとそのために大勢の者がキリシタンになる決心をしたのだろう。」という点である。
 つまり、ザビエルは極めて優秀なセールスマンであったのである。商品(キリスト教)は別にして、セールスマンの熱意と誠意が大いに評価され商品が売れたのである。また、創造主である神そのものよりも神の子であるキリストが苦難の道を歩んだ点に共感が得られたのかもしれない。
 こう考えると、唯一絶対神という通常なら日本人には受け入れがたいキリスト教が、ある程度受け入れられた理由が分かるような気がする。

 

☆最近読んだ本

17.5.30

歴史を偽造する韓国/中川八洋/徳間書店

 1990年頃、中村八洋氏の授業を一度受けたことがあります(海上自衛隊幹部学校)。迫力満点、聴講していた教官が怒鳴りあげられるというおまけもありました。
 また2004年頃、氏の授業を聴講する機会がありました。そのときの授業の冒頭の話題として、いきなり「自衛隊は、国民の生命財産を守るためにあるのではない。その仕事は、地方自治体にあるのだ。去年、そこに(机を指差して)座っていた学生がそれを理解できずに、口答えをした。」と、これまた、すごい迫力でした。そのときは、私も中川先生が間違っていると思いましたが、考えてみればお説のとおりで、「念仏のようなものに囚われてしまっていた」と反省いたしました。(解りやすく説明してやれば良かったのにという思いも致しました。)
 まぁ、とにかく「舌鋒鋭い」とは、このようなことか、と感心した次第です。

 前書きで、「本書は、隣国に位置する韓国中学校の歴史教科書のうち、主に韓国併合時代の35年間にかかわる記述を検証して、その歪曲・改竄・捏造の実態を簡潔に摘出したものである」とあるとおり、ずばり「『嘘、嘘、嘘、・・・』の政治宣伝書と化している韓国の歴史教科書」を切って捨ててます。
 確かに、韓国の教科書は教科書というよりも政治宣伝書といったが良い内容です。
 韓国の教科書は国定ですから、これがそのまま韓国政府の考え方であります。

 韓国併合では、朝鮮人が塗炭の苦しみを味あわされ搾取されたなどと、欧米の植民地政策と同じであるかのようなイメージを抱きがちですが、実際は全く逆で、収支を見れば日本が搾取された、といっても良い状態であることがわかります。したがって、日本は併合をする必要はなかった。愚策であった、と中川氏は言います。そうしたのは、どうも、政治のいい加減さ、理念のなさ、センスのなさ・・・に原因があるようで、今の政治家・今の日本人とそういう点はあまり変わらないのかなぁと思われます。

 朝鮮人の生活は、結果として、李朝時代に比べればはるかに良い生活になったといえます。ただし、併合という形態のいわば植民地的な状態に置かれたことは、朝鮮民族の尊厳から見れば残念ではあったでしょう。しかし、それだからといって、事実としては、当事併合を撥ね返す力が朝鮮民族にはなかったわけですから、自業自得として認識しなければならないわけであって、併合されたことを持って日本に対してとやかく言うのは、筋違いもはなはだしい見苦しい行為な訳です。
 このような点が未だに解らず、嘘で教科書を塗り固めている、民度の低い国民がお隣に在るということですから、上手なお付き合いをしなければなりません。
 これまでのように、このチンピラの機嫌をとってばかりいると、どんどんのぼせ上がってきますから、ここらでガツンとくらわしてやる必要があります。実力行使ではなくて、私達は品位ある国民ですから、毅然とした態度でぴしゃりといってやればよいのです。
 この町内は、他にヤクザの支那が住んでいますが、南のほうに行けば物のわかった方もいますし、隣町には(ちょっと注意を要しますが)大人の判断のできる色白の旦那方もいます。その人たちも、少しづつ日本の立場を理解してくれ始めています。ガツンとやりましょう。でないと、支那朝鮮の言うことが正しいということになりかねません。

 本の内容から外れましたが、本では、今韓国が言い募っているあらゆることがすべて嘘であることが例証されています。
 下の「親日派の弁明A」とあわせて、読めば完璧です。
 軽蔑すべき朝鮮人との認識を深めました。少し過激ですが・・。

 中川氏は、あとがきでこう述べます。
 「韓国はどうやら「小中華」主義と事大主義を復活させ、外交の指針とするようになった。李朝へと先祖返りしたのである。」「小中華主義の韓国との国交縮小の道を日本は選ぶべきである」

 ・・・中川教授の教壇に立つ姿を思い出しました。


☆最近読んだ本

17.5.24

親日派の弁明A/金完燮(キム・ワンソップ)/扶桑社

 すごい本です。
 その1も読みましたが、これほどの刺激はありませんでした。
 よく研究されているし、自国に対する冷厳なスタンスも見事です。
 自国民から本当に殺されそうになっているようです。普通は、自国に有利になるようにその歴史を解釈して当たり前なのですが、この本では最初から最後まで朝鮮非難です。つまり、弁護のしようのないほど朝鮮は悪かった、ということなのです。
 私も、「目から鱗」の記述がここかしこにありました。
 
 中韓と日本の関係についての、金氏のとらまえ方。
 「・・南北朝鮮と中国は体制は違っても建国の過程で「抗日闘争」を最優先の価値としたという共通点を持つ。・・大きな問題は、過去の反日運動の正当性や日本帝国の侵略性というもののほとんどが、歴史的事実に対する捏造や誇張により作られたものであるため、時間が経ち研究が蓄積されるにつれて、そのイデオロギィとしての効用が低くなっているということである。したがって、これらの国家は国家の存続のため、時が経てば経つほど、反日洗脳教育にさらに多くの予算を注ぎこまなければならないというジレンマに陥っている。・・・」
 つまり、我国は正しい史実をひたすら言い続け、時が経つのを待てば、先方は朽ちていく、ということなのです。したがって、まじめに付き合う必要はなく、ましてや、靖国参拝に右往左往する必要などまったくないのです。小泉首相が8月15日に参拝され、静かに明確なメッセージを送り続ければよいということです。近年は、(不十分ながらも)諸外国が中国の卑劣をちゃんと新聞などで言ってくれております。
 
 細部、
 閔妃事件、独立軍の正体、真珠湾の真実、軍隊慰安婦(日本軍のヒューマニズム)・・僭越ながら大変優れた歴史観です。
 再読したいと思っています。

☆最近読んだ本

17.5.20

日本海海戦の真実/野村實/講談社現代新書

 「・・の真実」とあるが、これまでの史実を大きくひっくり返そうというのではない。
 日本海海戦の状況は、既に司馬遼太郎によって「坂の上の雲」によく書き表されており、本書では、その後に新らしく発見された資料によって2、3の修正を行なうというものである。
 その新しく発見した資料というのは、「極秘明治三十七八年海戦史」150巻であるという。この資料は何セットか存在していたが大東亜戦争直後にほぼすべてが焼却され、1セットが皇居に残っており、戦後30年を過ぎて防衛研究所に移管され所蔵されることとなった。司馬遼太郎が執筆した頃は、この存在は知られておらず、したがって、いくつかの事実がここに明らかになったということである。

1 バルチック艦隊の通過コースの予測(津軽通峡の可能性も大いにあり。)
  対馬か津軽か宗谷か、極端に情報が少ない中、難しい判断を迫られていたわけであるが、司馬遼太郎の本では、ひとり東郷だけは「対馬を通る」と確信していたとされている。しかし、この極秘図書によると実際は、24日には津軽へ向かう計画が書かれた密封命令が配布されており、25日午後には連合艦隊は北(津軽)へ移動する準備をほぼ終えていたという。
 25日に三笠艦上で軍議が行なわれ、結局は
 「次の情報を待って(26日正午まで)決すべし」とされた。
 この決定を見るには、第2艦隊司令官の島村速雄の意見が大きく影響したという。その意見の主旨は「バルチック艦隊は極めて長期の航海をしており、太平洋へ迂回することはない」といいうものであった。(ペルシャ湾での機雷掃海にPKO初参加した落合元海将補が後日談で、「日本への帰路、ロジェストウィンスキー中将のの気持ちが良く分かった」とおっしゃるのを伺った。長期航海の後、とにかく早く帰りたい、ということであった。)
 そして26日早朝の、輸送船の分離・ウースン(上海北の軍港)入港の情報を得て、対馬通峡を確信し決戦の準備に入ることになる。
 ・・・
 要は、情報の少ない中、厳しい情勢判断が最後まで続けられ、ぎりぎりのところで勝利の女神が連合艦隊に顔を向けたということであろう。

2 丁字戦法の考案者は秋山真之ではない。
  このような定説が生まれたのは、当時軍令部参謀であった小笠原長生による秋山・東郷美化活動に負うところが大きいらしい。
 また、司馬遼太郎の「坂の上の雲」では、東郷の「実戦の経験から出たかんがこの戦法をとらせた」としている。
 しかし、実際は「連合艦隊戦策」に丁字戦法として記載されており、所要の訓練と立付け(リハーサル)が行なわれていた。
 ・・・
 当然といえば当然であろうし、いきなり「かん」で発動できるものではないし、戦法はさまざまなレベルで練りに練られドキュメント化されたのであろう。

 さて、バルチック艦隊は22日沖縄本島と宮古島の間を通航し東シナ海に入る。
 そして、25日には決戦に備え、輸送船をウースン(上海北の軍港)に向かせるが、これを日本側は26日早朝に知ることとなる。
 対馬通峡に際しては、27日正午の位置を東水道と定めた。水雷艇の夜間攻撃を恐れての処置という。

 そして、そのその航海計画どおり、バ艦隊は1200に東水道中央に達する。
 連合艦隊はこれと会合すべく既に27日早朝鎮海を出港、1339には東郷司令官が敵艦隊を自ら視認する。1408敵艦からの初弾により一大海戦の火蓋が切って落とされる。
 あとは、日ごろの訓練成果が見事に発揮され、パーフェクトの戦果。我れは水雷艇3隻の損失のみであった。

 特に、目新しいとことはないのではないか、と言ってしまえば実も蓋もないことで、世界的海戦について正確が期されたことの意義は大変に大きい。司馬遼太郎の作品が日本国民に与えている影響が大きいことからそれだけにきちんとしておくべきことである。

 それにしても、当時の日本、すごかった。
 ちょんまげを切ってからわずか37年。これまでの巨大システムを作り上げ、完璧に運用したのである。
 感激するのは、おじさんだけかしら。
 きちんと話して聞かせれば誰だって感激するはずだ。オリンピックと同じだもの。
 特に、なんとなく無気力で冷めた子供たちに聞かせたい。ほんの半日でよい。
 教育の大切さを思います。

 

 

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