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☆ひとりごと

18.8.5

靖国の喧騒はこの夏で終わり?

  あと10日で、終戦記念日(正確には停戦日)が巡ってきますが、お約束どおり朝日を始めとする左巻きのマスコミが徐々にヒートアップして参りました。
 今年はこれに、富田メモをかざした日経が華々しく参戦を果たした訳ですが、こちらは間もなく地に這わされるはずです。ネット界では、あれは陛下の発言ではないとほぼ決着が付いていまして、草の根の良識が公的メデイアを凌駕しているという状況になっているのですね。これに追い討ちをかけるかのように、産経の岡崎久彦氏の論説、(読んでいませんが)週間新潮の記事、‥日経は大きな代償を払うことになるはずです。

 今朝の新聞で、安倍官房長官がこの4月15日に官房長官の名前で靖国を参拝していたと伝えられております。それに対して、朝日などがとやかく言っておりますし、おなじみの加藤紘一、山崎拓が「けしからん」等と申しております。しかし、かってのような世論の反応はありません。つまり、国民は既に答えを出しているのですね。「靖国参拝いいじゃないか。当たり前じゃないか。よその国にとやかく言われる筋合いはない」と。

 こういう状態を作ったのは小泉さんです。このことは、小泉さんの功績の中で最大級のものといってよいでしょう。小泉さんも当初は、中共・韓国に秋波を送っていたのですが、江沢民や胡錦濤と会談するたびに、彼らは靖国参拝するなと、口汚く、しつこく言う訳ですから、いやになったのだと思います。また小泉さんが参拝をする際も、日にちをずらしたり、参拝要領を変えたりしたのですが、彼らの攻撃は全く変化ありませんでした。ここに至って、小泉さんは身をもって理解した訳です。参拝を止めても、中国は手を緩めることは無い、と。こりゃあ無駄だ、と。そこで、中国をたしなめる一方で淡々と参拝することに決めたのだと思います。したがって、この8月15日は必ず参拝されます。
 
 中共はがっかりしていると思いますね。
 そして、中共にとっては、さらに悪夢が続きます。次の安倍さんも靖国を参拝する訳ですから。
 これで、もう決まりです。
 もう靖国カードは使えません。
 
 今年は、一般の参拝者も多いはずです。私も行きます。
 こうして、恒例の靖国の喧騒は今年が最後になるはずです。


 さて、そんな中、今朝のテレビで小沢一郎が次のようなことを言っておりました。
 「@(いわゆる)A級戦犯の戦場で亡くなったのではないから靖国合祀は間違っている。
  A靖国合祀もしょせん役人がやったことですから。」

 @は、彼が良く言っていることなのですが、これは誤っています。
  戦争の終了は、平和条約(今次戦争ではサンフランシスコ平和条約)が締結され発効した時点ではじめて終ります。昭和20年8月15日は停戦協定(ポッダム宣言がこれに当たると思います。)の下で戦闘状態を中止された日です。平和条約が発効し、戦争が正式に終ったのは昭和27年4月28日なのです。したがって、この間は戦争中なのですからこの間に敵によって殺されればそれは立派な戦死なのです。合祀された戦犯のほとんどはこの期間中に敵によって殺されておりますので、「戦死」です。
 ほとんどが、と書きましたのは平沼騏一郎氏のみが27.8.22に亡くなっておられ、これに該当しません。ちなみに、14人の方の命日は下欄※のようになっています。

 Aについては、国民をバカにした話です。役人は法律等に基づいて処置をしています。その法律等は国民が選んだ国会で定められたものです。たしかに、社会保険庁をはじめとするいい加減な役人がいることはいますが、十把一絡げにして役人(=議員=国民)のせいにするとはなんという不見識でしょうか。

 本当に度し難い人物です。
 みてくれから、豪腕などといわれていますが、情も理も持ち合わせのない人物でしかないようです。
 政権交代など夢のまた夢といってよいでしょう。


@東条英機(首相、陸軍大将、死刑(23.12.23))
A板垣征四郎(陸軍大将、同(23.12.23))
B土肥原賢二(同、同(23.12.23))
C松井石根(同、同(23.12.23))
D木村兵太郎(同、同(23.12.23))
E武藤章(陸軍中将、同(23.12.23))
F広田弘毅(首相、同(23.12.23))
G小磯国昭(首相、陸軍大将、終身禁錮、服役中死亡(25.11.3))
H白鳥敏夫(駐イタリア大使、終身禁錮、同(24.6.3))
I梅津美治郎(陸軍大将、終身禁錮、同(24.1.8))
J平沼騏一郎(首相、終身禁錮、保釈直後死亡(27.8.22))
K東郷茂徳(外相、禁錮20年、服役中死亡(25.7.23))
L松岡洋右(外相、拘禁中死亡(22.1.5))
M永野修身(海相、海軍大将、同(21.6.27))

 ちなみに、Cの松井岩根大将はA級(正確にはA項)「平和に対する罪」ではありませんで、BまたはC項「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」です。
 また、L、Mの両氏は判決を受けることなく亡くなっていますから、戦犯ではありませんね。この辺、クリアでないままに議論が進んでいるのが、いい加減というか不思議です。


 
☆ひとりごと

18.7.21

昭和天皇 A級戦犯合祀に不快感?
 衝撃的なニュースが流れました。
 元宮内庁長官の富田朝彦氏(故人)が、残したメモ(63.4.28付け)に、天皇陛下が昭和50年11月以降、靖国神社を参拝されなくなった理由が記されているということです。日経新聞のスクープでした。

 メモでは、
 私は 或る時に、A級が合祀されその上
 松岡、白取までもが
 … … …
 だから私あれ以来参拝していない それが
 私の心だ
 
 つまり、陛下は、A級戦犯が合祀され、中でも個人的に好ましく思われていなかった松岡元外相と白鳥元駐伊大使も含まれていることに不快感を持たれ、だからそれ以来参拝をしておらず、それが自身の心である、とおっしゃったということなのです。

 私には、信じられません。
 陛下がこういう風にご判断されることがあるのだろうか。次のような疑問があります。

1 「A級」という言葉使いをされたのだろうか
 A級とはA級戦犯のことです。
 この用語を使用するということは、東京裁判を認めるのと等しいことになります。
 陛下は、これをお認めになっていたのでしょうか。
 「戦犯」とは、勝者である連合軍が国際法に違反し、法の不遡及という原則を犯し、裁判という名前を借りた茶番劇によって敗戦国日本の要人、将兵に対して一方的に冠した汚名なのです。この意味で、そもそも東京裁判は無効なのです。従って、最初から戦犯は存在しません。また、仮にそれを認めるとしても、国会決議や法改正(遺族年金法、恩給法など)を経て既に名誉は回復されております。したがって、戦犯はもう日本には存在しません。少なくとも私達は、これら同胞をそういう呼称で呼ぶべきではありません。
 陛下におかれては、連合軍による偽りの刑に服した方々を「戦犯」とするご認識は持っておられないはずだと思うのです。

2 靖国で陛下をお待ちしている200万柱の英霊を裏切られるということがあるのだろうか。
 大東亜戦争において200万人以上の将兵などが、多少形式的な側面があったにしろ「天皇陛下万歳」を唱えて死んで行きました。そこには、死ねば靖国に祀られ、天皇陛下をはじめとして国民がこぞって参拝してくれるという暗黙の了解がありました。それなのに、好ましく思っていない人物が祀られたからといって、200万柱の将兵たちの気持ちを無視されるということがあるのでしょうか。
 天皇のご参拝は、既にほとんど公務であるといってよいと思いますが、それをあっさりと止められるということがあるのでしょうか。

3 共に戦った、戦争指導者たちを非難されるということがあるのだろうか。
 松岡、白鳥両氏に対しては極めて好ましくない感情を抱いておられたようです。
 両氏に不適当な言動があったことは確かであるようだし、陛下も人間でいらっしゃいますから、そういう好悪の感をお持ちになることはあってよいと思います。しかし、そういう2人を形式的にしろ認証されておる訳ですし、陛下ご自身も絶対的立場ではなかったものの今次戦争の指導部の一員を構成しておられました。その上で、その同じ指導部を構成した人たちをA級というくくり方で非難されるということがあるのでしょうか。そしてそれを理由にご参拝を中止されるといいうことがあるのでようか。

 以上、誠に畏れ多い疑問を書き連ねましたが、今回のメモは全く納得できません。
 このメモは、「昭和天皇という伝記」の文脈から唐突かつ大きく離れているのと思うのです。

 また、この時期に発表されたことに大変政治的な匂いがします。胡散臭さがぷんぷんしております。
 もう少し、冷静な分析が行なわれるのを待ちたいと思います。

 

 
☆ひとりごと

18.7.17

我が子を殺す

 秋田県の豪憲君殺しの畠山鈴香容疑者が長女の彩香ちゃんの殺害を自供したそうです。
 我が子を殺す。
 親と子の関係は、あらゆる人間関係のなかで最も密接で不可分ともいえるものです。そういう関係にある我が子を殺そうという発想はどこからでてくるものなのでしょうか。
 それは、そういう大切な存在である我が子よりも圧倒的に自分自身が大切だという考え方から来ているのです。つまりは、世の中のあらゆる物事のなかで自分自身(個人)が最も尊重されるべきだ、という発想なのです。

 かっては、そういうことはありませんでした。まず、子どもが大切にされていました。
 最近読んだ本「逝きし世の面影」のなかに、江戸時代の子どもがいかに大切に扱われたかということが一章を設けて書いてあります(第十章「子どもの楽園」)。この本は、当時日本を訪れた外国人の日本観察記録集といったものなのですが、この中で子どもがひたすら愛されている状況が良く分かります。
例えば、
・「日本ほど子供が、下層社会の子供さえ、注意深くとり扱われている国は少なく、ここでは小さな、ませた、小髷をつけた子供たちが結構家族全体の暴君になっている。(ネットー)」
・「私は、これほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。…他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。(イザベラバード)」
・「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことはめったにおこなわれない。ただ言葉によって譴責(けんせき)するだけである。(フロイス)」
かといって、甘やかすばかりではなかったようです。
・「親は子どもをひどく可愛がり甘やかす、といいながら、同時に子どもに対して決して手綱を放さない。(マクレイ)」)
・「日本の子供は決しておびえから嘘をいったり、過ちをかくしたりはしません。青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒して貰ったりするのです。(フレーザー夫人)」
・「家庭教育の一部は、色々なゲームの規則をならうことである。規則は絶対であり、疑問が生じた場合は、言い争ってゲームを中断するのはなく、年長の子どもの裁定で解決する。彼らは自分達で遊び、たえず大人を煩わせるようなことはしない。(バード)」
等々、等々。
 この状況は江戸期から戦前まで続いていたと思われますが、戦後それが劇的に変化しました。いわゆる戦後民主主義です。
 その最たるものが、異常なほどの「個人の尊重」です。
 昔から社会の宝とされていた子どもよりも大事なものになりました。
 つまり、何よりも自分自身が第一であるとする、誤った「個人の尊重」という発想が戦後の日本にはびこったのです。
 鈴香容疑者は、その典型であり、氷山の一角なのです。
 従って今、日本には、程度の差こそあれ鈴香容疑者が無数にいます。
 どうしたら良いか。
 答えは、この戦後民主主義を払拭することです。
 では、具体的にどうするか?
 …あるにはありますが、考えるだけで気が遠くなります。それほど、病根は深い…。

 
☆ひとりごと

18.7.6

めぐみさんは生きている(映像の力)

 横田めぐみさんの夫とされる金英男氏家族と金氏の母・姉との面会の様子(6月28日)、金氏とヘギョンさんの記者会見の様子(6日)がテレビ放映されました。これらを見るにつけ、横田さんご夫妻をはじめとする拉致家族の皆さんへの同情の念で心が痛むとともに、金正日への憎しみの気持ちがこみあげてきまして、(この私でさえ)金正日を殺してやりたいような衝動に駆られます。
 一連の流れの中で北朝鮮が伝えたいメッセージは、「めぐみさんは既に死亡しているのだから、今後拉致問題の議論の必要はない。」ということです。ところが、めぐみさんが亡くなっているという決定的な証拠は、当然ながら出すことができない訳ですから、北朝鮮は嘘の上塗りを続けざるを得なくなっています。そして、それが上手な嘘であればまだしも、いい加減なストーリーでこれを組み立てていますので、今回のメロメロの茶番劇になっているのです。このような状況から、私はますますめぐみさんは間違いなく生きていると思いました。


 ここで、本当に気の毒なのは、まだうら若いキム・ヘギョンさんです。下手な脚本家が書いた架空のお話をもとに、これまたセンスのかけらもない舞台監督の下で演技をし続けなければならないからです。親父の金英男氏くらいになると、(本人も言っているように)特殊機関の人間ですから嘘のつき方や、その態度も一応さまになっています。ところが、テレビで見ているとヘギョンさんの場合はちょっと違うようです。場にそぐわない、なんとなく違う雰囲気をかもし出しています。英男氏とは距離があるようですし、新しい妻といわれる女性(恐らく俳優)とも明らかに距離があります。
 そして、なんといっても日本人であるめぐみさんに育てられている訳ですから、朝鮮人的ではない感情を持っているのではないか、と思わせるような雰囲気なのですね。  
 ひょっとしたら、それは早紀江さんのあの毅然とした芯のある態度に近いものが受け継がれているのではないかと私は思います。
 そして、めぐみさんは生きておられる訳ですから、ヘギョンさんの頭の中には、あのやさしいお母さんの現実の姿が極めて明瞭にある訳です。したがって、嘘もつきにくい、そんな大変困難な状況下におかれているのです。記者会見の場で、金氏、(俳優の)後妻、弟と撮った家族だんらんの写真が紹介されましたが、撮影のときのヘギョンさんの気持ちはどうだったのでしょうか。金正日への憎しみが心の底から湧き上がります。

 一連のテレビ報道の中のヘギョンさんの言動を観察して、かってに上のような想像をしました。
 同じような感想をもたれた方は多いのではないかと思います。
 最近特に微細になって、ちょっとした表情や雰囲気までも写し撮るテレビ映像の力は凄いと思います。

 めぐみさんは、確実に生きています。そして日本の救出をまっています。
 北朝鮮の崩壊の時期は迫っています。国家崩壊の混乱の中での拉致被害者救出のシナリオを優先的に準備しておかねばなりません。


 
☆ひとりごと

18.6.28

伊藤若冲

 伊藤若冲(じゃくちゅう)は、江戸時代中期の画家です。1716年生まれ、1800年に85歳で没します。当時としては大変長寿でした。絵を描き始めたのは20代終わりごろからだそうですから、晩成タイプの画家だったようです。そういえば、葛飾北斎も長生きしていまして、90歳まで生きています。北斎も20歳〜90歳の間絶え間なく作品を作り続けています。

 若冲に戻ります。
 現在、皇居東御苑の宮内庁三の丸尚蔵館で展覧会が行なわれています。入場無料、会社の近所、ということで、お昼ご飯もそこそこに早速鑑賞してまいりました。
 
 若冲が描く花鳥画30点ほどがこの尚蔵館で管理されているそうで、平成11年から6ヵ年をかけて修復作業を行なったとのことでした。3月〜9月にわたり5期に分けて展示が行なわれるようです。

 展示されている絵は、全てが非常に繊細でかつ鮮やかでした。
 この絵では、今にも動き出しそうな鶏が描いてありますが、実に細かい。例えば、写真では見えませんが足のうろこ状の模様などが細かく描きこんであるのです。もちろんこの部分だけでなく、大変な観察眼と表現力が微細な部分にわたって駆使されているのですが、それでいて全体のバランスが崩れていないのはさすがといえるのでしょう。

 また、色合いが非常に鮮やかというか輝いているのです。別にオウムの絵がありましたが、白い羽毛がまさにつやつやとしていますし、量感もあるのですね。上に修復作業がなされたと書きましたが、その修復作業の際にあわせて色々と調査されたそうでして、さまざまな絵の具(自然界の鉱物などから作られている。)が使用されており、また生地(絹布)の裏にも絵の具を塗ったりなどの技法がとられているそうです。
 この辺の執念というか執着力というか大変素晴らしいと思います。
 このような細密画は当時の沢山の画家が描いています。縮みの文化の、いかにも日本人的という見方が出来るかもしてませんが、単に細かいばかりでなく、全体のバランスや構図なども優れていて、必ずしもそうとは言えないように思いました。
 でもやっぱり、細密な表現については感動を覚えますね。(私も、同じ気質(縮み文化)を受け継いでいるということなのでしょうか。)

 
☆ひとりごと

18.4.10

踏み絵としての靖国(小沢代表発言に関連)

 民主党は、小沢一郎を代表に選出しました。
 どんな発言がでるのか、国民は注目しました。あのぶざまな騒動の後ですし、また、あのこわもての小沢一郎ですから、どんなことを言うのだろうか、皆さん相当の関心を持ったわけです。
 最大のポイントは、政権交代に値する党に変わり得るのだろうかかどうか、ということであろうと思います。
 この点、どうだったか。
 テレビ報道によりますと、小沢代表は、記者団の靖国問題についての質問に答えて次のような発言をしました。

 「そもそも、あれ(A級戦犯)を祭るのが間違い。(分祀は)できます。簡単にできます。政権とったら、すぐやります」

 いわゆるA級戦犯の分祀論です。
 私の国会議員に対する評価の基準は、まさにこの「靖国問題」なのですが、この発言による私の評価は「全然ダメ」、です。
 
 国会議員というのは、県会議員や市会議員などと比べるとその性格が全く異なります。後者は、基本的には国内において、住民の方を向いて政治にたずさわっているわけでして、どう転んでもコップの中の話です。レベル的にはコップの中での利益調整だと私は思います。
 一方、国会議員は弱肉強食の世界(国益がもろにぶつかり合う世界)で戦わねばなりません。コップをコップとして維持しなければならないのです。そのために、コップ自体を強くしたり、大きくしたり、清潔にしたり、水を増やしたり…等、国内の問題を解決することに合わせて、テーブルから落ちて割れないようにしたり、他の食器とぶつからないようにしたり…等々、国際の問題に対処しなければなりません。
 いずれにしてもそこには、強固な国家観(コップを意識する観念)がなければなりません。

 では、その強固な国家観とはどのようなものか。つまり、国家をどう捉えるべきか。
 私は、縦軸の思想で捉えられた国家観でなければならないと考えており、今回の小沢発言は、それに値しないと考えるのです。
 国家をコップに例えましたが、このコップは今の我々だけで作ったものではありません。従って今の我々だけのものでは決してありません。先人の努力の恩恵を受けている訳ですから、まずは先人に感謝しなければならなりません。そして、次には、これを大切に使い、子孫たちに引き継いでいかねばならないものなのです。
 このような、縦軸で貫かれた意識をもって国を観るということが極めて重要である、ということなのです。
 
 このような観点からすると、小沢代表は先人に対する思いが薄いと言わざるを得ず、上記に述べたような国家観に問題ありと感ずるのです。私は、この点が国家を考えるときのもっとも基本的な点と思います。
 次に、A級戦犯などという、戦勝国が捏造した概念を後生大事にあがめたてまつるという「誤った歴史認識」をもっており、それがまた同時に「負け犬根性である」ことに気がついておられないのではないでしょうか。外見は豪腕風ですが、既に負けているのです。国会議員として不適です。(どこぞの経産相の二階某などはその典型です。)
 最後にもう一つ加えると、この考え方が中国・韓国を利することになり我が国の国益を大いに損ねるということから目をそらしているのではないかと思いますね、この方は。いわば、日本というコップにひびを入れてそれを押し広げようとしているのです。

 さて、一般的に捉えられているA級戦犯とは、東条英機のことだと思われますが、その評価は分かれています。東條元首相には、いまも蔓延しています官僚的な側面も強かったようですが、国を想う気持ちも当然大変に強かった。あの極東国際軍事裁判での態度、陳述は見事なものでした。それを、こういう方々は、なぜ我が先人として素直な(好意の)眼で見られないのでしょうか。

 私は、「靖国」は、特に国会議員に対して非常に良い踏み絵になっていると思います。
 彼は今回、その踏み絵を踏んで見せたわけですが、その結果、私の評価は「下の下」になりました。ああ、この程度の男であったのだなぁ、と。

 我が国は今、乱れていると総括してもよい状態になっていますが、最近、このように靖国問題がいつもマスコミの話題に登るというのは良い兆候ではないかと思っています。というのは、日本人がこの問題は非常に重要な問題であるという意識をもっているからだと思うからです。
 今後も、国内でどんどん議論をし、中国が見苦しく叫びまくって貰えば良いと思います。

 
 それしても、民主党は、やっぱり本当にだめだなぁ。


☆ひとりごと

18.3.27

小野田寛郎講演会

  小野田寛郎陸軍少尉は、昭和17年12月兵として入隊。18年9月幹部候補生。昭和19年9月陸軍中野学校に入校され、同年12月にはルバング島に派遣されています。
 小野田さんは、このあと30年間、昭和49年に帰国するまでひとり戦争を続ける訳です。約2年の軍務経験しかなく、あの使命感、精神力の強さは、どうも生来のもののようです。

 小野田さんの話によると、任務として与えられたのは「後方撹乱」だったそうです。日本は中国大陸で戦闘を続け、米国の厭戦を誘う。これに呼応するようにして小野田少尉はフィリッピン方面(ルバング)で活動し後方の撹乱に当たれ、というものです。そのために「とにかく生きよ」ということであったそうです。
 小野田さんに与えられた武器は、小銃と銃弾1200×2、および手榴弾。当初は部下が2人居たのですが、途中亡くなってしまい、最後はひとりになります。

 小野田さんがルバング島上陸直後第1に考えたことは、補給のない長期作戦ですから、この間に食料を安定的確保できるようにすることでした。放牧中の牛を射殺して乾燥肉を作り、島内に分散して隠しておくということを繰り返したそうです。食料に限らず物を分散したのは、拠点を作らないということだそうでして、それは攻撃されにくくするためです。従って、常に移動する生活を続けたわけです。
 小野田さんは食料の確保に合わせて、健康を維持すること重視しました。一つは食べたことのないものは食べない。もう一つは生水を絶対に飲まない、ということだったそうです。毎朝お湯を沸かし、一日の暑い生活に備えてそれをたっぷりと飲み、残りを水筒に入れこれを携行したのでそうです。
 また、毎朝の排便の後は、便の様子を良く観察し健康状態の把握に役立てました。(そして、その排便の跡、火を使った跡などは必ず埋め戻すなどしてその痕跡を消したそうです。)
 これらのことを30年間続けました。30年間です。

 小野田さんが、講演の最後の方で述べられていました。
「元気でいることで積極的な考えが出来るのです。これは大変大事なことです。」と。

 次の大きな問題は被服でした。5,6年経つと服も腐ってくるのだそうです。そこで被服を、(林業?)作業員から取ることにしました。銃撃で脅して、逃げたところで着替えを奪ったそうです。そしてその奪った被服を活動し易くするために改造します。裁縫用の針は持っていたそうですが、錆びて腐ってしまって使い物にならず、新しく作ることにしました。まず、たがねを作ることから始めました。また、焼きの入れ方も難しくて何本か失敗した後、その加減を把握することが出来、やっとの思いで1本出来ました。そして、この習熟した技術をもって、一気に9本の針を作成しました。

 このときの(部下と自分の)感想。
 「自分はいっぱしの人間と思っていたが、この小さな針の1本を手に入れることが出来なかった。人間は自分ひとりでは生きられないのだということを改めて知った。」

 フィリッピン軍の記録によると、軍(討伐隊)の出動(交戦)回数は133回。これを30年で割ると年4回にあたります。3ヶ月に1回の割りで銃撃戦をやっていたのです。

 そこで、任務を全うするのに銃弾の数量が極めて重要になってきます。大事に使わなければなりません。では、年間どのくらいの使用量にすべきか。小野田さんは、食料の確保の際の肉塊の運搬などの負荷から考えて、この任務は60歳が限度と考えました。従って、銃弾数を60歳までの年数で割って、1年の使用量を50発と定めました。ただし、弾薬の長期保存は湿気などでだめになりますから、時に炸薬を乾燥させるなどの作業を行ないました。好天の日の数日をかけて、約2000発の弾丸からひとつひとつ炸薬を抜き出し、これを天日に乾燥させるという気の遠くなるような作業です。しかも、作業中を軍に襲われると大変なことになりますので神経も普通以上に使います。
 いやはや、たいへんなことです。

 小野田さんの任務は後方撹乱です。この任務の達成のために、自分たちが存在しているということを示す必要がありますので、そのために銃撃戦をしたということのようです。この際、定期的に同じような場所で行動することのないように、不規則さを維持するようにした。このため、暦を頭の中でつけたそうです。頭の中に記憶させたのは、記録を残さないようにするスパイの常識です。そして、これを30年間続けて、誤差は6日だったそうです。

 また自分達の安全をより高める為に、自分達が活動するエリアに入って来る者に危険を感じさせるようにしたそうです。この結果、民間の住民などはこのエリアに入ってくる際には大声を出しながら入って来て、不時の遭遇を避けるようになったそうです。一方、討伐に来る軍隊などは、静かに入ってくるのでこれは要注意ということになります。

 以上のように、小野田さんは、自分に与えられた使命を元にして、具体的になにをどうすべきかを合理的に導き出しているのですね。その思考力と実行力がすごいと思いますね。たいしたものです。


 質問(なぜブラジルへ)に答えて
 小野田さんは、日本に帰国した翌年には、ブラジルに渡ります。その原因は、日本側とのボタンの掛け違いにあったようです。日本側は、小野田を助けたと考えているのですが、当人は、命令に従い任務を果たし、そして命令に従って出てきた、と考えた。このようなことですから、日本側はいちいち恩着せがましい態度であった。田中総理が100万円持ってきたときもそうでした。記者が、価値がわかりますかなどとバカにした言い方をし、何に使うかなどと問う。それで、靖国神社に寄付するといったら、なんと、軍国主義者と非難された。ほかの帰国者で、このような処遇を受けたものはいない。特別に自分だけだというのもおかしい。理由のないお金は受け取れない。・・・・あれこれ頭にくることが多かった。それで、日本を飛び出したのだそうです。

 
 戦前の骨太の日本人が、タイムスリップして日本に降り立ったという感じを受けました。

 

☆ひとりごと

18.3.15

九州国立博物館

 大宰府に昨年10月に開館した博物館です。
 かなり期待して行ったのですが、かなり期待はずれでした。

 この博物館の基本理念は「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」ということなのだそうですが、これ自体もあいまいですし、館内の構成・展示にもそれを感じさせませんでした。

 上述の基本理念は、いわば「日本文化は大陸の影響を受けて出来上がった」ということを言っているようですが、それ自体がそもそも間違っているのではないかと思います。
 したがって、見学者にインパクトが与えられないのではないでしょうか。

 展示品の一品一品は素晴らしいものかもしれませんが、「雑多の集積」という風に感じました。個々の展示に関する説明文が極端に少なく、一部日本語になっていない説明文もあったりで、まさに「雑多の集積」になっているのです。

 私が、へーッと思ったのは次の2点でした。
 一つは、弥生時代の木製の小机。
 弥生時代といえば、やっと住居もまともになってきて、まだまだ縄文時代のような生活をしているというイメージを持っているのですが、そこに展示されていたのは、ちゃんとした文机(ふみつくえ)のような姿、形をしていました。何に使っていたのでしょうか。

 二つ目は、縄文土器(火炎土器)。
 かなりの点数が展示されていました。ただし、説明文が少なく、どの程度の復元品なのか分かりませんでした(少なくとも完全な本物ではない、と思われました。)が、芸術の香りがする良い作品です。
 (数少ない)説明文によれば、いびつな作品の出土が少ないそうで、その理由はいびつなものは直ちに壊して土の再利用をしたからである、とされていました。でも、ひょっとしたら縄文の人々にも強い美意識があって、不完全なものは許せなかったのかもしれません。「どうせ使うなら、美しいものを使いたい。作り直すための時間も十分にあるしなぁ。」といったことではないかと、私は思ったのですが。どんなもんでしょう。


 国による事業だから、お役所仕事になってしまうのか、真剣味が足らないようにおもわれます。監視員は一杯居ましたが、(当然かもしれないが)ちょっとした質問にも適切に答えて貰えませんでした。

 
 「雑多の集積」
 酷評かもしれませんが、一言で言えば、こういう博物館です。(入館料420円に見合っているかも知れません)

☆ひとりごと

18.3.13

長崎歴史文化博物館

 長崎という地域的特性を活かした大変良くできた博物館でした。

 左のイラストの手前半分は、長崎奉行所の復元でして、奥半分が博物館になっています。
 奉行所の復元に当たっては、当時オランダ人によって撮影された写真(高地から撮ったステレオ写真)、残された間取り図などを元にして正確を期したそうです。
 その正確性を可能にしたのは、中央下部に見える階段が発掘されたからだそうでして、この階段の長さを基準にして写真に写された建物の寸法を正確に割り出したのだそうです。


 ←長崎奉行所正門の階段です。

 階段の下半分が濃いねずみ色になっていますが、ここが発掘された部分。
 200年前にさまざまな人たちが上り下りした訳です。

 下の写真は、階段を上りきって臨む正面玄関。なかなか立派です。

 


 博物館の展示は、CGによる適切な説明と組み合わせられて分かりやすい内容でした。
 長崎という非常に特殊な地域のことが良く分かり、それを踏まえて当時の世界の様子が分かるようになっています。(自国のことが分かれば世界が分かるという好例であると思いました。)

 長崎奉行所は、いわば霞ヶ関の出先機関のようなもので、外務、通産、防衛、総務などについて強大な機能をもっていました。奉行は、1年交代で江戸から派遣されており、幕府目付け役などから充てられたようです。
 主たる機能は、貿易管理、キリシタン対策、裁判などであったようです。(裁判記録など、キッチリした文書が残っています。この記録を通して、当時の人たちの生き生きとした生活(それも、悪い部分)が分かります。要は、今も昔も人間性は同じ、ということです。)

 非常に面白いと思ったのは、奉行所の下部組織として長崎会所という貿易担当部署が設けられていて、対外貿易を独占的に管轄していたという点です。最高責任者は長崎奉行でしてその下に各種役職の役人が配置され、組織の末端には長崎市民(町民)が連なっていました。
 つまり、イメージ的には長崎会所を中心として長崎の町全体(当時人口6万)が一つの会社のようになっていたのです。
 町民は、必要の場合使役にかり出されますが、その代償として年に2回各戸に対して、その家の格などに応じて現金が渡されています。今のお金で数万円のレベルであったようです。
 一応、代償として支払われているようですが、いわば貿易で得られた利益の分け前のようなニュアンスがあったような気がします。長崎では、おくんちという派手派手のお祭りがありますが、これらのお金を元手にして行なわれたそうです。すなわち町全体が潤っていたということのようですね。(坂本竜馬は長崎で海援隊という会社を設立しますが、長崎のそういう雰囲気の中に居たので、そういう発想がでやすかったのではないか、と思った次第です。)

 いずれにせよ、大変良くできた博物館です。
 復元された奉行所は新築間もないのですが、あと5年10年すればいい雰囲気になるのではないでしょうか。(ただし、2006年に復元したという点はしっかりアピールしつづけなければなりませんよ。中韓には、その辺をあやふやにしているところがあるようです。)

☆ひとりごと

18.3.12

ALWAYS 3丁目の夕日

 久しぶりに映画を見に行きました。
 「蝉時雨」との2本立てです。映画館は3軒茶屋シネマという今にも潰れそうな建物でしたが、映画は大変良い出来の映画でした。

 昭和33年ごろの東京。
 今に比べれば、本当に貧しい時代でしたが、これから良くなって行くんだという上昇志向に満ち満ちた時代でした。貧しかったからこそ、皆が寄り添って生きていました。だから、そこに人間社会の本来のあるべき姿があったと思います。

 この映画は、50年程前の過去の日本から、現代の日本へのメッセージです。
 最後のシーンで、鈴木オートの一家が夕日に映える東京タワーを見つめながら言います。
 父「きれいだなぁ。変わらないでほしいなぁ。」
 子「10年でも、50年でも、きっといつまでも変わらないよ」
 つまり、
 (50年後の皆さん、どうですか。こんな素敵な日本があったのですよ。今、随分と乱れた日本になっているようですが、この美しい夕日、この美しい東京タワー。是非、もう一度、心の通い合う日本になって欲しいものです。)

 
 映画は、作り事です。
 この映画では、最初の頃のシーンで、鈴木オートの親父が、店の出入り口のガラスの引き戸をマンガチックにぶち壊します。つまり、「この映画は、この程度の作り事ですからね、楽しく見てくださいよ」と言っているのだなと、私は理解しました。
 しかし、その一方で、ストーリー展開はしっかりしているし、セットもキッチリ作ってあるし、上野駅や蒸気機関車のCGその他、大変丁寧に作ってありました。また役者の演技もとても素晴らしかった。特に吉行淳之介少年は抜群だと思いました。
 これを要するに、大変良い出来の映画でありました。
 久々に心洗われました。


 2本目は「蝉時雨」。
 前評判は上々であったと思いましたが、映画は駄作の部類に入るかもしれません。
 ストーリがつぎはぎですし、細部にもありえないようなことがたくさん出てきます。それなのに、それらをまじめに表現しようとしているのです。私は、その辺がすこし鼻につきましたね。(似たような映画でしたが「たそがれ清兵衛」のほうが断然良かった。)
 
 採点すれば、3丁目の夕日は95点、蝉時雨は30点です。
 でも、・・・・映画っていいですねぇ。



 <追記18.9.18;「美しい国へ(安倍晋三)」を読んで>
 安倍さんもこの映画をご覧になったようで、本の中に次のようなコメントがされていました。これを読んで、そういう場面が確かにあったことを思い出したのですが、強い印象として記憶しませんでした。
お金より大切なものがある…。
 これはこの映画の大事なメッセージの一つです。
 安倍さんのコメントを下に書き記します。

 売れない小説家の茶川竜之介が、なけなしのお金でプロポーズの指輪を買おうとするのだが、そのお金で少年に万年筆を買ってしまったため、指輪の箱しか買えなかった。「いつか買うから」といってカラの箱を贈られた女性ヒロミは、箱をあけ、「指輪をつけて」という。そして箱からとりだした見えない指輪を薬指にはめてもらい、静かに涙を流した。
  …
 (…この映画が絶賛されたのは)今の時代に忘れがちな家族の情愛や、人と人の温かいつながりが、世代を超え、時代を超えて見るものに訴えかけてきたからだった。

 

☆ひとりごと

18.3.7

昭和天皇の戦争責任

 唐突な話題ですが、昭和天皇の戦争責任にについてです。
 昨日、海上自衛隊の某基地で講演を行ないました。タイトルは「国家観歴史観」。
 伝えたかったメッセージの一つは「日本の歴史を素直な眼で見よう。日本は誇るべき素晴らしい国だ。もっと自信を持とう。」というものです。今回の講演では、皇位継承問題もあったことから、天皇に関することを講話の端々で意識的に触れたのですが、森○さんという大変熱心な受講者から次のようなメールを頂きました。

<メール引用開始>
 高校生時代社会科の授業中先生に質問をしたことを思い出しました。私はその先生に『昭和天皇に戦争責任はありますか』と、質問しました。すると先生は『歴史を調べればそれは明らかにある』と答えました。
講話を聞いた感想ではその社会科の先生は間違った認識をしているのではと思っているのですが、『昭和天皇に戦争責任はない』と考えてよいのですね?
<引用終り>

 このメールを見て、私の話を真剣に聞いて貰った嬉しさと、やはりこういう状況があるのだという複雑な気持ちを味わいました。

 森○さん、あなたの理解のとおり、天皇には戦争責任はありません。
 その先生の言葉どおり『歴史を調べればそれは明らか』です。
 (以下、京都大学教授中西輝政氏の論文(※下欄)を参照します。)

 天皇の政治的役割については、「昭和天皇独白録(文春文庫、半藤一利編)」(ここも参照して下さい)にある木戸幸一内大臣の東京裁判での証言に、そのことが簡潔・的確に言い表わされています(57p)。すなわち「国務大臣の輔弼(ほひつ;君主の統治を助けること)によって、国家の意思ははじめて完成するので、輔弼とともに御裁可はある。そこで陛下としては、いろいろ(事前には)御注意とか御戒告とか遊ばすが、一度政府で決して参ったものは、これを御拒否にならないというのが、明治以来の天皇の態度である。これが日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところの、いわば慣習法である」と。

 この根拠は、明治憲法第五十五条「『国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス』という規定です。つまり、天皇の大権行使は『輔弼』する国務大臣の『副署』がない場合は無効とされているのです。(天皇がなさることは、大臣がOKを出さなければできない、ということなのです。)

 また、昭和天皇に対して憲法についてのご進講を担当した清水澄(元枢密院議長法學博士)の講義録には次のような記述があります。
 「もし天皇が、国務大臣の輔弼なくして、大権を行使せらるることあらば、帝国憲法の正条(上記五十五条)に照らして、畏れながら違法の御所為と申しあぐるの外なし」

 このように、内閣の決定を天皇が拒否する、あるいは裁可しないということは憲法上あり得なかったのです。
 これを立憲君主制といいます。
 憲法の規定に従って行なわれる君主政治ということですが、実態としては上に述べたように、内閣が企画決定し天皇はそれを国家の意思として明示するという役割を担っていただけ、ということだと思います。
 これは、立憲君主制の国家ならどこも同じであり、イギリス国王も政治には基本的に関与しないけれども、内閣に対しては「質問と助言」(クエッション・アンド・アドバイス)をするという権利が認められています。

 終戦の御聖断は、天皇が行政権を直接行使したのではないか、という質問があるかもしれません。しかし、これはいうなれば「戦争終結か継続かの判断の全てを天皇に委ねます、という内閣の決定」に対する陛下のお答えだったのです。その証拠に実際には御聖断の後、直ちに閣議が開かれ、会議の結果(ポッダム宣言受け入れ)を政治プロセスに乗せているのです。よくある誤解ですが、陛下が絶対君主のようにしてあらゆる物事を決定していた訳ではない、ということです。

 一方、開戦時の状況を見ますと、陛下は最後まで開戦に反対でしたが最終的には内閣の決定に従われました。(陛下が御前会議の席で、開戦反対の意思を明治天皇御製「四方(よも)の海 みなはらから(同胞)と思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ」を二度読み上げられたというのは有名な話です。)
 天皇は権力があるのだから、止めれたはずだという意見がありますが、そうではないというのは上に説明したとおりです。「昭和天皇独白録」には、「私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、もし認めなければ、東条(首相)は辞職し、大きな「(下からの)クーデタ」が起こり、かえってめちゃくちゃな戦争論が支配的になるであろうと思い、戦争を止めることについては、返事をしなかった。(また)12月1日に、閣僚と統帥部の合同御前会議が開かれ、戦争に決定した、その時は反対しても無駄だと思ったから、ひとことも言わなかった。」とおっしゃっています。
 陛下は、当然のことですが立憲君主制から外れることはされなかった訳です。

 もし日本が専制(又は絶対)君主制だったなら、責任は君主にあるといえるのでしょうが、日本は、帝国憲法下でも立憲君主制だったのです。つまり、戦後よく言われるような"天皇絶対"といったものではありませんでした。欧米の歴史家の間では、もし「日本の天皇制が絶対君主制であったならば、対米戦争は逆に起こらなかっただろう」とさえ言われています。

なお、ここ(昭和天皇独白録を読んでの私の感想)に書いていますとおり、大事な局面で天皇陛下の御指導があったと思いますが、それは、いわゆる天皇責任論にはならないと私は考えます。


 以下は、「天皇の責任」についての参考事項です。
 天皇ご自身は終戦時、責任を感じておられました。どちらかといえば道義的な責任と言えるかもしれません。
 日本占領時の連合軍総司令官マッカーサーは、昭和20年9月27日に行われた昭和天皇との最初の会談を次のように語っています。

<引用開始>
 どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもって御出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。
 すなわち「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は、日本の名においてなされた、すべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題でない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」
 これが陛下のお言葉でした。私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがなうことが出来れば進んで絞首台に上ることを申出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした。
 陛下は御自身に対して、いまだかつて恩恵を私に要請した事はありませんでした。とともに決して、その尊厳を傷つけた行為に出たこともありませんでした。(「新編宮中見聞録」、木下道雄、日本教文社)
<引用終り>

 マッカーサーは、天皇が訪問されたとき、玄関に出迎えませんでしたが会談後は抱きかかえるようにして玄関までお送りし、お見送りをしたそうです。


(※参考論文)「『昭和天皇独白録』を再読する/中西輝政」(正論9月臨時増刊号17.8.5発行)

 

☆ひとりごと

18.2.25

黄昏のビギン/ちあきなおみ

偶然ですが、今回は、3回続けて女性にまつわる感動についてです。
 今回は、「ちあきなおみ」です。

 皆さんには、なんとはなしに耳に残っている歌というのがありませんか。
 私は、数ヶ月か数年前・・・、黄昏(たそがれ)のビギンを耳にしまして、ずっと気になっていました。
 歌っているのは「ちあきなおみ」。ある日を境にぷっつりと姿を消したあの歌手です。

 今日偶然再会を果たしました。
 あのNHKが特集を組んでいたのです。
 番組の構成も、あのNHKにしては(失礼)憎い仕上がりになっていました。
 たっぷりと彼女の魅力溢れる歌を聴かせたうえで、エンディングはこの「黄昏のビギン」です。
 そして、そのあとに写し出された場面は、歌が終わったあとのステージ側から観客席を見た映像でして、鳴り止まないアンコールの拍手がこれに重ねられています。あたかも、ちあきなおみがアンコールを受けているような情景になっている訳です。
 つまり、平成4年以来姿を消している「ちあきなおみ」に対する再復帰のカーテンコールなのですね。もう一度出てきて欲しいという、ちあきなおみに対するメッセージなのです。(彼女もこの番組を見ているはずですから。)
 番組の中では、その喝采に答えて、ちあきなおみが再登場し、「喝采」を歌うのです。
 NHKのディレクターもなかなかやるというか、放送を私物化しているというか、(ま、どちらでも良いですが、)そんな感じを抱きました。

 さて、ちあきなおみのことです。
 ちあきなおみというと「喝采」がすぐに思い浮かぶほどですが、あの情感溢れる歌い方は強烈なものでした。
 ただものではないとは思っていましたが、この番組を見て、単に歌を歌うだけの歌手ではないことがよーく解りました。

 彼女の芸歴は4歳に始まります。昭和22?年生まれだそうですから、59?歳。当初アイドルで売り出しましたが、少女時代は進駐軍のキャンプで歌っていたそうです。したがって彼女のジャンルは歌謡曲、ポップスにとどまらず、実は非常に幅広く、ジャズ、シャンソン、ポルトガルのパドなどに至っています。番組の中でも歌われましたが「朝日のあたる家(浅川マキ日本語訳)」は、圧巻でした。
 本当に、単に歌をうまく歌うというのではない、表情やしぐさを含めて深い深い情感が込められているのです。歌だけではなく、まさに体全体での演技なのです。もちろん、歌のテクニックも凄い。加えてふるいつきたくなるようなパフォーマンスがあるのですから、これはもうどうしようもない・・・。

 さらには、彼女は日本の(昭和の)名曲をたくさんカバーしています。
 詩が美しくかつメロディも平易で美しいあの数々の名曲。
 粋な別れ、星影の小経、港の見える丘、帰れないんだよ・・・・
 彼女も「歌っていても暖かい気持ちになる。こうところが好きです。」と言っていますね。
 この感じ方。
 私はそういうところが好きになりましたね。

 日本の歌手の中で、色々な意味で1番は「美空ひばり」だと思っていましたが、私の中では「ちあきなおみ」も同じくらいになりました。
 今59歳(のはず)、もしも再復帰するとすればどんな歌を聞かせてくれるのでしょうか。
 
 私も再復帰を望みます。

☆ひとりごと

18.2.24

荒川選手金メダルおめでとう

 主だった選手の演技をゆっくりと見ましたが、荒川選手の演技は確かに立派でした。
 素人目に見ても、ひとり際立っていましたね。
 演技は、指先にまで力が充溢しているが、それでいて力みはなく、動きも大変スムーズでした。

 ほかの選手は、大なり小なり萎縮がありましたね。
 技量的には、全員ほぼ互角だったのですが、結局は精神力の強さというか、精神をコントロールする能力のある荒川選手に軍配があがったということだったと思いました。
 無心の勝利であったことは、ご本人が「思いも掛けなかった」という主旨のことを言っておられますし、高得点が出たときの、また金メダルが決まったときの荒川選手の表情からもそれが解ります。
 
 不断の体力・技術の練成は言わずもがなですが、不断の精神力の鍛錬、というのも大きな鍵ですね、これは。

 
 村主選手は、フリーではショートプログラムと同様ミスもなかったのですが、あの時のような「凄み」が感じられませんでしたね。ショートとフリーの内容を入れ替えたら良かったのではないかと思いましたが、どうなのでしょうか。

☆ひとりごと

18.2.22

情熱の舞姫「村主章枝」

 トリノオリンピックは日本勢が振るわないなかで、本日(昨夜)女子フイギュアスケートが始まりました。
 例の3人娘、村主、荒川、安藤がいよいよ出場。

 なかでも、村主選手は抜群だと私は思いました。
 審査員による点数では4位ですが、これは予め決められた細かい点数の付け方に基づくもので、どちらかというと技術偏重の採点の仕方であるからのようです。
 高得点の選手を見ると、たしかにそんな感じがしますね。アメリカの選手など、ジャンプを決めた後「どうだ」といわんばかりのしぐさでしたが、なんとなく違和感というか、すこし貧しいよ君、という感じですね。品位というか奥ゆかしさの観点からは??ですね。

 その点、村主は良いですね。日本人だからそう感じるというのではなく、欧米の方々もその美しさ、醸(かも)し出す雰囲気の凄さを感じ取っているのではないかと思いますね。
 村主選手がすごいのは、演技を始める最初のポジションに着くまでの間も、既に雰囲気作りに入っているのです。他の選手には、それがあまりなかったように思います。したがって、彼女がリンクサイドを離れてポジションにつくまでに、観客はもう雰囲気に引き込まれていっているのです。皆さんは、感じましたか?
 フィギュアの採点法には、以前「芸術点」というものがあったと思いますが、これでいけば、絶対「村主」でしたね。

 しかし、1位になったコーエンも確かに素晴らしかった。
 高度の技術を猛訓練によって身に付け、その中でも自己の能力のギリギリの技を、世界の大舞台で堂々と披露するわけですから、これはもうたいしたものです。
 
 フリーは、明後日だそうですが、猛訓練の成果を思い切り発揮して貰いたいものです。
 私は、村主選手を応援します。



本日は、「竹島の日」。
本当は、こちらについて書くべきでしたが、つい、美人に負けました。
竹島については、いずれ別途。

☆ひとりごと

18.2.10

Something Great

 小泉さんは、皇室典範改悪案の今国会提出をやっとあきらめたようです。
 皇室典範改悪問題の本質に国民と国会議員が気づき、徐々に形勢不利になって来たところに、紀子様ご懐妊という決定打によるものです。
 これで日本にとっても、小泉さんにとっても?一安心です。
 結局、その小泉さん、天皇家をつぶそうとした訳ですが、大御心(おおみごころ)のおかげで、その天皇家に助けられたと私には思えます。

 「Something Great」という言葉があります。もともとの意味は良く知りませんが、「万物を律するなにか偉大なもの」というような意味だと思います。
 西行法師が、伊勢神宮で詠んだ歌に;
 なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる
 というのがありますが、これと同じような感覚であろうと思います。

 天皇はまさにこのような存在であられる、と私は思っています。
 「偉大なる『空(くう)』」なのですね。

 私達は、普段、天皇を意識することは全くありません。
 しかし、私達は無意識ながらも、明らかに天皇を私達日本人の心の拠り所としております。
 今回の秋篠宮家の御慶事に接し、テレビでマイクを向けられた人達が、本当に素直に、まるで我が家の事のように喜んでいる様子を見るにつけそのことを強く感じます。
 日本は、そういう国柄なのです。天皇を総本家の長とした、1億3千万人の一大親戚集団なのです。
 天皇陛下は、私達の知らない所で、私達がそれを知っていようがいまいが、只ひたすら国家国民の安寧を祈っておられます。
 国民も小泉さんも、今回のこのドタバタ劇の最終幕でその大御心に助けられたのです。日本の大混乱の芽を未然に摘み取られたのです。

 小泉さんが、このことに気づき、天皇陛下に対してそのような感覚「偉大なる空=Samething Great」を抱いたかどうか聞いて見たい気がします。
(・・・聞くまでもないかナ)

 

  2月8日読売新聞によると、
<引用>名古屋市中区の市立「ランの館」で一昨年、秋篠宮さまが手植えされたラン「プリンセス・キコ」が、紀子さまの第3子ご懐妊の報道があった直後の7日夜から8日朝にかけて開花した。職員らは「こんな偶然があるとは」と驚いている。・・中略・・ 2鉢あるうち、横地修館長が植えた1鉢は、昨春から咲いたのに対し、秋篠宮さまが植えられた鉢は開花が遅れていた。<引用終わり>

 偶然といってしまえばそれまでですが、天皇陛下がお出ましになると必ず天気になるという事例がたくさんあり(外遊中の外国においても類似のことがあり”Emperer's Weather”というそうです)、こちらもあながち偶然ではないのでは、などと思いますね。

 

 9月24日、兵庫県豊岡市の「県立コウノトリの郷公園」で、自然界への復帰を目指し人工飼育した国の特別天然記念物コウノトリ5羽が、世界で初めて放鳥されたそうです。

 放鳥されたのは、秋篠宮ご夫妻(写真)。
 「鶴の恩返し」ならぬ「コウノトリの恩返し」があるのではないでしょうか。
 秋には、元気な男児御出産ということになると思います。
 そしてこの後に、安倍新総理によって皇室典範の本当の改正に手が付けられるでしょう。

 そうなれば、めでたしめでたしですね。
 

 

(↓の項目に続く)