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19.4.25

江戸のダイナミズム/西尾幹二/文芸春秋

 正直、私の能力では理解するのに大変荷の重い本でした。江戸時代の思想史についての学術書といえる内容です。脚注、参考文献が整備されているのみならず、事項、書名及び人名(の、なんと3区分)についての索引が巻末を飾っております。西尾幹二氏の意気込みの凄さ、エネルギーの凄さが本全体から溢れ出しくるような感じです。西尾氏は、読者をこうしてぐいぐいと引っ張って行こうとするのですが、私はそれについて行けなかったということなのです。
 
 そのような状態でしたが、この本で感じましたのは、まさに標題どおり「江戸のダイナミズム」ということでした。私達はいわゆる暗黒史観で江戸時代を見てしまいますが、実際は日常生活の面でも、この本に述べられた思想活動の場でも非常に自由闊達な世界であったようです。徳川の体制に影響が及ばなければ、多様であることが容認され、その範囲内で多様に生きていくという、いうなれば成熟した大人の世界があったようです。それは現在の日本の状況と同じであるといっても良いほどに思えます。私たちは、自由主義、民主主義は西洋からの輸入であると思っていますが、実は日本古来から存在していたものではないかという思いです。

 このことを、著者は「日本人は『自分』がないのではない」という項で、次のように述べでいます。
「日本には原理がないからこそ、中国の原理に占領されてしまったり、西洋の原理に占領されてしまって、中国史べったりの古代史を書いたり、あるいはルネサンス依頼の西洋のイデオロギーをそっくりそのまま借りてきて日本史を展開したりした。」
「日本人は自分というものを持っていないからかような体たらくにおちいっているのでしょうか。今まで私はずっとそう思い込んできました。ところが、ハナシは実はひょっとして逆かもしれない、と、ふと在るとき私の心にひらめくものがありました。日本人はある意味で密かに自分に自信を持っている。自分を偏愛してさえいる。ただそれをあらわに自己表現しないだけだ。シナであれ、西洋からであれ、そとから入って来たものは外からのものであるとずっと意識していて、忘れることがない。日本人は外と内とを区別し続けている。逆に言えば「内なる自分」というものを終始意識しつづけているともいえるでしょう。」
「日本人は、一面では自分を主張しないですむ、なにか鷹揚とした世界宇宙の中に生きているが故に、簡単に外から借りてきた西洋史や中国史でやり過ごしてきたのではないか。」
「外国から借りて自分を組み立ててもなお自信を失わないで済む背景というものが昔から日本人にはあったのではないか。」

 この辺のことを国学者本居宣長は、自著「古事記傳」の序で次のようなことを言っているそうです。
「儒教で『聖人の道』といって、それが少しもシナの現実を反映していないのに、日本の儒学者たちは経書のいう通りに、聖人たちが作為して制定しておいた「道」がかの国で実現しているように言い立てる。シナの政治史の実際が、易姓革命のくりかえされる治乱興亡の巷で、儒教の仁がいつも看板倒れであったことは、思想というものの運命であるとはいえ、よく知られた事実ではないか。」

 以下、本居宣長の文章の西尾訳です。
「このように、道というものを作って正そうとするのは、もともと道が正しくないという理由であるのであるが、それなのにこれをかえって偉大なことのように思ったり言ったりするのは、ばかげている。」
「すべて何事でも、おおらかにして事足りるというのは、おおらかなままが一番良いということなのだ。ゆえにわが皇国の古代には、ああいった小うるさい教えなんかなにもなかったけれども、社会の下の下までが乱れるというようなこともなく、天下は平穏に治まって、一系の天子はいと長(とこ)しえに伝わり、皇位をお継ぎになってこられた。であれば、かの異国の名にならって言うなら、これこそが他でもない、最上の優れたる大道というものであって、じつをいえば、道があるからこそ道という言葉が無く、道という言葉はないけれども、道はあったのだ。道をことごとしく大仰に言い立てるのと、言い立てないとの違いを考えよ。
 あえて言挙げしない、というそのことは、かの異国のごとくに口やかましく言い立てないということを意味するのである。例えば才能でも何でも優れた人はことさらに言い立てたりしないが、生半可な連中に限って、かえっていささかの事をもことごとしく大仰に言い立て、自慢する。ご同様に漢国(中国)などは、道が貧しいがゆえに、かえって道徳めいたことばかりをしきりに論じ合うのである。儒者はこの辺の事情をよく知らないで、日本には道がない、などといっては軽んじる。」

 そして、著者のコメントが続きます。
「この逆説は、日本とシナの間だけではなく、日本と欧米諸国との間にも大略成り立つように私には思えます。平等も、自由も、民主主義も、そしておそらく人権尊重も、それらを言挙げしたとされる欧米諸国よりも、恐らくはるかに高いレベルで、柔和な国情と人情において、日本のほうが精妙かつ無意識に、具体化しているとさえいってよいでありましょう。勿論欧米とは同じ概念において日本で成立しているのではありません。相当に意味合いや内容が異なっています。けれども、日本的自由や平等を楽しんでいるわれわれからみると、欧米社会は自由でもなければ、平等でもない。談合社会日本から見ると、欧米の民主主義は理屈ばかりで、不便で、特定の階級や人種にだけ有利であります。
日本国籍のものに対しては広くやさしいこの国の制度に照らしてみると、欧米で守られている人権のレベルは、日本の最低基準に近い。」

 このほか、「近代的なるもの」を価値判断の基準にして歴史を捉えることに対する批判を述べておられまして、これも大変興味深いのですが、長くなるので割愛します。

いずれにしましても渾身の力が込められた一冊。もう一度じっくりと読みたい気持ちです。

 

19.4.10

中国はいかにチベットを侵略したか/マイケル・ダナム/山際素男訳/講談社

 著者のマイケル・ダナム氏は米国人で、作家・写真家です。この本は、約7年の歳月を費やし、中共の侵略に対して闘ったチベット人たちへのインタビューに基づいて書かれた本でして、まさに労作であるといえます。

 この本を読むと、国家が他の国家を飲み込むときの様子が良く分かります。
 まるで大蛇が羊をまるのまま飲み込んでいく様子を見ているような感覚を覚えてしまいました。大蛇の場合と異なるのは、単に力だけを行使していくのではなく、そこに謀略をからませるのです。
 その基本パターンは、相手国政府の内部に反政府分子を育て、それを橋頭堡にして、軍事力を効果的に使用しながら自分達の影響力を浸透、拡大して行く。そして、ついには元の政府を転覆し、反政府勢力を正規の政府に仕立て上げるのです。当初は、この新しい政府を表に立てるのですが、終には名実ともに自国の勢力下に置いてしまいます。これら一連のプロセスの中で彼らにとって重要なことは、大義名分を常に自分達の手の中に保持しておくということです。そのためにありとあらゆる謀略が行なわれるのですね。過去アメリカは、この手を使って、テキサスをメキシコから、ハワイをハワイ王朝から、フィリッピンをスペインから手に入れています。
 中国(毛沢東共産党政権)は、アメリカに比べるともっと巧妙で、ある意味あからさまで、更には乱暴極まりないものでした。これに対してもともと勇敢なチベット人は、中共の侵略に敢然として立ち上がりますが、結局は物量に優る中共軍に蹂躙されてしまいます。(注;上の記述と反することですが、実はこのチベットを唯一支援したのはアメリカ(CIA)でした。戦闘基幹員の教育訓練、武器食料医薬品などの補給などを行なっています。アメリカの懐の深さ、多様性をみることができます。)こうして、チベットの東側領域は完全に中国領となり、中央部領域は自治区という名前の保護領的存在となってしまいます。まさに飲み込まれてしまっているのです。
 
 この状況を一発で理解できるのが次のチャートです。
 上が中共侵攻前のチベット、下が中共侵攻後のチベットです。東チベットが「青海省」「四川省」になっています。
 そして、中央チベットは「チベット自治区」に。


 このようにしてチベットが無惨にも飲み込まれた根本的な原因は次のようなことであったと思われます。
1外界との関連(国際政治)を持つ必要のない環境にあって、この面でうぶなチベット人を、その全く逆の権謀術策に長け、欲望丸出しを恥とも思わない支那人が襲うという最悪の図式であった。
2チベットが、当時閉ざされた世界であって、そこで起こった出来事が情報として外界にほとんど出なかった。

 中国(毛沢東)は、侵攻の最初の段階では実に穏健な態度で接近していきます。実力者には積極的に贈り物をし歓心を買うなどの努力を怠りません。道路建設も現地のチベット人の雇用と交通の安全のためという仮面をかぶって行われます。ところが道路が完成してみると、それはチベット侵攻用の軍用道路なのです。
 まさに深謀遠慮の国柄です。
 そしてある限界点を超えると、穏健さをかなぐり捨てて本来の凶暴性をむき出しにし、目的を達しようとします。

 今評判の「軍事評論家=佐藤守のブログ日記(2007-4-17)」に次の記事があります。
 この記事の主旨は、「南京大虐殺といわれるような事件はなかった。南京大虐殺を描いたアイリスチャンの作品(レイプオブ南京)は捏造であり、日本兵が行ったという残虐行為の表現から解る。そこに書かれているのまさに、チベットで中国が行った行為とまったく同じであり、アイリスチャンは、中国の、そういういわば習慣的行為をそのまま日本兵の行為として書いたのである。

<佐藤氏ブログから引用>
 アイリスチャンの本は読んではいないが、藤岡東大教授の「正論」によると、次のような表現があるという。
 「日本軍は、機関銃、ピストル、ライフルを使って、中山北路や中央通りや近くの路地にたむろしていた負傷兵、老女、子供からなる群集に発砲した。日本軍はまた、狭い路地、中心の大通り、泥作りの防空壕、政府の建物、町の広場、などなど市のいたるところで中国人の市民を殺しまくった。犠牲者が地面に倒れ、うめき、叫ぶにつれて、陥落した首都の街路や路地や排水溝は血の河となって流れた」
 「多くの日本兵は、強姦だけにとどまらず、女性の腹を裂いて腸を抜き出し、乳房を薄切りに切り落とし、生きたままクギで壁に打ち付けた。父親は自分の娘を、息子は自分の母親を、家族が見ている目の前で強姦することを強要された。生き埋め、性器切断、内臓摘出、火あぶりが日常的になっただけではない。舌に鉄のカギをかけて吊るしたり、腰まで生き埋めにされた犠牲者達が生きながら軍用犬に引き裂かれるのを見物するといった悪魔的な行為が行われた。その吐き気を催す光景には南京在住のナチ党員達すら慄然とし、大虐殺は『機械仕掛けのけだもの』の所業であると断言したほどだった」
<引用終>

 上の内容は、われわれの感覚から大きくかけ離れたものです。このようなことを、思いつきもしないし、また当時そんなことまでする必要性などそもそもありません。
 ところが、シナ人はこれを平気でするのです。

<本書から引用(117p)>
 「毛沢東はラジオで1000万人の中国人をチベットに移住させると約束していた。中国と国境を接するゴロクがその最初の犠牲にされた。毛はまず数千人の中国農民をゴロク族の牧草地帯に入植させた。しかし、ゴロク族はラサ市民と違ってデモなんかやらなかった。部族民も僧侶も一斉に武器を取り、移住して来た中国農民に情け容赦なく襲いかかったのだ。中共軍も直ちに反撃を開始した。
(中略)
 中共軍は大挙してゴロク族の居住地を襲撃、家畜の群れを略奪し、人家を焼き払い、数千人の老若男女を殺戮しまくった。生き残ったものは山に逃げ込み、以後はひたすら中国人を殺すためにのみ生き続けることを誓ったのだ。しかしこのゴロク族の惨劇も、他地域のチベット人は長い間知ることなく、諸外国に至っては何年もの間全く気づくことはなかった。通信手段の貧しさ故である。
 南カムの奥地でも事態は深刻だった。中共の土地改革に従わなかったチャテンク族は直ちに中共軍の攻撃を受け、チャテンクのサムペリン僧院に逃げ込んだ。僧院は包囲され、中共軍の飛行機がビラを投下して投降を促したが、人々が拒否するや、爆撃が開始された。中共軍にとっては、地上戦よりずっと味方の犠牲が少なくて済む方法である。あっという間に僧院は跡形もなく破壊され、少なくとも2千人以上が殺された」
「カム、アムド、ゴロク、どこの村でも中共の虐殺を経験しており、抵抗の狼煙を最初に上げたのは自分達の村だったというだろう。誰も間違ってはいなかった。ほんの数週間のうちに東チベットの抵抗勢力は吹き荒れる嵐となって広がったのだ。
 中共側も負けてはいない。妻、娘、尼僧達は繰り返し強姦されまくった。特に尊敬されている僧達は狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。ある僧院は馬小屋にされ、僧達はそこで連行されてきた売春婦との性交を強いられた。あくまでも拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、『仏陀に腕を返してもらえ』と嘲笑された。大勢のチベット人たちは、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。アムドでは高僧達が散々殴打されて穴に放り込まれ、村人達はその上に小便をかけるように命じられた。さらに高僧達は『霊力で穴から飛び上がって見せろ』と中共兵に嘲られ、挙句に全員射殺された。怯える子供達の目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収用されていった・・・」
<引用終>

 これが、我が隣国に位置する中国の正体なのです。
 先般温家宝が来日し、微笑外交を行い、ご本人は大満足で帰っていきました。国会演説では、この安っぽい微笑に尻尾を巻いて喉を鳴らす議員が大勢いて、胸糞が悪くなるくらい見苦しいものでしうた。特に、議場に先導する「江の傭兵(河野洋平)」のうれしそうな顔は見られたものではありませんでした。
 中国の正体を知らないのです。阿呆である。

 この本は、われわれの知らなかったチベットの状況、中国の恐ろしさを知ることができ、非常に有益でありました。ところが、最後の訳者「あとがき」でずっこけてしまいました。
 「日本もかって満蒙開拓団とかなんとかいって大量の日本人を中国に移し、当時の最新技術を駆使した満州鉄道、いわゆる満鉄を敷設し、中国の資源を日本に運んだが、欧米に石油補給路を立たれるやついに世界戦争に突入していった‥」
 「(中共は)六千以上あった寺院をことごとく破壊し、焼き払い、文化的遺産−仏像、美術工芸物、書物を抹殺し、仏教僧を血祭りにあげていった。そしうてチベット人を二等市民の地位に貶(おとし)め、言葉を奪い、自分たちの言語を主人の言葉として強制する。これはどの帝国主義植民地支配者も皆やってきたことではある。日本の朝鮮支配でも同じことをやった。」
 中国の全く独善的な国益追求の姿を日本と同等であるとする、(おそらく無意識の)すり替えをやってやっているのです。あわせて歴史的事実の関係の把握がいい加減ですね。翻訳家というよりも、大変失礼ながら単なる翻訳機械になっていらっしゃるように思えます。

 最後のずっこけ部分を除けば大変有益な本でした。
 星5つです。

 

19.3.13

散るぞ悲しき/梯久美子/新潮社

 昭和20年2月19日0900を期して、米軍は硫黄島に対し空爆、艦砲射撃を伴う海兵隊による上陸作戦を開始しました。翌月3月26日には我軍の最後の総攻撃が行なわれ、これをもって組織的な戦闘が終わりを告げるのですが、この本はこの36日間の硫黄島攻防戦を主軸にして、硫黄島防衛部隊の総指揮官である第109師団栗林忠道中将を描いた作品です。
 この本は、映画「硫黄島からの手紙」を見たあと是非読みたいと思っていたのですが、今回たまたま攻防戦と同じ時期に読むことになりまして、読了したのが本日3月13日でした。62年前の今日、3月13日頃には2万1千人いた我軍将兵のほとんどは戦死し、残るところは約900人(うち海軍200)になっていました。
 明日14日の出来事としては、米軍は硫黄島作戦がほぼ終了したと考え、公式の国旗掲揚式が行なわれ、占領宣言が読み上げられます(擂鉢山に掲揚されたいた星条旗を移設)。
 一方の栗林中将以下約900名は、北部の拠点に在って、当初の作戦目的を堅持し、あくまで戦闘の継続(引き伸ばし)を図っていました。そして、更にその2日後の16日、栗林中将は米軍による攻撃の緩みを見て、また自軍の疲弊の状況を判断して、最後の総攻撃の決心をします。有名な決別電報が中将の手によって書き起こされました。
 決別電報は下欄のとおりです。
 栗林中将は、補給も無く孤立無援、まさに徒手空拳で闘わざるを得なかった無念の思いを滲ませながら戦闘の状況と別れの言葉を述べ、最後に3首の歌を添えています。

 3首のうちの1首目は、次のとおりですが、31文字の中に、中将の万感の思いが込められているように思います。

「国の為 重きつとめを 果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」

国の為 重きつとめを‥
 日米戦で防勢に立たされはじめた日本は、19年7月1日、日本爆撃の戦略拠点になり得る硫黄島に第109師団を基幹として小笠原兵団を新編します。中将は、同日その指揮官に補せられます。その与えられた使命は硫黄島の防衛なのですが、中将はその使命を次のように考えました(使命の分析)。 すなわち、「日米戦は日本敗戦の方向で終息しつつある。なし得ることは、抗戦を続けることによって米軍の本土進攻を遅らせ、その間に少しでも有利に戦争終結工作が進むようにすることである。」というものでありました。
 このための、作戦方針としては、サイパン、グアムなどで失敗の戦訓として得られた水際作戦を行なわず、内陸側で持久戦を行うこととし、米軍の強大な砲爆撃にも耐え得る地下坑道を基盤として防護を旨としたものとしたのです。従って、従来の万歳突撃などによる玉砕戦闘は厳禁しました。
 中将の凄さは、その思考の柔軟さとそれを具体的に実行する点にありました。思考が柔軟であることは、軍人の本来的な資質であるべきでして、本当は当然なのですが、当時の日本軍特に陸軍ではかならずしもそうではありませんでした。
 玉砕は、潔さを旨とする日本軍人、日本国民にとって(苦境に立たされた場合は特に)非常に魅力的なものであったはずですが、中将は与えられた使命から考えて、それは絶対に許しませんでした。そしてそのことを兵員に対して噛んで含むようにして示したのが、「敢闘の誓い」「戦闘心得」(後掲)でした。非常に具体的、実戦的で、分かり易い内容になっており、精神論は一切排除されています。中将自らに与えられた使命を分析し、作戦を考え、兵員の戦闘の在り方までを極めて合理的に導き出しているのです。そして、これに従って、日々、劣悪な環境の中を8ヶ月間、訓練を積み、同時に陣地の構築作業を行ない、敵の来襲に備えたわけです。
 本当に困難な状況の下を、重い使命を果たさんがためにまさに血のにじむような努力が払われておりました。

‥果たし得で 矢弾尽き果て‥
 こうして36日間の戦闘が繰り広げられるのですが、結果は、決別の電報にもあるように、目もくらむほどの圧倒的な物量に負けるべくして負けてしまいます。詰まるところは国力の差ということで、中将の認識としては「結局戦術も対策も施す余地なかりしことなり」というものでした。我軍は補給0、敵の補給は∞ということです。若干の航空機、戦車は開戦時にあったようですが、その消耗は時間の問題でした。弾薬のみならず糧食、特に水がありませんでした。川や湧き水に類するものは一切無く、頼みは雨水だけでした。
 そのようななか、ついには大本営は硫黄島を切り捨ててしまいます。まさに孤立無援、物心両面からみ離され、鉄の嵐の下でなぶり殺しのような地獄絵となっていくのですが、将兵は日本のことを想い、自暴自棄となるることなく中将の教えを守ってしぶとく闘いを継続します。このことを私達はしっかりと知るべきです。

‥散るぞ悲しき
 大本営からこの歌が新聞発表される際、「悲しき」は「口惜し」に修正されました。軍人にふさわしくない表現であるというのがその理由でした。中将がこの歌を作るとき「口惜し」という言葉も候補として頭に浮かんだかもしれません。しかし、中将は「悲しき」としました。私はそこに中将の人間味溢れる姿を見ます。軍人として、まさに徒手空拳で戦わねばならなかった悲しさ、結局は日本国民を救えなかった悲しさ、最愛の肉親と永久に別れる悲しさ、大きな国力差の在る中であえて戦わねばならなかった日本の悲しさ‥‥。硫黄島の戦いの全てがこの歌に凝縮されているように思えます。


 さて、平成6年、天皇皇后両陛下が硫黄島に行幸啓されました。
 その際の御製が次です。

「精魂を 込め戦ひし 人未(いま)だ 地下に眠りて 島は悲しき」

 陛下は硫黄島ご訪問に先立って栗林中将のことをお調べになっているはずです。
 決別電報に付された歌についても、勿論ご承知のはずです。
 そしてこの御製。
 最後の言葉は「悲しき」です。
 中将を思う非常に強いお気持ちがこの最後の言葉になったものと思います。
 まさに君臣一体。中将の想いをしっかりと受け止められ、国民(日本民族)を代表しての鎮魂の御製であると思います。
 
 ちなみに、皇后陛下の御歌は次です。
「慰霊地は 今安らかに 水をたたふ 如何ばかり君ら 水を欲(ほ)りけむ」



その他感じたことを少し。
■統率力の凄さ。
3月26日の組織的な最後の突撃が終わっても、残存していた将兵は中将が示した敢闘の誓いを固く守ってゲリラ戦を展開しています。なんと、最後の兵2名が投降してきたのは昭和24年1月6日でありました。終戦から3年半!玉砕から4年!中将の統率力は中将の死後も力を持ち続けていました。
 実際の戦闘に入ると同時に栗林中将が始めたのは部下将兵の功績調査とそれに基づく感状の授与、昇任の申請であったといいます。部下の働きに少しでも報いようとしたのです。上申した功績のうち上聞に達すること(天皇に伝えられること)もあったということで、将兵の士気への影響は大変大きかった。

■意思力の強さ
 決別電報が16日に発信されたのですが、実際の最後の突撃は26日であった。この間、玉砕の声もあったがここに至っても中将は当初の考えを曲げずに死に急ぐことを許しませんでした。そして、最後の総攻撃では、通常、総指揮官は陣の後方で切腹するのが当時の常識でありましたが、中将はそれを破り自ら戦闘に加わわりました。全将兵に呼び掛けた電報の中で中将が述べた「余は常に諸子の先頭に在り」との宣言を守り通したのです。


参)決別電報
胆参電第四二七号 三月十六日一七二五
硫黄島発父島経由 参謀総長宛
戦局最後の関頭に直面せり。敵来攻以来麾下(きか)将兵の敢闘は真に鬼神を哭(なか)しむるものなり。特に想像を越えたる物量的優勢を以ってする陸海空よりの攻撃に対し、宛然(えんぜん)徒手空拳を以って克(よ)く健闘を続けたるは小職自ら聊(いささ)か悦びとするところなり。然れども飽くなき敵の猛攻に相次いで斃(たお)れたためご期待に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは小職の誠に恐懼に堪へざる所にして幾重にもお詫び申し上ぐ所なり。 今や弾丸尽き、水枯れ、全員反撃し、最期の敢闘を行はんとするに熟熟(つらつら)皇恩を思ひ粉骨砕身亦(また)悔いず。特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安からざるに至り従ひ魂魄(こんぱく)となるも誓って皇土の捲土重来の魁(さきがけ)たらんことを期す。ここに最期の関頭に立ちて重ねて衷情を披瀝するとともに只管(ひたすら)皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永へにお別れ申し上ぐ。尚、父島母島等については同地麾下将兵如何なる敵の攻撃をも破砕し得るを確信するも何卒宜しくお願い申し上ぐ。終わりに左記駄作ご笑覧に供す。何卒玉斧(ぎょくふ)
を乞う。
 
       左記

国の為 重きつとめを 果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき

仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生まれて 矛を執らんぞ

醜草(しこくさ)の 島に蔓延(はびこ)る その時に 皇国の行手 一途に思ふ

                                  栗林中将 」


敢闘の誓い
一、我等は全力を奮って本島を守り抜かん。
一、我等は爆薬を擁きて敵の戦車にぶつかりこれを粉砕せん。
一、我等は挺身敵中に斬込み敵を鏖殺(皆殺しすること)せん。
一、我等は一発必中の射撃に依って敵を撃ち斃さん。
一、我等は各自敵十人をたおさざれば死すとも死せず。
一、我等は最後の一人となるも「ゲリラ」によって敵を悩まさん。

戦闘心得
一、猛射で米鬼を滅ぼすぞ。腕を磨けよ一発必中近づけて。
二、演習の様に無暗に突込むな。打ちのめした隙に乗ぜよ他の敵弾に気をつけて。
三、一人死すとも陣地に穴があく。身守る工事と地物を生かせ。偽装遮蔽にぬかりなく。
四、爆薬で敵の戦車を打ち壊せ。敵数人を戦車とともに。これぞ殊勲の最なるぞ。
五、轟々と戦車が来ても驚くな。連射や戦車で打ちまくれ。
六、陣内に敵が入っても驚くな。陣地死守して打ち殺せ。
七、広くまばらに疎開して指揮掌握は難しい。進んで幹部に握られよ。
八、長斃れても一人で陣地を守り抜け。任務第一勲を立てよ。
九、喰わず飲まずで敵撃滅ぞ。頑張れ武夫休めず眠れぬとも。
十、一人の強さが勝の因。苦戦に砕けて死を急ぐなよ胆の兵。
十一、一人でも多く斃せば遂に勝つ。名誉の戦死は十人斃して死するのだ。
十二、負傷して頑張り戦え虜となるな。最後は敵と刺し違え。


日本 戦死:陸軍12850名(島民軍属12名を含む)
        海軍7050名(島民軍属70名を含む)
        小計19900名

    戦傷(生還者):陸軍736名
              海軍297名
              小計1033名(島民軍属76名を含む)

    合計:20993名         防衛庁戦史叢書」より。

米国 戦死:海兵隊5931名
        陸 軍9名
        海 軍881名
        小 計6821名

    戦傷:海兵隊19920名
        陸  軍1917名
       海  軍28名
       小  計21865名

    合計:28686名

 

19.3.1

大地の咆哮/杉本信行/php

 中国に関する本が最近多くなっているようでして、さまざまな人がそれぞれの観点でその姿を描いています。その数が多いのは、中国が無視することのできない大きな存在であるということと、まるで鵺(ぬえ)のような捉えどころが難しい存在であるからなのだろうと思います。
 
 このような中で、杉本元上海総領事の描かれた中国の姿はまさに正鵠を得ているのではないでしょうか。いわゆるチャイナスクールのスタンスでは無く、外務省の役人らしからぬ非常に公平でかつ熱意溢れるご勤務の姿勢には頭が下がります。実は私は、自衛官現役時代に杉本上海総領事を表敬しております。表敬のご挨拶だけでしたが、ソファを勧めて頂いて少しお話を交わしました。大変に紳士的なお人柄であったと記憶しています。
 しかし、残念なことに、杉本元総領事はこの本を出版したあと平成18年8月3日、末期の肺がんでお亡くなりになしました。中国で罹患されたとも言われています。

 この本を読みながら感じたのは、我々日本人はまるで倒壊寸前のゴミ屋敷の隣に住んでいる、というものです。
 横柄で、独りよがりで自尊心ばかり高く、近所の人達(特に人の良い向かいの住人)に難癖をつけるし、大声で文句を言う。その上、ゴミや異臭を吐き散らす。それでいて、高級車を乗り回し、どうも武器コレクションをやっているらしい‥。

 私は、韓国に対してもそうですが、このような方々とは最小限の挨拶程度のお付き合いにしておけば良いと思うのですが、杉本総領事のようなしかるべき配置にある熱血の方はそうも行かないということなのでしょう。高い視点からの見た中国が描かれています。大変良い本です。

 この本から学んだことなどを以下に列記します。
■崩壊する単位社会主義
 「単位」という概念が、80年代の改革・開放まで、確固として存在しておりました。
 「単位」とは、中国人が必ず所属する工場、学校、大学などのことで、それが一つの社会ないしはコミュニティを構成していました。この「単位」には、食料を作る農場があり、施設のメンテナンスの職人や工作所などがあり、病院があり、託児所があり、墓場までありました。そこに所属することで、その人の生活(人生)が完結する「場」が用意されていた訳です。「鉄の茶碗」という言葉がありましたが、これこそ「単位」の別表現だったのですね。それが、改革開放で崩れ、いわば各個になんとかしろという状況になっているわけです。もちろん、苦難の道に放り出されたのは農民、庶民です。現在中国各地で発生している暴動など(年間8万件;1日200件です!)の原点はこの辺にあるということのようです。ある日突然に「鉄の茶碗」が無くなったからです。

■ODAの金利
 日本の円借款は経済協力機構(OECD)の定めるいくつかの条件に従ってODAとして国際的に公認されて、行なわれます。その条件に贈与要素(GRANT ELEMENT)が25%以上であることというのがあります。これは、金利、返済期間、据え置き期間の緩やかさをあらわす指標なのですが、中国に対するODAについては、これが他国に比べても非常に高く、65%になっているというのです。実例で言えば、ODA総額3兆円のうち65%にあたる約2兆円は無償で供与されていることになるそうです。ここまでするのは、中国を一定レベルの国に引き上げて、北朝鮮のような国にしないようにするためであると説明されています。あまり納得できる理由ではありませんが、一応これは大きな成功を収めました。したがって、ODAは中止して良い段階に至ったと見るべきです。

■搾取される農民
 中国は急激に豊かになったが、その恩恵を受けているのは都市部に積む4億人の住民に過ぎません。経済発展に無縁の9億人近くの農民の生活は革命以来遅々として進んでいません。北京から僅か二百数十キロしか離れていない大同市というところの農民の1年間の現金収入は2千円程度でしかないそうです。
 実際の差別意識も大きく、都市住民は農民を「外地人」、つまり外の田舎から来た人と呼ぶのだそうです。この原因は中国特有の戸籍制度にあります。農民は「農村戸口」、都市に住む者あるいは農村に住んでも行政に携わる役人は「城鎮戸口」と呼ばれる戸籍をそれぞれ持つことになっています。この差には天と地ほどの開きがあります。都市住民であれば受けられる行政サービス(年金、医療保険、失業保険、最低生活保障など)を農民は全く受けられません。つまり農民は、都市住民が受けている全ての社会保障の対象外になっているのです。その理由は、農民には生産手段として、国から一定の土地使用権が認められているからだというのです。そしてこの戸籍は容易に変えることはできません。その上に、このように都市住民に比べて所得が著しく低く、しかも行政サービスを全く受けられない農民の方が、税金、公共料金、教育費などの負担率が断然高くなるわけです。そして、最近では、その農民の命といってもよい彼らの土地が奪われてきております。役人などが様々な手段で実質、奪っているのです。こうなれば、農民は難民化するしかありません。
 この状況は国内の「植民地」といって良いのはないでしょうか。反体制のマグマはどんどん溜まっているといってよいと思います。

■義和団コンプレックスと反日教育
 中国は19c後半から外国からの軍事的威嚇を受け、半植民地化させられた歴史をもっています。特に義和団事件に端を発する列強からの干渉は百年後の今日に至るまで、中国人の深層心理の中に、中国は外国から常に疎まれ、苛められ、辱めを受けたという、いわゆる「義和団コンプレックス」を植えつけられたのです。
 とくに日本に対しては、歴史的に見て中国のほうがはるかに強大で発展していたといういう意識があるがゆえに、20世紀初頭以来の日本の中国に対する関与の仕方に対して、現在に至るまで対反発が残っています。現実には、当時のそういった感情をもっている人は居ないのですが、学校教育や共産党の宣伝によって維持強化されているのです。この反日教育というのはすなわち愛国教育であり、さらに言えば「その愛する国を統治している共産党を愛しなさい」という愛党教育にほかなりません。つまり、人口13億のうちのわずか5〜6%しかいない共産党員が「この国を統治していること」の「正当性」「正統性」を常に中国人に認識させなければならないからです。

■上海の高層ビル
 上海には20階建て以上の高層ビルが約4千棟建っている。一方、東京は百棟程度。これをたった5年程度の期間に建ててしまったのですが、問題はその後の維持です。メンテナンスが不十分で、エレベーター数が少なく、さらに供給過多であったことにこれらが拍車をかけ、空室率が高くなっているようです。更には、地盤沈下も出ている模様で、只の箱になるばかりでなく、発展を逆に阻害することになるかもしれません。
 表面上はりっぱな高層ビル群であるが中身(実態)はその逆の傾向であり、約4千棟の高層ビルは潜在的な不動産バブルを破裂させる時限爆弾となりかねません。

 

19.2.25

中国は日本を併合する/平松茂雄/講談社インターナショナル

 著者の平松教授は一貫して中国の脅威を訴え続けておられる中国研究の第1人者です。
 この本では、その中国の脅威を実にわかりやすく解説しておられます。日本人特に公的地位にある国会議員などの必読書であると思います。

 中国の今のエネルギーの源は何なのでしょうか。
 それは、己が常に世界の中心に在って世界から崇(あが)められる存在であるべきという、数千年を掛けて刷り込まれた中華思想がまず挙げられます。そして、それなのに清の時代に近代化に乗り遅れてしまい、先進国(特にこしゃくなる日本国)の後塵を拝することになってしまったというコンプレックスがそれを強化しているのだと思います。それが今や、軍事大国化、経済大国化し総合的な国力としても米国に迫る勢いとなり、今そのための最後の拍車をかけ始めていると言ってよいのではないでしょうか。中国は近年の成功体験をもとにして、あと少しという思いで走り続けているのです。
 
 中国は、人民が決してまとまる事のない「砂」のような国であると孫文が言ったそうですが、どうしてどうして、国家としては中国共産党政権という極めて強力な合成接着剤で固められた国であるといえます。このことによって、確固とした国家目標を立て、それを堅持し、着々として(人民の不幸を脇に置いても)軍事力、経済力を増進させている訳です。この意味で、砂のような国家とは、むしろ今の日本を指しているといって良いと思いますね。

 中国は、新疆の支配、チベット侵略‥と、陸上での版図を広げると、次は海洋での活動を活発化します。南沙諸島の支配、東シナ海ガス田の取り込み、尖閣諸島へのアプローチ‥、そしてその後には日本支配という筋書きになるわけなのです。この動きは陸・海にとどまらず、宇宙での勢力拡充も著しく、有人宇宙飛行、地対空ミサイルによる人工衛星の破壊など驚くべきものがあります。こうして、中国は着々とその勢力範囲を拡大していっているのです。

 実は、中国には「国境(border line)」という概念はないそうです。
 あるのは「戦略的辺疆(border area)」。
 これは、言葉を変えれば実効的影響力を及ぼし得る範囲ということであって、その時々の中国の力に応じて、(あたかも風船が膨らんだり縮んだりするようにして、)融通無碍に変化し得る、という考え方だそうです。そして、その具体的な範囲は、支那が過去に支配した地域であり清朝の最盛期の版図である、のだそうです。
 つまり「失地回復主義」。
 ここには、中国のコンプレックスも潜んでいます。すなわち、中国の言い分によれば、1940年のアヘン戦争によって帝国主義列強が中国を侵略してその後の国境が決まったのであるから、その後の中国新政府は改めて政治交渉を行い、国境条約を締結し直し新たな国境線を画定すればよいのだ、ということなのです。アヘン戦争で蹂躙された我が身のふがいなさを反省するのではなく、自分の外に責任を転嫁している訳です。我々日本人は、日本が列強に屈しなかったことにもっと誇りと自覚をもってよいのです。日本人はその自覚が足らないのですが、中国はその辺を強く認識しており、日本が列強を跳ね返したことがまた、たまらなく悔しいのではないかと思います。
 
 いずれにしても、このようにして、中国はうちに溜め込んだ経済力・軍事力というエネルギーをもってどんどん膨らもうとしている。それこそが、今我々がしっかりと見つめるべき状況なのです。
 最近の中国のこのような動きを感じ取って、日本人もだんだん危険な状況が分かって来てはいますがまだまだ十分ではありません。それは、わが選良である河野洋平らの姿を見ると良く解ります。
 毎日新聞(2月20日)によると、
<以下引用>
 北京五輪:「支援する議員の会」発起人会
 超党派の国会議員による「北京オリンピックを支援する議員の会」(仮称)の発起人会が20日、国会内であり、会長に河野洋平衆院議長、幹事長に野田毅元自治相を選出した。3月26日に300人規模の設立総会を開く。 発起人会には自民党の古賀誠元幹事長、二階俊博国対委員長、福田康夫元官房長官、公明党の北側一雄幹事長、民主党の鳩山由紀夫幹事長らが出席し、河野議長が「アジアで開かれるオリンピックを支援することは、必ず意味がある」とあいさつした。今後、具体的な活動内容を検討する。同会の関係者は「北京五輪を支援することで、中国が16年の東京五輪開催を支持してくれれば」と期待を語った。
<引用終わり>
 どうしようもない面々が中国の顔色をうかがっているという図なのです。ホントに、ばかじゃないでしょうか。
 この本を読めといっても読まないだろうし、読んでもそうとは理解できないでしょう。頻繁に賭ける対象になさっている政治生命とやらが早く尽きるのを待つしかないですね。

 後段は愚痴になりましたが、この本は大変良い本です。100点満点。

その他、2箇所ほど抜書き(要旨)を。
■チベットは東南アジア、南アジア、さらに西アジアへの戦略的要地である。
 1956飛行場完成、1965地上施設の設置がなされて北京〜成都〜ラサの航空路開設、1970代戦闘機、爆撃機部隊の展開。
 1977−1982青海省ゴルムドからチベットのラサまで青蔵公路沿いに石油パイプライン敷設、石油補給能力の飛躍的向上。
 1996-1998ラサ〜青海省西寧〜甘粛省蘭州間に光ファイバーケーブルが中国軍によって敷設。ちなみにこのファイバーケーブルは我が国のODA援助により軍事目的のために中国軍の手によって行なわれている。
 2001−06ゴルムド〜ラサ間に鉄道建設。青蔵鉄道。
 こうして、交通、エネルギー、通信が一体となった大動脈となっているのである。
 青蔵鉄道は常識を逸するような高地に建設されているが、その意図は大陸間弾道弾を搭載する列車を運用するためである(隠蔽用トンネルの活用など)と、著者は述べる。

■中国が日本の排他的経済水域で調査活動を行なう場合、それが科学調査であるとして事前通報を行なえば即座に許可される。この許可が与えられる場合、その調査が「平和的で、かつ人類の利益に寄与するものか」、「科学調査」が判断されるが、更に重要なこととして、「日米安保条約などに基づき、米国に提供されている施設、区域に該当する場合には、必要により調査の変更に応じることを条件とする」という項目もあるのである。しかし、自衛隊の活動に抵触する海洋調査活動については触れられていない! 
 (これは知りませんでした。)

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