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17.8.11

暑気払い

 本日稽古。
 6時から暑気払い(飲み会)ということで、それまでに、稽古をする人は稽古。私も今日は1キロを打った。出来は、私にしてはまぁまぁ。
 そして6時ジャストから中宴会。
 生ビール(樽10リットル)を2樽。なんとサーバーは会長の阿○さんの私物!
 そして、つまみは、蕎麦のから揚げ、鶏肉のから揚げ、マグロのづけ?、冷奴、などなど。そして、メイン調理人はこれまた会長の阿○さん。手際よくかつ気遣いのある盛り付け。これに何人かの方による家庭料理の持ち込み。テーブルの上は料理で一杯になる。
 例によって、そばの話やらたわいもない話やらで8時過ぎまで大盛り上がり。
 大変楽しいひと時でした。

 さて、蕎麦の話。
■水回しについて
 蕎麦の出来不出来はこの段階で決まるという。
 そのポイントの一つは、星(水回し中にできる、乾燥した粒)が出来ないようにするということではなかろうか。星が出来るとつながりが悪くなるし、歯ざわりも粉っぽいものになるのではないだろうか。だから、まわしすぎて粉が乾燥しないようにする。つまり、要は、まんべんなく攪拌するのだが、乾燥する一歩手前で次の工程(2回目の加水)に行く、ということか。
■切り
 今日は慎重に切った。また、普通のサイズと細めを作ったが、やっぱり細い麺は美味くない。なお、普通のサイズのほうについては、娘が「買ったのかと思った」と言ってくれたのには内心ニンマリ。(ひょっとしたら、分かってるのにそういってくれた??ウゥーン悩ましい)
■その他
 蕎麦は粋だ。だから、水回しのときも背筋を伸ばして作業をするのだ、と自分で決めて、そうしていたら、「貴方、それおかしい」と言われてしまった。極端に猫背でかがみこんだらかっこ悪いが、「作業のやりやすい姿勢というのがありますよ」ということでした。粋だと思っていたのがかっこ悪かったんだー。
 

 

17.7.31

水が多い!?

 先週、今週と日曜日に600gを打つ。
 (今週の場合特に、)加水量が多かった。
 最初に8〜9割を入れるのだが、第2回の加水が結果的に多かったようだ。
 
 このためか、切りの段階で、
 ・包丁の刃先に蕎麦生地が線状にくっついてしまう。このため切れ味低下。
 ・切った後、再び麺同士がくっつく。このため、麺をさばいてもほぐれない。(これを「いかだ」という?)

 したがって、
 加水は、状況を見ながら少しずつ増やす。
 また、少し固いかな、というぐらいが良いようだ。不足ではないかと思っても練っているうちに意外としっとりしてくるからだ。
 
 加水量は、粉の重量の50%を基準という風に習ったが、47〜8%くらいを基準にした方が良いような気がする。
 

 その他、自宅でやると長くつながらないし、きれいな(つるっとした)肌合いにならないなぁ。
 これはなぜなのだろうか。
 次回の課題。
 
 

 

17.7.20

本日学んだこと

 本日稽古日。
 二八で1キロを打ちました。出来は、まぁまぁではないか、と甘めの自己評価。

 以下、本日習得・見聞した技術などなど。
1水回し
 ゆっくり大きく回す。外周から中へ押し込んでいくような手の動き。
 一回目の加水は8〜9割を。粉が、5ミリ角程度の大きさで、ほっこりした状態になったらただちに2回目の加水(調整用の水を残す程度にする)。このほっこりした状態というのは、酒の醸造の過程で原料の米が麹菌で寝かされた時のイメージ(といっても、かえって分からない?)。この2回の加水をするまでの間の時間は数分。思っているより早い。時間をかけてまわしすぎても、ある限度以上は水は粉に回らず、ただ乾燥するだけになる。このあと、粉の塊の状況を見ながら(この状態は言葉で説明不能)最後の調整加水(水を手につけて振る)。引き続き、今度は力を入れながら回し続けると徐々に固まりが出来てくる。
 水回しは、手だけでなく、腰を若干左右に揺らすような運動を加えて、体全体を使うようにすれば、手の回転が割りときれいな円運動になるような気がする。

2菊練り
 ある高段者の作業を見ていると、すぼめるところまで菊練りの動作を連続させる必要はなく。菊の花を作ることと、すぼめる動作は切り離してやっておられる。両者の作業は、軸を90度倒して行なわれる。これでよいのかな。

3角出し
 生地を巻き棒に巻いて延す時、中央部のみを圧し、強い角度が出るようにする。

 

17.7.9

おろし蕎麦

 本日、さいたま蕎麦打ち倶楽部例会。

 本日の項目は「冷かけ蕎麦」と「おろし蕎麦」でした。(下にレシピ)
 蕎麦の出来が良いからかもしれませんが、おろし蕎麦が大変おいしかった。
 ビールをグーッとやりながら、手繰(たぐ)るそばはたまりませんでしたねぇ。しばらくこれやってみよーっと。
 時々、お店のそばつゆにおろし大根がついているときがありますが、大根はあのような少量ではなくがーッと入れて、だしの中にひたひたになる感じの量にします。これがひとつのポイントのようです。

 レシピ「おろし蕎麦」4人前
 ・材料 : 麺600g、つゆ(から汁)0.4g、大根1/4本、かいわれ少々。
 ・作り方 : 大根おろしをから汁と同量作り、あわせる。茹で上げた蕎麦をお椀に入れ、汁をかけ、かいわれを乗せる。
 レシピと言うほどではありませんが、念のため記録。

 レシピ「冷かけ蕎麦」
 (・・・あまり好みでなかったので、省略・・) 


 (以下、個人的メモ)
 その他、水回しについて本日学んだこと。
 ・指をしっかり立てて一様に撹拌する。鉢へ力を加える必要はない。(高橋名人のビデオでもそのような、ふわーっとした感じでしたね)
 ・手の全体の動きは、中心部に向かって上から押し込む感じ/練りこむような感じ
 ・2回目の加水は、細かいふわふわの粒が出来た後。あまり混ぜても乾燥するだけ。
 ・粒が大きくなってくるに伴い、指にまとわりついてくる感じになる。その分抵抗が大きくなるがそれに負けずにまわし続ける。

 その他、練り。
 ・練っていき、菊の花びらの端に当たる部分に筋がなく、裏側にしっとり感(水分が出てくる?)が出て来ればOK。
 ・牛頭練りのプロセスは不要(これも、高橋名人のビデオどおり)

 その他、延しについて学んだこと。
 ・巻いての作業は巻き棒、のす作業はのし棒。当たりまえですが。
 ・節目の寸法を良くチェックする
 ・丸出し:のし棒は肩幅で麺帯を60度カットでまわしながらのして行く。麺帯を固定してのし棒をあっちこっちと操作しない。厚さが均一にならない。
 ・角だし:巻いてのす際、圧するのは中央部のみでなく3割程度は左右部分を圧する
 ・肉分け:肉が厚くなった部分を手の動きが小さな三角形を作るようにして押し出しながら薄くしていく。これを、手前側と奥側で行なう。90度カットで、同じ動作。
 ・本延し:切り幅にあたる辺は、どちらでも良い。半分を巻いて、打ち粉で中心にマーキングする。半分づつ延していく。
 ・切り:立ち位置、体勢を良くチェック。切った後の包丁は、まな板の右側の下に刃を外向けにして置く。怪我防止。
 

 

17.6.11

まずますの出来?

 本日、例会。月に一回、倶楽部にて稽古その他が行なわれます。

 いつもは、蕎麦粉500つなぎ100の600gで打っているのですが、本日から800+200の合計1キロに挑戦することにしました。多いほうが打ちやすいという声も聞いていましたし、出来れば近所にも配ってみようか等と思ったからです。
 結果は、まずまずの出来でした。
 途中経過は、いろいろとご指導が入ったので、だめかと思いましたが、食べてみますとこれまでのに感じられた粉っぽさもなく甘みが感じられ、まずまずでした。
 ただし、切りはまだまだです。今日は、慎重に切ったのですがやはり「不ぞろいの蕎麦たち」でした。梅○さんの切りの作業を見ましたが、正確無比。はやく、ああなりたいものです。

 さて、その勝利?の要因。
 解りません。
 量が多いことが、これまでと異なりますので、それが一因かもしれません。
 量の多寡で関係するのは、作業中の水の蒸発量?
 ・・・
 解りません。
 でも、解ったことは、自分にも出来る、ということです。
 これ、大きいです。

 

17.5.18

少し分かった水回し。でも延しが・・

 本日、稽古日。
 ○田さんに、水回しを見て貰いました。
 言われることは、これまでと同じで「指を大きく開いて、指を立て、上から押さえるように大きく回す」でしたが、「上から押さえるように」の意味が今日やっと分かりました。
 前回までは、指の腹で粉を押さえつけるような感じ、と理解していたのですが、そうではないようです。つまり、指の腹の部分の意識は無く、粉全体を抑え込むようなイメージで、あくまで粉全体を動かしていくことを目的にして手を動かすということです。指は、ひたすら良く開いて、粉全体が効率よく攪拌される形になれば良いというわけです。
 ただし、水回しの後段には、指先を意識するようです(これは、以前にも阿○さんから指導を受けました。)
 これまで、○田さんからは、毎回同じ表現「上から押さえるように・・」という言い方で教わっていたのですが、その実体について開眼したように思います。
 こうして、徐々に蕎麦打ちが分かってきました。
 これは、なぜでしょうか。
 そもそも、こういった技術を言葉で伝えることが難しいということもありますが、私の理解の仕方が変わってきたからではないでしょうか。同じ事を聞いても、小学生、中学生、大学生では理解の仕方が異なることと同じなわけです。
 ただし、そうなるには、ある程度の時間が必要のように思われます。
 もちろん、ぼーっと過ごしている時間ではだめで、あれこれ考えてるという時間が必要です。
 偉大な物理学者が大発見をするときのように・・・というとオーバーですが、それに似たところがあるようですね。

 水回しは、単純な作業ですが、要領がなかなか分かりませんでした。
 小さなことですが、数学の問題が解けたような感じでうれしいものです。

 肝心の蕎麦の出来具合ですが、「捏ね」までは良かったのですが、やはり「延し」が薄くなる。すると、「切り」で細い麺になってしまい、のど越しが悪くなって美味しくないですね。

 細からず太からず。次の課題です。

 

17.5.7

性能試験「麺棒その2」

 麺棒性能試験の目的は、麺棒の皮膜として「豆乳」と「くるみ」ではどちらが適しているか、です。
 結論としては、現時点ではくるみ油が適しているように思われます。ただ、豆乳は磨くと大変美しい。これが時間がたって硬化し防水効果がでるようなら、豆乳の方に軍配が上がるかもしれません。
 しばらく、比較を続けることにします。




左の写真は、本日の作品。
今日はあつい蕎麦にするというので、少し太めにしました。
結果的には太すぎでした。
微妙。

 

17.5.5

麺棒の皮膜

 生の木では、蕎麦を延すときに水分を吸ってそれが粉をまといますから、生地の上をスムーズに転がせなくなります。
 そのために、何らかの防水処置が必要になります。
 最初の一本目(3.20作成)の場合は、豆乳を塗布しています。何回か塗っては磨き塗っては磨きしていると硬い皮膜ができるということです。
 ただし、まもなく2ヶ月になりますが、効果はまだ出ていません。
 そこで今回は、くるみの油を使うことにしました。

 上の写真は、くるみの実を布切れに挟んで砕いたところ。
 左は、布をたたんで麺棒に塗布しているところ。
 最初の1,2回は油分が染み出ていませんでしたが、1日ほど置くと、しっとりとした油成分が布ににじんできており、棒が美しく仕上がってきます。ただし、あまり塗るとべとべとになるのでそこは程ほどに。
 なお、くるみ油は空気に触れると固化するそうなので、チャックつきのビニール袋に入れて保管しております。

 

17.5.4

道具つくり「麺棒その2」

 左は桧、右はえぞ松です。
桧の香りはご存知と思いますが、えぞ松はカンナをかけていると甘い香りがします。
 木を買うときにはそりがなくて木目の詰まったものを選ぶのですが、えぞ松は良く観察すると少し反っておりました。かんなをかける時とやすりをかける時にその分を削ったのですが、反りは完全に取れませんでした。

 左は、えぞ松のおおむね完成品です。
 反っているかどうかは転がすと分かります。重心軸が偏移しているので、一定の回転をせずに達磨さんを転がすような動きをします。
これは、巻き棒に使おうと思います。 
 右は、桧に墨付けをしたところです。
 出来上がりが正八角形になるように採寸します。

 一応両方完成。
 本当にびっくりするくらいきれいにできるので、自宅用と稽古場用とにあと何本か作ろうと思っています。

 

17.5.3

おおむね可

 連休4日目。本日も自宅にて蕎麦打ちを自習。連続3日目。
 自分ではあまり気が付かなかったのですが、家族が言うには、蕎麦を打っていると、とても良い蕎麦の香りがするそうです。蕎麦は八戸市南郷区の区営工場で作られたもの。つなぎ粉(小麦粉)もついでにここで買い求めてきました。

 本日の作業状況。
■水回しが、なんとなく分かりました。
 先生の教えは「上から押さえるように」というものですが、この数回意識しているのは、指先の腹で粉を押さえつけながら回す、ということです。比較的力が要ります。こうするといわゆる星ができません。このやり方では、指先という比較的狭い面積で、粉を捏ね鉢の面にこすり付けるような格好になるわけですが、それが効果があるのでしょうか。
■加水量もおおむね良かったようで、しっとりした玉に仕上がりました。
 予定量よりもやや少なめでした。粉が新しいので水分が多く含まれているからでしょうか。
■延しはやはりやや薄めになってしまいます。これは、蕎麦はできるだけ細くという私の脅迫観念によるものです。次回はこの辺を意識してやろうと思います。(「延しの面積を決めることで厚さが決まるという方法」がよいかなぁ。)
 また、切り幅が毎回短かくなるので、生地の形状についても意識して作業する必要あり、です。
■切りは、うまくいきません。どうも包丁にも原因があるように思われます。
 最近気が付きましたが、私の使っているのは「両刃」、専用のものは「片刃」です。
 専用のそば切り包丁が欲しくなりました。 

 

17.4.30

玉にまとまらない

 連休2日目。本日は自宅にて蕎麦打ちを自習。
 粉は、先日八戸出張の際に買ってきたものです。産地はあのjazzの館(やかた)で有名な?南郷村(正確には八戸市南郷区。4月1日で八戸市に合併して、村でなくなったそうです。)。粉を嗅いで見ると良い香りがします。
 そういうことで、今日は少し張り切って打ち始めた訳です。

 水回しの途中までは、良好。星も発生せず、ふんわり感のある粒になりました。
 しかし、うまく玉にまとまりません。
 本来は、概ね水を使い切る頃に自然と大きめの玉にまとまっていくのですが、なかなかそうなりません。手に触れる感触は少し水分が多いのではないかと思わせる状況ですので、あまり水を足したくはない・・・。でも、水は少し余っている・・・。玉にならない・・・。
 どうしよう、加水すべきか、一気に纏めるべきか。
 ハムレットの胸中になりました。
 判断としては、手に感じる生地の状況を根拠にして、無理にまとめることにしました。
 つまり、水が余ったのは計量がずさんであったから、自然と玉にならなかったのは技量不足、ということにした訳です。

 結果は、きれいにまとまりません。
 本来は、捏ねていくうちにすべすべの肌をした玉になるのですが、そうならない。
 いくら捏ねてもぎざぎざの裂け目が玉の表面にできます。
 しょうがないから、手と鉢を適当に使って丸い玉を、無理にこしらえました。

 「のし」は、無残。端っこがぼそぼそ・・。あとは推して知るべし状態。
 途中、投げ出そうかと思いましたが、妻が湯を沸かしながら脇で見ておるので、ぐっとこらえてなんとか形をつけることに。そこへ、妻の慰めの言葉。心にぐさりと突き刺さる。
 ・・・散々でした。

 さて、一人だけの事後研究会。
 原因は加水量の不足、だと思われます。
 手の感触では、水分が多いと判断したのですが、結果的にはそれは誤りでした。
 やはり、セオリーを守りながら、自信を持って作業を進められるように、計量は正確にしておくことが肝要です。

 出来上がった蕎麦は、家族はおいしいといいながら食べてくれました。
 やさしい家族!(落涙)

 

17.4.17

ふぞろいの蕎麦たち

 本日、自宅で練習しました。
 前回の反省を意識して、切れないように切りましたから、その点は問題ありませんでした。
 ただし、ご覧のとおり、切り幅がふぞろいです。(包丁が専用の物でないことにも一因あるのではないか、と思っています。)
 
 そのほか、反省点多々多々あり。
 蕎麦打ち倶楽部で、名人達が打つ蕎麦の味、形、色合い等々・・舌と目だけは一応肥えておりますから、難点がよく見えます。
 ただ、目標値が非常に高くなっていますから、そこにたどり着くことを考えるとため息がでますね。

 

17.4.9

切れないように切る

 なぞなぞではありません。
 「切り」のポイントの一つです。
 切る際には、延した生地を3つにたたんで切るのですが、たたむと、当たり前ですが必ず折り曲げた部分ができます。「切る」際にはその折曲がった部分が手前に来るようにして、まな板に載せます。この折曲がった部分はどうしてもちぎれやすくなります。
 したがって包丁を使う場合、この部分に意識を働かせて、包丁の刃を滑らして行くようにして切るのが肝心ということなのです。間違っても真上から押し切るような包丁さばきはだめです。
 表題は、「生地をたたむ際に折り曲げた部分が、ちぎれないように、麺帯を切りなさい」ということでした。


 本日、作品はまったくだめでした。
 やはり水回しが問題のようです。
 先生がたは、水回しの感覚が指先でお分かりになるようです。
 また、ただかき回すのではなく、上から押さえるようなやり方でなければならない。
 うーん、わからん。今週末は自習だ。
 

17.4.3

水の量

 本日、日曜日。
 先週に引き続き、我が家で打ちました。
 一応、家族は美味しいと言ってくれましたが、私的には失敗。

 状況としては、水回しの際に水が多かったために、作業全般を通じて手や鉢や延し台にくっつき易く、切りの際に蕎麦同士が一部切れずにくっついてしまいます。また、包丁に蕎麦がまとわりついて、更に状況悪化。「茹で」も時間がかかりました。
 やはり、適量でなければなりません。
 適量とは、蕎麦粉と中力粉の重量の半量です。予め正確に計量しておいて、大体それを使い切るくらいで丁度良いようです。
 今日もそのつもりで打って行ったのですが、結果的に多くなって柔らかい生地になってしまいました。
 水が多くなってしまった原因は、家で使っている計量カップに誤差があるような気がします。
 途中、加水していく段階でちょっと多いかなぁと思ったのですが、そのときに加水を止めれば良かったようです。見方を変えれば、少し技量が向上した?ということでしょうか。(本当の技量は、それも含めて上手くできるということですが…。)

 「切り」はまあまあだったと思います。
 また、来週がんばろ。

 
17.3.27

性能試験「麺棒その1」

 先週作成した麺棒を使って蕎麦を打ちました。
 軽くて大変使いやすい。全般には良好です。
 ただし、延しているうちに水分を含み表面が少しがさついてきます。すぐにしごけば問題ありません。
 ただ、打ち終わって表面を触ると、つるつるピッカピカにかげりがでており、表面が少しざらついています。表面塗装が落ちたという感じです。豆乳での表面仕上げを続ければ皮膜がしっかりするのでしょうか。
 試験結果は、「塗布膜の安定化策を講じるの条件で合格とする」です。おめでとうございました。

■蕎麦うちの内容
 前回、平ぺったくて、あまり美味しくない蕎麦だったので、今日は少し厚めにしました。しかし、結果的には厚過ぎ。2ミリ弱でしょうか。
 そこで、包丁で薄めに切ったのですが、上手く行かず。おまけにばらつき発生。
 やはり、まずは基本的に目標値をきめてそれを目指すというのが必要ですね。
 ここで、一定の技量を確立して応用へ、でしょう。かってよく言われました「基本の重視」。

 めざせ、1.5o角。 

 
17.3.20

道具作り「麺棒その1」

 麺棒というのは、麺の生地を薄く延ばすための道具です。
 私も一本もっておりますが、樫製の硬くて重いやつです。雑貨屋で買ったとき、店のオバサンが重いから力がかかって良いよー、と言ってました。今思うと、それは間違いですね。
 棒は、形状として、一様に丸くて、軽くスムースに転がりやすいというのが良いようです。もう一つ大事な事は、適当にしなるということです。普通の木で30ミリ径程度のものであれば、適度にしなりますから、樫などの特殊なものでなければ大丈夫です。
 さて、自作のこと。
 世の中には、凄い人がたくさんおられます。インターネット上を探すといくつかそういうサイトがありまして、その中のこれだというサイトを参考にさせて頂いて作りました。
 

 材料です。
 下から「栂(つが)」「えぞ松」「桧(ひのき)」です。
 寸法は、30o角長さ910oです。(桧はちょっと細い)
 値段は、200円、200円、600円くらいだったでしょうか。
 右の写真は今回練習もかねて最初にトライする「栂」です。
 ねばりが無く割れやすい木ですので、期待は小さいのですが、写真に見るように木目が大変詰まっており、柾目に近かくてきれいだったので買い求めました。
 美人に弱い。
 削る時の治具です。
 45°にカットした木が売っておりまして、それを四つに切り、写真のように貼り付けました。
 下の板は、そこらにあったベニアの切れ端です。これを、かんなをかける台(陣掛け?)に釘で取り付けることにしました。
 多分これでいけると思いましたが、今回右の写真のように、アルミのL字の板をその上に乗せることにしました。(あんまり深く考えたわけではなく、なんとなくこうしたがよいかなぁ、と。)

 棒を削る時の削り代を記入しました。
 本当は、木の「そり」などに関係なく直線が引ける墨糸を使ってやるよが良い思われますが、今回ケビキを使って線をかきこむことにしました。
 写真のようにケビキの一部にドリルで穴を開け、ボールペンを差し込んで栓が引けるようにしました。
 寸法は、角材の長い面に、1:√2:1の比で分割します。(計算の理屈は省略)

 割と、いい感じに引けました。
 先ほどの治具を角材に釘で留め、かんなを掛けやすい高さにセットしました。
 まず、断面の四角を八角にします。最初の面を削ったところです。
 力をいれずに軽く少しづつ削っていくこと、またいっぺんに平面を削り取るというのではなく、最初はやや左側次にやや右側そして真ん中を、という風にかんなを使うとうまく行くような気がします。
左の写真は八角が出来たところ。
右の写真は十六画にしたところです。
このときの注意は、削りすぎない事です。
一箇所を削りすぎた場合、次の丸棒に仕上げる段階で、それが顕著に現れます。
 サンドペーパーで削り・磨きを行います。
 写真のように厚紙の筒(30o径のものがハンズに売っていました)に切れ目をいれサンドペーパーを押さえるような格好にして磨いていきます。
 最初は60番程度。次100番程度、400番程度。最後は1000番程度です。
 左の写真は400番で作業中。
 右は1000番。ただし、こちらのサンドペーパーは「3Mのラッピングフィルムシート」というもので、「精密仕上げ用研磨フィルム」と銘打ってありました。
 現在作業途中ですが、つるつるになりますね。
 角をとって、豆乳を塗り、上の1000番のヤスリで磨きました。
 ピッカピカになりました。
 (少なくとも見かけは)市販品と遜色ありません。

一応、完成。
ビックリするくらい大変に美しいものになりました。来週、性能試験を行います。

 
17.3.13

道具作り「駒板(こまいた)」

 私は、モノ作りに大変関心を持っておりまして、ちょっと特異な存在かなぁ、と思っております。
 ある時期から、日曜大工に大変凝りましていろいろなものを作りました。単純に、面白いのですね。その日曜大工の究極が我が家の建設でありました。大工さんの技術を借りて私の手で作ったという感覚を持っております。(大工さんにはご迷惑をかけました。)
 そして、今、陶芸と蕎麦打ちがこれに加わりました。これらは、直接的になにか目に見える、又は手に触れられるという点で、狭義のモノ作りといえるでしょう。更に(と威張っているわけではありませんが)私は、津軽三味線も稽古をしておりますが、これも考えてみると、「私の」音を作る・音楽を作ると言う点で、やや広義のモノ作りといえるでしょう。
 さて、こう考えていきまして、いきなり飛躍しますが「モノを作るというのは人類に共通した関心事ではないか。」と最近思うようになりました。論より証拠、人類は人類発生前の混沌の時代から今日に至るまでの間に、ほとんど無の状態からモノのあふれる現在の状態を作ったのです。モノ作りに関心をもっていなければこうはならないと思いますね。
 ここで「モノ」と書いていますが、ここまで広義に考えるならば「モノゴト」(モノとコト)という捉え方をする必要があるかも知れません。ブツだけではなく仕組みとか制度とかのコトも含めて、ということです。
 そうです。人類はモノゴトを作ることに喜びを覚えるいきものであることから、ここまでの繁栄(一応繁栄とします)を手に入れた、といえるのではないでしょうか。
 (つまり、冒頭触れた「私は特異」なのではなくややその性向が強い、ということなのでした。)
 
 では、本日の話題、グッと狭い狭い意味でのモノ作りの話です。

 駒板を作りました。
 駒板というのは、蕎麦を切る場合の定規のようなもので、これをまな板の上に畳んで置いた蕎麦を一定の幅で切っていく訳です。
 平たい板の部分は桐の板(100円)、包丁のあたる部分はある程度の硬さが必要ですからチーク材(200円位)です。
 包丁のあたる部分の寸法は蕎麦打ち倶楽部でのお話では高さ2p厚み1cmが適当ということでした。このため、工作上の容易性も考慮して、写真のように5mm厚の板2枚をボンドで貼り付けることにしました。
 そして縁をカットし、上の部分をかんな削り。

性能試験は、来週実施予定です。

 
17.3.12

麺の断面(形)について

 (1)太さ
  蕎麦の断面は1.5×1.5oを目標値とします。
  このことはうどん・ソバ・素麺に書きました。

 (2)断面の形
  真四角を目標値としますが、往々にして横長の長方形になります。これを「平打ち」といいいます。極端な場合、きし麺のようになる訳ですが、これは蕎麦としては美味しくありません。
  一方、縦長の長方形というのもあり得ます。我が倶楽部幹事長の所見によるとこれは美味くするテクニックと言えるのではないかとおっしゃる。それぞれについて以下記します。

 ・横長の長方形の場合(いわゆる平打ち)
  ずばり、食感として美味しくありません。
  またもう一つの問題があるようです。それは、茹でた後の水切りの工程において、上手く水切りができず、べちゃっとした出来上がりになります。こうなると、めんつゆが麺にうまく絡まない訳です。従って最終的に美味しくない。平打ちが美味しくないのは、ひょっとするとこちらのほうが原因としては大きいかもしれません。
 では、なぜそうなのか。
 水切りでは、麺を洗ったあとにざるの中の麺を上からぐっと押さえて、水分を絞りだすような動作をします。平打ちでは、このときにうまく水分が出て行かないわけです。
 水切りの際の麺は、ざるの中でお互いにランダムに接しています。このとき断面が真四角の場合と長方形の場合では、水分の含まれる程度が異なるように思われます。前者(断面真四角)の場合、麺同士の接点(面)は小さいですが、後者の場合、麺の平たい部分が面で接するケースが多くなりますのでその部分に水分を含み、また、これを押さえつけても水分は出にくい訳です。
 したがって、平打ちだと、出来上がりが水っぽくなります。

 なお、極端に細い麺の場合も、水切りがうまくできません。これは、細いと水分を含みやすい(保持しやすい)からだと思われます。例えれば、水を含んだ糸の塊と、同じ状況の紐の塊を上から押さえて水を切ることを考えれば解ると思います。
 屁理屈を並べましたが、実際そうなのですから、我ら職人?としては1.5o角を目指すということに尽きるのでしょう。味はあとからついてくる。伝統的実績がそれを保証しています。

 ・縦長の長方形について
  これは、蕎麦打ち倶楽部幹事長のお話の引用です。以下。
 「蕎麦の味は、口の中で噛んだ時に蕎麦から出て来る。
 では、蕎麦のどこからでてくるのかというと、切断面からではないだろうか。切断面でない部分というのは、麺棒で押さえるなどしているので、一種の覆いが形成されているのではないか。そうすると、味成分が出やすいのは新しい切断面になるのではなかろうか。そして、この切断面が広いほど味が良く出やすい。」
 と、いうものです。
 なるほど。私自身は食べ比べたことがありませんが、幹事長の実体験を元にした納得できるお話です。

 このことと直接関係ありませんが、昔はこのような切り方をしていたそうです。
 当時(製粉技術が今ほどでなかった頃)、「つなぎ」が難しく、どうしても現在のように薄く延せなかった。したがって、麺の太さの調整を、より細く切ることで行なったそうです。それで、縦長の長方形になった。
 結果的にそうせざるを得なかったということなのですが、ひょっとして旨みを増すためにそういうテクを使ったのかもしれませんね。
 当倶楽部でのご指導は、真四角が目標ですが、平打ちよりもむしろ縦長がベターといういうものです。

 なにごともそうですが、奥が深いというか、奥は深い(当たり前?)

 

 

17.3.9

なぜ「手打ち」というのか(1)−「手」について

 蕎麦についてのメーリングリストというのがありまして、蕎麦に関する情報交換が盛んに行なわれております。私は、もっぱら「読むのみ(ROM)」で楽しませてもらっております。
 ある日、なぜ「蕎麦を打つ」というのか、というメールが目に留まりました。
 そのメールによると、この話題はかって一度そのメーリングリスト内で盛り上がったことがあったものらしく、今回、新たに納得いく説が見つかったというな内容が書かれておりました。私も、同じ疑問を持っていましたので早速その新説を読ませてもらいました。(Mさんと言われる方が論文にしておられ、それをメールで送ってもらったのでした。以下これをM論文といいます。)
 しかし、これを読んでも私はどうもスッキリしませんでした。
 そこで、以下私なりにこの謎解きに挑戦してみることにしました。

 アプローチとしては、似たような言葉からの類推によることとします。この論文にも書いてあるのですが、なぜ手打ちと言うのかを直接的に記述した資料は、見つからないそうです。ということは、逆に見ると、わざわざその由来を説明する必要がないほど、当時からその言い方が一般的であったということです。とすると、当時から使われている(と思われる)表現を当たって、それらの言葉から類推しても大きなはずれはないように思われます。また、日本語は太古の昔から現在までほぼ一貫した形で使われ続けており、意味不明であるとか読めないということが少ないのです。従って、類似語による推定は妥当といえるでしょう。
 では、このM論文も参考にさせて頂きつつ、推理します。

 
 まず、「手」についてです。(これはM論文と同じ結論です)
 私は、当初「手打ち」とは、単純に「機械を用いず手作業で作った」との意味と考えておりました。実際、現代においてはそのような意味で使用されています。ところが、江戸時代において既に「手打ち蕎麦」という言い方がされているのです。さらには平安時代にも用例があって「ほうとうを打つ」という言い方があるそうです。 従って、当時機械打ちはありませんので、それに対比しての「手打ち」という意味ではないのです。
 つまり、なにか本来的な意味が込めてある訳です。

 ここで類例として掲げるのは、次の3つの用例です。(他にまだあるかもしれませんが私の脳ではここまで。)
 1手ずから・・M論文にも例示されています。みずから、直接に、という意味です。
 2お手植え(の松)・・高貴なお方がみずから植えられる、という意味です。
 3手打ち(に致す)・・お侍が無礼者に対して使用する言葉で、(刑の執行者の手を借りることなく)そのお侍みずから処罰(斬首など)する、という意味です。
 上の3点に共通しているのは、「人が、直接に、そこで、(・・する)」ということです。
 これが正しいとすれば、「手打ち蕎麦」における「手」打ちとは、次のような意味ではないかと思われます。
 
 「手打ち蕎麦」の看板を掲げた蕎麦屋のおやじの口を借りて表現しますと、
 「お客様、この蕎麦は当店の主人である私めが、只今、この場で作りましたものです。かりそめにも、昨日の作りおきであるとか、うどん粉が多いとか、出来合いを持ってきたとか、そういうことは一切ございません。まさに、私の責任において供する自信作でございます。」と。

 以上、「手打ち蕎麦」の「手打ち」とは「私が、直接に、ここで作った」という意味であり、「まがい物ではない」ということをお客にアピールするための言葉使いだと考えます。
 
 ちなみに、江戸時代の蕎麦屋の絵を見ると、その作業場は今と同じようにオープンに作られており、まさにこの精神と一致しているように思われます。
 またM論文にもありますが、二八や駄蕎麦と称されるもの対しての高級感を伴わせてあるようです。

((2)へ続く)

 
17.3.10

なぜ「手打ち」というのか(2)−「打つ」について

 次は、「手打ち」の「打つ」という部分についてです。
 
 M論文も参考にさせていただいて、用例を挙げます。あわせて関係の深そうなもの同士を5つのグループにくくってみました。右に添えたのは、英語で言い換えたらどうなるかです。

A心を打つ、電報を打つ、時を打つ、枝を打つ =hit
B水を打つ、網を打つ、酢を打つ         =hit
C寝返りを打つ、もんどりを打つ、注射を打つ   =hit/do
D博打を打つ、芝居を打つ             =do
D'刀を打つ、蕎麦を打つ             =do(make)

 打つというとどうしても「hit」の概念がまず思い浮かびます。
 上のA、Bは明らかにこのhitから来ています。ちなみに電報は電鍵を叩くことから、時は鐘を打つことから来ています。ただしBの場合、厳密に考えるとAのように水や網や酢に対してhitするのではなく、道路や水面やご飯に対して水や網や酢でhitするのですが、いずれにせよ(受動能動の差はあれ)、両者は明確にhitです。ただし、BはAと違って水を撒く、網を投げるなどの言いかえが効きます(C以下のdoに近くなる)。
 次にCを飛ばして、D、D'ですが、これは言い換えると「する(do)」または「作る(make)」が適当です。
 そして、残ったCグループ。これは両者の中間でしょうか。

 以上、明らかにhitの意味を持つものからから明らかにdo(make)の意味を持つものまでを並べました。
 一応、打つには「hitの意味の打つ」と「doの意味の打つ」があるといって良いと思われます。
 
 ここまでは事実関係の整理結果です。
 つまり、事実としては、刀を作ることや蕎麦を作ることを「打つ」というのだ、ということです。
 では、肝心の話。なぜ、そう言うのか。
 
 この質問に直接答えるのは難しいのですが、質問を少し変えて頂いて「言葉には言い代える用法(例えば食べることを頂くとか召し上がると言い換える用法)がある。『刀を作る』を『刀を打つ』、また『そば作り』を『蕎麦打ち』と(事実として)言い換えているが、それはなにをもってそうなのか。」ということであれば、次のように答え得ると思います。
1 刀を打つの場合
  製造工程には、鉄の塊を溶かす、槌で打って鍛える、研いで鋭くする・・などがあります。このうち、もっとも目立つ、あるいは特徴的なのはなんでしょうか。火花を散らしながら赤くなった鉄をトンテンカンと打っているあのシーンではないでしょうか。つまり、「打つ」ことこそ「作る」であると捉えられたのです。
2 蕎麦を打つの場合
  製造工程は、ご存知の、水回し、延し、たたみ、切り、茹で・・ですが。このうちで(一般の人たちが見て)一番蕎麦作りらしいシーンはどれでしょうか。トントントントンとかっこよく麺帯を切って行くあの姿ではないでしょうか。実際、大方の人が蕎麦うちで連想するのはおそらくこれでしょう。(M論文でも包丁で切ることを打つと表現するケースがあると指摘されております。)つまり、「切り(打つ)の姿」こそ「蕎麦作りの姿」であると捉えられたのです。
 ついでに、
3 博打を打つの場合
  博打のシーンで一番それらしいシーンはチップに当たるあの木札のようなものを、博徒のお兄さんが意を決して台の上にトンと置くあの仕草ではないでしょうか。このトンとおく(打つ)行為が博打行為を代表しているとされたのではないでしょうか。
4 芝居を打つの場合
  歌舞伎の見所はなんといっても役者が舞台の上で大見得を切るときですが、その際に打ち木(ツケというそうです)が板に派手に打ちつけられて大きな音がします。ここから芝居を打つという言い方が出てきたのではないでしょうか。

 では、この項の結論です。
 蕎麦作りの工程のなかで、「これぞ蕎麦作りとみなされるシーン」=「トントンと目にも鮮やかに包丁を使うシーン(まな板を打つシーン)」をもって、蕎麦作り工程全体のことを「打つ」といったと考えます。


 ちなみに、素麺は「手打ち素麺」と言わず「手延べ素麺」といいますが、あれには包丁作業がありません。

((3)へ続く)

 
17.3.11

なぜ「手打ち」というのか(3)−「打つ」についての私の総合結論


 この項では少し大胆な推理を。

 打つには少なくとも、hitの打つとdo(make)の打つがあると(2)の文で書きました。
 doの打つについていろいろ考えているときに気がついたのですが、doの打つには共通することがあります。それは、doの打つには、ある一定の(水平の)エリア上でなにかをする、という意味合いがあるということです。

 たとえば、
・ばくち…白い布を張った板状の場所でする(打つ)
・芝居…台の上でする(打つ)
・興行…場や空地でする(打つ)
・水…道路上に撒く(打つ)
・もんどり…人があるスペース上でひっくり返る(打つ)
・寝返り…畳の上でする(打つ)
・手打(討)ち…無礼者を地面の上に座らせて斬る(打つ)
・刀…(狭いエリアですが)やっとこの上で作る・叩く(打つ)    ・・等々。

 ここまで来れば、察しが付くと思いますが、蕎麦やうどんはどうでしょうか。
 四角の平らな台の上でdoしていますね。必ずしも直接的なhitはありません。
 つまり、doの打つとは、「平らなエリアの上でなにかをすること」といって良いのではないでしょうか。
 では、それは一体どこかから来たのでしょうか。
 それは我々人間の原始的な感覚であろう、太鼓などを打つ行為から来ているのではないかと思います。あの平たく張られた皮という一定のエリアを打つ行為です。時代は下りますが、平たい板の上に釘を打つという行為も同じ連想をさせます。 
 そしてこれらに類した行為のことを上の用例のように「打つ」というようになったのではないかと思います。
 この際、直接的なhitという行為は無くとも、音を伴うなどのhitを連想させることがあれば、すんなりそのような言い方が認められた、ということではないでしょうか。

 ここに書きました推論の分を加えて、以下、「打つ」についての私の総合的結論です。

 「打つ」とは、太古の時代から存在した、太鼓を打つといった行為にその語源があり、転じて一定の平らなエリアにおける行為(何らかの音が伴えばなおのこと)の意味合いをも含むようになった。
 蕎麦を打つとは、蕎麦打ちの作業工程の中の一部分であるにも関わらず、最も人目を引き、それと解りやすい「切り」の工程をもって、蕎麦うち作業全体を代表させ、かつそれが一定の平らな台の上でトントンという音を伴った(まるで太鼓を打つような)行為であることから、そう表現するようになった。
 なお、なぜ蕎麦を打つというかの解説が古文書などでなされていないのは、上記のことに違和感なく、ことさらに説明を要しなかったからである。

以上です。
皆さん、いかがでしょうか。

おまけ。
 「注射を打つ」は、音が伴いません。なのに、なぜ「打つ」というか。
 「注射」は時代的に比較的新しい行為です。
 私は、「釘を打つ」又は「針を打つ(針はトントンと叩く動作があります)」から発想されたのではないかと思います。
 釘や針を、平たい板や皮膚にdoすることを「打つ」というのだから、注射も打つと言おうじゃないか、ということでしょうか。
 「打つ」という言葉の用例シリーズの新種ですね。冒頭「太鼓」が祖父の代とすれば、2代目の父の代はその血を引いていましたが、3代目で大きく様変わり、ということでしょうか。
 江戸期の川柳を思い出しました。
 売り家と 唐様で書く 三代目

 おあとがよろしいようで。

 
17.2.15蕎麦打ち倶楽部幹事長(下の続きです)

 日米夫人会の支援に際しては蕎麦打ち倶楽部幹事長の○部さん、副会長の梅○さん、会計幹事の飯○さんの大ベテラン3人に私がお手伝い。
 皆さん、いわゆる蕎麦屋の敵。腕前抜群である。
 
 とりわけ幹事長の○部さんはすごい。
 なにがすごいかといって、もてる技術だけではなく、一生懸命に尽くされる点がすごい。
 今回も、全体のアレンジをやって頂き、当日はプレーヤーも。脚本、監督、主演、そして蕎麦料理の準備作業。

 今回は、蕎麦打ちだけでは物足らないだろうと、そば料理も試食してもらうことになっていた。
 メニューは、蕎麦がき、あげ蕎麦、そばゼリー。(レシピは、そのうちに教えてもらい勉強して開示します)
 特筆すべきは蕎麦ゼリー。
 蕎麦湯をベースに甘く煮た小豆が含ませてあり、ゼラチンで固めてある(?)。そして、それがアイスボックスに入れられ!保冷剤が入れられて!持ち込まれている。その数、50人分!その数もさることながら出来上がりの美しさにもびっくり。これで商売をするわけでなく、頂くのは実費であるのに、これにつぎ込まれたエネルギーたるや莫大。
 私、もう、感服いたしました。

 (この項、蕎麦そのものには関係ありませんでした)

 
17.2.15日米夫人会に蕎麦打ちで支援

 本日、我が蕎麦打ち倶楽部が、米国のご婦人約20名、日本側ご婦人約25名を対象に蕎麦打ちの実演と体験を実施するというので、そのお手伝いをした。(実技をする程の腕に至ってないため、もっぱら裏方を担当。)
 まずびっくりしたのは、米国ご婦人の好奇心の強さ。実演を始める前に、蕎麦打ち台を囲むようにして座り込み、目が子どものような好奇心あふれる目になっている。ある程度予想はしていたが、積極的に楽しもうという生き方を感じた。我々も大いに見習うべき態度だ。

 実技では、粉がきれいな塊になり、円形の生地になりそれが大きな四角形(1.5キロだから、1m×1.5m)になったところで盛大な拍手と歓声。そして、あざやかな切りの段階で再び拍手と歓声。やる方も乗ってきた。(そう、こういう楽しみ方をしなくちゃいけないんだなぁ。)
 体験の段階になってもその熱気は衰えない。皆さん、なんでもやってやろう見てやろうの気持ち溢れる。
 そして、質問がいくつも出る。
 乗せ方が上手くて、自分もまた乗る・・ということなのだろう。
 できあがりを試食。結構、おいしそうに食べて頂いた。
 
 当初、米側夫人はあまり関心を寄せられないのではなかろうか、と思ったが、とんでもない。
 こちらもまた大変楽しい時間を過ごさせてもらった。
 アメリカ人はもてなし上手(もてなされ上手)だ。もてなすつもりの日本側がもてなされてしまった。
 大変、勉強になりました。
 

 

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