津軽三味線について、稽古のこと楽器のこと等・・・

22.3.17

上妻宏光はやっぱ良い

  津軽三味線の稽古をしながら、色々な奏者の演奏を聴いて参考にしております。
 私は、i-podを愛用しておりまして、西洋音楽を含めて色々な曲をたくさんロードして通勤の途中などに聞いていますが、一番多く聞いているのが、上妻宏光のアルバムです。

 彼の演奏はテクニック的には、少し乱暴な言い方になりますが、単に普通のプロ級であって、特段のものはないといってよいのではないかと思います。ひょっとすると吉田兄弟あたりには負けているかもしれません。しかし、何度も聞きたくなるような明らかにほかとは違う、なにか惹かれるものを持っているように思います。
 
 そのことが最も良く現れているアルバムが「永遠の詩」ではないかと思います。このアルバムに納められている曲は全てそうですが、津軽三味線のスタンダード曲をモチーフにして、その原曲につかず離れずという姿勢で、彼自身が作曲したものばかりです。どうということはないといえばそれまでですが、そのつかず離れずのあんばいが絶妙だと思うのです。

 ジャズの演奏でこういう場合に採られる手は、まず原曲を演奏してそれに変化を加えて行き、最後はなにかしら全く違うような曲にしてしまい、最後にまた原曲に戻るというものです。
 これに対して、彼の曲では、原曲の香りをつよく残しながら、そこに彼の感じとっていることを表現していく、というもののように感じられます。つまり、津軽三味線の曲から不即不離の態度を取り続けるということが強く感じられる訳です。
 
 ある日、これと対照的な演奏をあるテレビ番組で放送されておりまして、高名な某津軽三味線演奏家が、バッハかなにかの曲を津軽三味線で演奏をしておりました。おそらく正確にバッハを演奏したのでしょうが、それを聞いてもなんの感動も覚えず逆に単なる見世物ショーを見せられているような、いやな気分になったことを覚えています。やはり、和楽器には和楽器の良さを生かした領分というものがあるんだなぁ、と強く感じた次第でした。

 多分、上妻宏光もそういう思いが強いのだろうなぁと思っていたのですが、彼の次のようなコメントに接し、思わず膝をたたきました。
 「(若い頃にギターなどとの競演を盛んにやったことを述べた後で、)単純にギター寄りのプレイをしても、仕方ないと思いましたね。むしろ、津軽三味線のよいところを如何にして残していくか、ということを知りましたね。それを忘れずに、いかに自由なフレーズを弾くことができるか、自由な表現をしていくか、なんですよ」(CD「AGTSUMA」の作品解説から)

 これは、津軽三味線でバッハをやるのはおかしい等と言っているのではなくて、津軽三味線に合うもの合わないものがあるのだから、無理して背伸びするのはむしろ滑稽なものとなってしまい、音楽がもたらすの本来の感動というものが失われてしまうのではないか、ということを言っているように思います。
 百数十年の時間を経て今も愛されながら生き残っている、という訳は多分、津軽三味線曲の持ち味にあるのだろうと思います。
 新しい味を出している吉田兄弟の曲も良いですが、やはり、本来の津軽民謡の味を残した上妻宏光の曲の方が安心して聞けます。

 今、津軽三味線を始めて以来、数年に渡って習った曲を少しづつおさらいしていますが、この過程を経て、私も彼のように津軽三味線の味を生かした曲を、いつかはやりたいなぁと思っています。

(練習曲;津軽あいや節)

22.3.1

再び人差し指の腹

 年を取ってくるとだんだん早起きになります。
 それで、夏場からこの方ずっと、出勤までの短時間を練習に当てています。

 この朝錬では、過去に習った曲で忘れてしまっている曲の記憶再現作業と撥使いの基本練習をやっています。
 記憶再現作業は、脳を強く行使することになるので、あまり乗り気になりません。ついつい、弾きなれたものに向かいがちですが、頑張って少しづつではありますが古きを訪ねています。

 基本練習では、先日のテレビで吉田兄弟が話していました、「撥付け」を改めて練習しています。
 兄弟が言うには、この撥付けを聞けば、その人の技量が大体分かる、ということでした。この撥付けについての私の理解は、音程の設定(調音)と曲に入る前の雰囲気作り、というようなものでしたが、それだけではなく、撥の操作に関する基本練習になるものだと改めて思いました。
 三味線では、撥の操作(打ち方)が全ての基本になる訳でして、その上に、様々なテクニックが積み上げられているということのように思います。
 そう思って、撥付けを行なうと、曲を弾き始める前の撥の持ち方の具合や糸への当て方を調整する準備作業として非常に大切な行為であることがよくわかります。

 前に、撥の「掴み方」(「握り方」よりこっちの言葉の方があってるような気がします)について、色々と書いていますが、私の場合、「撥つけ」というのは、「掴み方」についての大きなポイントである人差し指の感触の意識を強めるということについての重要な準備期間となります。
 最近は、そういうことを意識しながら朝錬をやっているのですが、この「人指しの腹」の感覚はやっぱり大事だなぁと思います。
 撥さばきにおいては、本来的に、薄い板状のものを掴んで、その角っこを細い糸に当てたり引っ掛けたりするわけですから、ある程度しっかり保持することが必要なことは当然と言えます。これを確実にかつ綺麗な音がでるようにするためには、撥を親指と人差し指でつまむような感覚で保持することが大事なように思います。

 また、手首の形についてですが、撥の面は皮の面に平行に近い態勢にする必要がありますから、手首は自ずと曲げなければなりません。
 撥の持ち方を最初に教えられる時に、いきなり「手首を曲げなさい」という指導を受けるのですが、そうではなく、「撥を持つときに、人差し指の腹の部分を撥の面にしっかり当てて、その他の指とともにしっかり保持し、撥と皮の面を出来るだけ平行に近い態勢にしなさい。‥そうすれば、ホラ、自ずと手首は折れるでしょう。」ということでなくてはならないような気がします。

 さらには、「皮への打撃の際に、スナップを効かせて「ポン」という風に当たるようにし、掴む力は比較的軽い力にしなさい。」というようなことではないかと思います。
 こうすることで、糸を捉える確率が高くなるし、音もよくなるようです。
 常に軽く、ということではありませんが、軽く掴んで操作する場合が多く、しっかり掴む場合というのは、比較すると少ない様に思います。

 以上の説明では言葉不足ですが、別の言い方で最後に纏めると、「先達の良い音を聞いて、その音が出るように、試行錯誤で訓練することだ。」ということになると思います。なにごともそうですが、考えながら練習するということが大事ということでもあります。(ちょっと高みにたった言い方になりました。)

 ※写真は、撥を持つときの人差し指と親指の関係です。
 実際をこのような形にするというのではなく、イメージとして、この様に人差し指の腹と親指の腹で挟むという感じにする、ということです。
 こうすれば、撥がコントロールしやすくなります。


21.9.19

吉田兄弟

 あるテレビ番組で、吉田兄弟が女子高の津軽三味線クラブの指導をするというのがありました。

 このクラブの部員はほとんどが初心者で、おまけにその放送の当時は、3年生が卒業して2年生と1年生から構成されているという状況です。クラブの開設も新しいようで、きちんとした指導者もなくて、2、3年の経験者(先輩)が徒弟制度的に初心者の指導をしながら活動をしているというようなことでした。
 そんな覚束ない状態でよくやれるものだと思いましたが、なんとかかんとか音が出せているという風に見受けました。しかし、三味線を弾いている姿は、確かに初心者そのものでしたが、やる気だけは大変に強いものがありました。その勢いで、近々、コンサートをやりたい、ついては吉田兄弟の支援を得たい、という訳です。

 そういう中に、吉田兄弟が乗り込んで、直接の指導を行なうのですが、見ていて大変参考になったことがありました。
 それは、「歌う」ということです。
 吉田兄弟は、そのことを「(あるフレーズを弾くに際して)例えば、桜が舞い散る情景を思い浮かべながら弾くことが大切」という言い方をしています。ただ単に音符を音にしていくというのではダメで、情感を伴わせなければいけない、というわけです。

 私は、高校のときにブラスバンドをやっていましたが、指導を頂いた先生がタクトを振りながら、いつも「もっと歌って、もっと歌って」と大声で指示されていたことを思い出します。つまり「音楽なのだからもっと感情をこめて吹きなさい。そうでないと音楽ではない」ということです。これとおなじことを、吉田兄弟は「それにふさわしいと思う情景を思い浮かべながら‥」といったのだと思います。
 感情というものが、物理的な音響波にどう影響するのかを説明することはできませんが、実際には確かに影響をしています。勿論、感情だけではどうもこうもならない訳でして、その以前の問題として奏法に関する一定以上の技術力が備わっていなければなりませんが、その技術だけではだめだということです。
 私は、吉田兄弟は華やかな技術がウリの演奏家という印象を持っていたのですが、そうではありませんで、私が浅はかであったということだった訳です。

 このクラブの生徒達は確かに未熟な点もありましたが、ビッグな先生と高校のクラブ活動という、徹底的に練習に専念できる環境を与えられ、かつまたやる気十分ですから、見ていてみるみる上達していきます。2年間の練習でここまでのレベルになるというのは、大したものでして、わが身を省みて恥じ入るばかりでした。

 そして、家族等を招いてのミニコンサート成功に至るのです。(演奏された曲には、数人の生徒による八小節ほどのソロ演奏も入っています。吉田兄弟提供による合奏用オリジナル曲でした。)
「歌う」という気持ちを織り込みながら、技術向上のための繰り返し練習の成果が挙がったということだ、と私は理解しました。

(練習曲;踊りのじょんから節)

21.9.13

和太鼓の撥と三味線の撥
  先日テレビで、和太鼓の名手「林英哲」について特集をやっておりました。
 林氏は和太鼓の大変な名手でして、世界を股にかけてオーケストラとの競演をするなどの活躍をされています。

 テレビ番組の題名は「アインシュタインの眼」というもので、高性能のカメラやスペクトラムアナライザーなどの計測機材を駆使して、名人の技術のわけに迫ろうというものです。

 さて、三味線の胴も基本的には太鼓ですし、撥を使って音をだすという点でもおおいに類似しています。それで、なにか参考になるようなことがあるのではなかろうか、と思って観ました。

 3点ほど感じたことがありました。

1 撥の握りについて

  一番関心を覚えた点です。
  テレビでは、様々な打ち方を高速度カメラで撮影したのですが、撥を皮にヒットさせる際の動きとしては、次のようになるようです。
@ 撥を出来るだけ後ろに引く。(他の奏者と比べると林氏は5〜10センチほど後方に位置しています。)
A スナップを効かせながら、皮面に向かって撥を高速で振る。(他の奏者と比べると、後方より出発させた撥は、他奏者を追い抜くようにして、より高速で皮にヒットしています。)
B ヒットの瞬間は握りの力を抜く。(これはスローの映像で、はっきりそれと分かる状況でした。)

 つまり、ストロークを長くして、高速で撥を振り込み、ヒットの瞬間には握りを緩める、ということです。
 言い換えれば、運動エネルギーをできるだけ大きくして、(手を握り締めることで生起する)エネルギーの減衰を押さえながら、それを効率よく皮面に伝える、ということではないかと思いました。

 このことは三味線の撥さばきにも、そのまま当てはまるように思います。
 勿論、出したい音によって撥のさばき方も異なるのですが、基本操作については同じではないかと思います。

 テレビを見ながら思い出したのですが、私の先生も、撥さばきの基本を次のように言っておられました。
[トップ]‥まず手首を返す(まわす)ようにして、撥を大きく開く。
[ダウンスイング]‥スナップを効かせて、手首を返す(まわす)ようにして、打ち下ろす。
[インパクト]‥(詳細な説明はありませんでしたが、)イチローの打法のように力まないで打ち込む。
[フォロー]‥(この部分は、太鼓と全く異なりますが、)皮をぐっと押さえる。

 三味線では、最後に皮を押さえるというアクションが入るので、全体的に撥を握り締めて操作するべきという考えを持ちやすいのですが、基本の撥さばきとしたは上掲のような、太鼓と同じようなやり方ではないか、と思いました。

2 音色について
 テレビでは、大太鼓の皮面の打つ場所を変えながら音をだすデモが行なわれました。
 たしかに、音色が異なります。
 太鼓には違いないのですが、その範囲で、音色(ねいろ)が変わる様子がよくわかりました。
 三味線でも場所の打ち分けをしますが、曲に変化をつけるためにも重要なテクニックです。これまでは、あまり気にしておりませんでしたが、今後気をつけながら稽古したいと思います。

3 高周波音について
 どういう理由によるものか分かりませんが、林氏の出す音と普通の奏者の出す音をスペクトラムアナライザーで比較すると、林氏のそれでは高周波成分が確かに盛り上がって(レベルが大きく)なっています。
 歌手の中に、たとえば宇多田ヒカルの歌声を同じように分析すると、通常人間の耳には聞こえない数十kHzの成分が含まれており、それが彼女の声を心地よく聞かせる元になっているといいます。
 林氏もこれに関連して言っていましたが、太鼓の演奏中に子供が寝るのだそうです。多分これが高周波成分が醸し出す心地良さの原因なのであろう、ということでした。
 この部分は、三味線には直接関係がないように思えますが、ひょっとしたら「さわり」によって発生する倍音のなかにそれが含まれているかもしれません。興味深いところです。良く分かりませんが、いずれにせよ、きれいなさわりの音が出るような調音をするのに越したことはないように思います。

 

 名人の域に入ると、太鼓という単純な楽器にも大変深いものがあることが分かりますし、そういう領域に至ると、他のものとの関連が見えてくるような気がします。そして、ひょっとしたら、森羅万象あらゆるものが共通の何かで繋がっているのではなかろうか‥などと思ってしまします。

 早速、撥の稽古をしてみましたが、なんだかいけそうな気がします。

21.4.28

人差し指の腹
 ゴルフの技術教本を見ると、最初の記述は大抵の場合「グリップ」です。道具を使ってやるスポーツですから、その道具と人間(の意志)との接点について、まず理解と実践が必要である、ということです。
 私もゴルフは、そこそこやりましたが、ゴルフがある程度できるようになって振り返ると、このグリップの仕方と体全体の使い方というのが大事だということが判りました。
 私は実は、蕎麦打ちにも興味を持っておりまして、今修行中なのですが、包丁の使い方がまたゴルフに似ているのです。蕎麦打ちにおける「切り」の作業もポイントは、グリップと体の使い方にあります。

 そして、さらに、この三味線。
 三味線の場合の撥の場合も、道具を介して何かをしようという点ではゴルフ(のクラブ)や包丁と同じでして、共通して大事なのはやはり「グリップ」です。さらに、そのグリップにおいて私が大事だ思いますのが、「人差し指の腹」なのです。

 今回は、この3者に共通する「人差し指の腹」について書きたいと思います。ただし、あくまで私の場合はこうだ、ということですから、念の為。

 ゴルフをやった方はお解かりと思いますが、グリップする時、右手の人差し指はクラブの下側に回して鍵型(スリを示す形)にします。
そのあとは、人によってそれぞれかもしれませんが、私の場合、その人差し指の腹を親指の先の部分に軽く触れさせるのです。このように触れ合っていないと、インパクトの瞬間にクラブがボールに負けて、回ったりして、良好なインパクトが得られません。また逆に、強く指同士をくっつけると変な力みになって、これまた良好なインパクトになりません。
 アドレスの際に、人差し指の腹と親指の先が軽く接しているという感覚にしておくと、最終的にそれが、インパクトの際にクラブを適度な力でグッと掴(つか)む力になって、綺麗に当たるのです。
 私の場合、これは非常に大事なポイントでした。


 次は、蕎麦打ちをするようになって、感じたことです。
 蕎麦打ちの最終段階は、延した蕎麦を畳んで、包丁で切るという作業になるのですが、これには、小間板と称する一種のガイドを使用します。写真のように、蕎麦を切るには、まず小間板を左手で上から押さえて、右手に持った包丁を、小間板の一段高くなった部分(枕といいます)に沿わせて、押し切っていきます。(写真では、枕の部分は包丁に隠れています。)
 この際のポイントは、「小間板の枕に包丁をしっかりと沿わせる」という点です。
 包丁を持つ右手の形は、次のようになっています。
 包丁の柄を上から握り、人差し指だけは下前方45°方向に真直ぐ伸ばし、包丁(の金属部分)を指先で軽く押さえます。
 つまり、人差し指の腹の部分が包丁に触れている訳です。

 私は、当初、この感覚を意識しないままに切りの作業を行っていたために、包丁がきちんと小間板の枕に沿っておらず、その結果として包丁の進入方向がぶれるために、いわゆる乱れ切りになっておりました。ある日、先輩に指摘を受けて、人差し指で押さえる感覚を意識するようになって、切りの作業が幾分安定してきました。
 これも、「人差し指の腹の感覚」です。


 上の2つの例から言える事は、手で道具を持つというのは単にその道具を固定するということではなくて、「道具をうまくコントロールできるように掴(つか)む」ということではないか、と思います。
 その時に、人差し指の腹の部分で道具を押さえるということが重要であるということです。なぜなら、道具をコントロールする場合に限らず、ものを操作する際には人差し指がいつも大きな役割を果たしているからです。
 また、触れる程度の力にするというのは意味があって、もしも触れてないと、道具はぐらつきますので、これは論外ですし、かといって強く押さえ過ぎると、柔軟な動きが得られず逆効果をもたらします。従って、適度な力で触れているという状態が必要だということでしょう。

 さて、そこで、三味線の撥の持ち方(グリップ)についてです。
 上の2つの例に書きましたように、私がこういうことをわざわざ感じ取ったのは、私が本来的にそういう掴み方をしていなかったからです。多くの方は、言われなくともそういう掴み方をされているので、ことさらに意識されないかもしれません。つまり、私は、なんにせよ掴み方が一般に緩(ゆる)いということなのでしょう。(性格もゆるいです。)
 三味線の撥もそうでした。
 いまいち良い音がしないし、撥の動き(正確さ、速さ)もいまいちでした。
 あるとき、人差し指の腹の感覚について、はたと気付いたのです。うまく行かないのは、指先が緩んでおり、従って撥がうまくコントロールできていないのではないか、と。

 いろいろとやってみたのですが、撥を持つときには、まず、親指の腹を使って撥の開きの角の部分を上方から当て、そして人差し指の腹を意識しながら撥の裏側から適度な力で支える、ということが重要なように思われます。撥の持ち方については、教本に書いてあったり、先生から言われたりして、形の上では一応出来上がる訳ですが、どういう力配分になっているかというのは、あまり説明されることはないようです。せいぜい「卵を持つように」程度ではないでしょうか。
 私の場合、あれこれ試行していて、あるとき、そういうことに気付き、ゴルフと蕎麦切りとも繋がったわけです。

 このようにして撥を掴むと、撥のしなり具合が良くわかりますし、また、うまくしならせることで音も良くなっている(ように思える)ようです。また、当然、撥の動きもコントロールしやすくなって、ミスタッチも少なく、動きの速度も正確で早くなってくるように思えます。
 さらには、(うまく説明できませんが)手首も大きく曲げなければならなくなるようです。

 道具を使って行う技芸ではグリップが大事なことは論を俟ちませんが、その中でも最も敏感な「人差し指」の使い方、とりわけ、道具との接点となる「腹」の部分の感覚というのが大事なんだろうなぁ、というお話でした。

 

20.7.1

自作の駒

 自作といっても私が作ったというのではなく、自作の(アマチュア作の)駒を頂いた、という話です。

 昨年末のことでしたが、さる大手航空機会社の方が作られた駒を頂きました。

 実に見事です。

 直線が綺麗にでています。(後で聞くと、底面は若干凹上にアールがつけてあります。)

手前の駒は、駒の上の部分(名前はなんというのでしょうか)が象牙です。高さが、4.8o(二分九厘)です。

 奥の駒は、煤竹製で高さが4.9o(約三分)になっています。
 両方ともやや高めですので、大きい音がでます。


 裏から見たところです。

 これも大変綺麗に仕上てあります。
 くぼみのアールも均一で綺麗ですし、皮に当たる部分も綺麗な直線で磨き上げられています。

 過日、その制作要領について聞いてきましたので、同じようなやつを是非作ってみたいと思っています。

 蕎麦のページもそうですが、全体が工作教室みたいになってきました。

 稽古に通うのはやめていますが、自分なりにおさらいをしています。
 綺麗な音を出すことを心がけていますが、撥の持ち方、糸への当て方など、どんどん基本に戻っていきます。「振出しへ戻る」状態になっています。
練習曲;願人節など

20.4.1

しばらく休部です

 今月から約1年間、稽古に通うのを中止することにしました。いわば、休部です。
 ただし稽古自体は、自宅で続けます。
 また、このホームページも続けるつもりです。

 この5年ほど、月3回のペースで通い続けましたが、最近疑問を持つようになりまして、少し休んで考えてみようと思った訳です。
 稽古に通って、ある程度の曲を覚えましたが、片っ端から忘れて行きます。その一方でどんどん新しい曲を習うのですが、ただ単に数をこなすというような状況になってしまいました。また、その内容をみましても、単に弾けるというだけでして、言い換えれば順を追って音を出せるということなのです。出している音自体も美しくなく音楽性もほぼ零に近い、ということでは嫌になるではありませんか。俺は一体なにをやっているのだ、ということなのですね。
 それで、しばらくは自分のペースで習ったことをゆっくりと反芻してみようと思った訳です。

 休部して、丁度1ヶ月経ちました。
 毎日毎日かつかつの"おさらい"をしていたことから開放されて、精神的にまず楽になりましたね。
 芸事ですから、やや論理的でない部分があっても我慢をしていましたが、そこから距離をおいて自分なりに音楽として得心の行く音作りにはげめるというのが良いのではないか、と思います。もちろん、技術的な面では、高名な先生に直接習うことが出来ましたので、その点では大変ありがたく思っています。

 しばらくは、マイペースで稽古を積んでいこうと思っています。

 

練習曲;津軽あいや節

 

 

(↓に続く)