最近読んだ本の感想です

読みたい本が多く、右(翼系の)の本から先に読んでいます

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22.8.25

文化防衛論/三島由紀夫/ちくま文庫
 この本には論文数編と学生を対象にした講演会の模様が収録されています。前者については私にとってやや難解でしたが、後者については特に学生との質疑応答の部分を大変興味深く読みました。余談ですが、当時の学生が三島由紀夫と対等なスタンスで、丁々発止のやり取りをしている情景には、ちょっとびっくりしました。今と違って当時の学生は真剣であったように思えます。一途(いちず)と言ったほうが適当かもしれません。近頃の学生は、多分こうではなく、丸く収めるような論議をするのだろうと思います。

 この本を読みながら、今の政情に照らして強く感じたことがありました。
 それは「暗殺」ということについてです。
 三島は「民主主義と暗殺はつきもの」であり、「(暗殺の)有効性というものもないではないという考え方をする」と言い、「暗殺」を肯定的に捉えています。更に、「大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、相手のあらゆるものを抹殺するか、あるいは自分が抹殺されるか、人間の決闘の場であります。それが徐々に徐々に高められてきたのが政治の姿であります。しかし、この言論の底には血がにじんでいる。そしてそれを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に堕する‥」と言っています。
 つまり、民主主義というのは言論によって異論を唱える相手を打ち負かし、多数を形成していくものという理解が一般的だと思いますが、更に三島は、その延長線上に相手を殺すということもありえる、といっている訳です。殺人も民主主義に含まれるのだ、というのです。なにか恐ろしい話ですが、人命第一という考え方に凝り固まっていると、こういう考えはでてきません。ここには、命よりも大事なものがある、という考えが基盤としてあるわけです。

 私には、実行に移す勇気は全く持ち合わせていませんが、納得はします。命とは何かを為すための手段、つまり、いうなれば搬送体であって、従って命を保つことが目的にはなりません。何を運ぶか(何をするか)が大事ということです。特攻隊がその良い例です。植物人間や尊厳死の問題もこれと通底しています。
 「命(ぬち)どぅ宝」という言葉があります。私は沖縄の方を貶めるつもりはありませんし、命を軽視するつもりも毛頭ありませんが、議論中止、思考停止の言葉になってしまっています。命よりも高い価値のものがあることを強く認識した上での発言や思考であるべきだと言いたいのです。
 
 三島は、また次のように言っています。
「例えば、暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか。殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける。やはり身辺が危険だと思うと、人間というものは多少緊張して‥(真剣になる)」
 だから暗殺は必要であるという効用を述べているのではなく、死を賭す覚悟でもっと真剣に政治に当たれ、ということを言っているのだと思います。もちろん政治に限らずあらゆる物事に対してそういえます。「葉隠れ」に言う「武士道とは死ぬことと見つけたり」という考えもこれに通じています。

 こうして思い浮かぶのは、民主党政権のことです。もちろん自民党が優れていたというつもりはありませんが、今の民主党にぴったりのような気がします。
 危害が身に及ぶという緊張感が全くありませんから、というよりも、自分たちは完全な安全域に居るという利己的な考えが極端に強いものですから、国民の生活をなんとかしようという気持ちにもならず、外国からの侵食にも非常に鈍感になっているように思えます。

 「出でよ、暗殺者」、と本当に思いますね。
 首尾よく暗殺が成功したら、私はやられた方に対して気の毒に思いますが、心の底で少し快哉を叫びます。

 

22.7.30

週末陶芸のすすめ‥ほか/林寧彦/晶文社ほか

 林寧彦氏の存在はネットで知っておりまして、一回だけメールをやりとりしたことがあります。
 今回、同氏の次の3冊を一気読み致しました。
1週末陶芸のすすめ/晶文社
2週末陶芸家になろう/双葉社
3陶芸家Hのできるまで/バジリコ株式会社

 内容は、ふとした弾みで陶芸に足を踏み入れ、旺盛な探究心・向上心の故に自宅マンションのベランダで電動ろくろを運用し始めるという、第1段階の話。博多への転勤を契機に、単身赴任先のマンションに電機窯を据付け、有田の窯元で勉強しながら腕を磨く5年間についての第2段階。そして、単身赴任を終わって、千葉の自宅の近傍に専用の陶芸作業場を開くという第3段階。と、なっています。
 3冊の本を読んだ後、ホームページを開くと、第4段階として、陶芸作業場を改造して教室を運営しようとされているようですね。どんどん進化されているようです。
 当初の陶芸との運命的な出会いが無ければここまで来ないわけですが、それだけではなく、その前にそういうことが達成できる能力を既に秘めておられて、そこに陶芸との運命的な出会いがあったということのように思います。多分、元の職業でも相当のところまで上り詰めて行くことがおできになるのでしょうが、今のような陶芸家としての地位には到達されなかったのではないかと思います。勿論、ここでいう地位というのは単に名声的なものだけではなく、ご自身の充実感を含めてのことです。

 私が、これらの本を読んで感銘を受けましたのは、次のようなことごとです。
1 熱意について
  ものごとが成就できるかどうかは、いつにかかって、それに費やされるエネルギー量の多寡であろうと思います。そして、そのエネルギーを供給し続けるのが、熱意という意思の力です。それは、多分に生まれつき持っている性格的な部分によるとことが大きいのですが、著者はそれに非常に恵まれていたようです。なんでも自分で、やっていかないと気がすまないし、だからこそ、とことん突き詰めていこうとするわけです。ろくろの技量向上には千個の湯飲みを作ることが必要だと教えられれば、実際にそうしようとするし、教室の先生に釉薬を掛けて貰って、焼いて貰うというのは本物ではない、と言われればそれらを自分でやろうとするし、挙句には釉薬の自作にも手を染める。普通は、なかなかこういうところまで行きません。適当なところで妥協をしてしましまいます。
 著者がそうでないのは、やはり旺盛な熱意が胸のそこで燃え盛っているからでしょう。それらが、探究心や向上心に直結していますから、エネルギーは枯れることがないわけです。

2 審美眼について
  もともと画才を持っておられるようです。同時に花鳥風月を愛でる感受性の強さを持っておられるようです。
  窯元の先生宅へ通う途中、草花のスケッチを楽しみながら歩いていく模様が描かれておりましたが、そういうセンスをうらやましく思いました。
 スケッチをするためには、まず、そこに「美」を認識するということが必要です。そしてそれをしっかりと見詰めながら、画用紙に書き表していくという行為がそれに続き、その過程で、「美」というものが頭の中に確立していくのでしょう。こうして、いわば観察者の頭の中に「美」の基準が出来上がるわけでして、次は、それを陶芸の世界にどう反映させるかということになります。
 肝心なことは、この「美」の基準なるものがないと、陶芸の作業を進ませようがない、ということなのです。お皿を作って、いきなりそこに絵を描こうとしても、目標値に相当するものがないと、絵の描きようがないわけなのですね。
 そういう感受性を大切にされているように思いましたし、私自身に欠けている点だと思いましたね。

3 美術と工芸の融合について
  著者は画才がおありです。その衝動と新たに目覚めた陶芸を融合させることに、ある日目覚められたということのようです。そのため、大型の皿を挽き、そこに絵を盛り込むということを中心にした創作活動をされています。
 その模様を読んで私が強く感じましたのは、私の創作活動に対する反省でありました。
 著者のような作品を作っていこうとすると、どうしても時間(手間)がかかってしまいます。成形にしろ、加飾にしろ、釉掛けにしろ、頭の中に確立した最終的な作品のイメージを常に念頭において、丁寧な作業をしなければなりません。ところが、私などは、出来るだけ沢山色々なものを作りたいというのが念頭にあるものですから、どうしても作業が雑になってしまいます。食器屋のオヤジみたいなもので、芸術の域には程遠い状況になっています。(食器屋のオヤジさんには失礼)
 言い訳をすれば、土日という限られた時間内で、作品の多彩さを許容する陶芸を存分に楽しみたい、という第1次的欲求が強いから、ということではないかと思います。
 それはそれで、一つの価値感なのですが、その一方、著者のようないわば頂上を目指すことに価値を置くことも大いに気になることであります。
 私も、絵には興味がありますので、著者のような行き方をまねて見たいものです。
 美術と工芸の融合、更に贅沢な趣味の世界ですね。それを考えると少しぞくぞくするのですが、続くかどうか‥。

4 チャレンジの大切さについて
  今回、これが一番感銘を受けた点です。
  著者は、(割と気軽に)展覧会に出品をされています。勿論、それなりの力量があると自他共に認められる部分があるからでしょうが、チャレンジするという気風について大いに刺激を受けました。
  そして、単にチャレンジをするというのではなく、自分をそこに追い込んで緊張を強いながら力量の更なる向上を果たして行くのだという、その考え方が素晴らしいと思います。
  えてして、そのような場面では、色々な思惑からしり込みをしてします。例えば、1年延ばして充分に力をつけてから応募しよう、等々の考えになってしまいがちです。しかし、それでは、結局は永遠の先延ばしになってしまって、いわば停滞の状態が続くだけなのですね。著者の考えは、期限を設けて自分を追い込むことで、エネルギーが効率的に集中され大きな効果が生まれる、ということなのです。
 私は、このくだりを読み進みながら、はずかしながらこの歳になって初めて、このことを感得いたしました。

5 目標の設定について
  仕事の仕方、あるいは人生の送り方等々に通じることです。
  著者は、博多に5年間の単身赴任をしますが、この期間の過ごし方について、まず目標値にあたる「自分はどのような姿になっているべきか。」ということを考えます。そして、そこからこちらに向かって逆算的に工程を考え、諸準備をし、実施に移していく。そういうことがしっかりと出来る人であるようです。作品の作り方にも、そのことが現れているようにも思えます。
 先のことは、ぼんやりとなんとなくでしか考えておらず、行き当たりばったり的なやり方で生きている私にとって大きな反省を求める事項でした。
 要するに、より具体的な目標をしかっりをイメージし、期限をつけてチャレンジするといおうことなのでしょうか。

 大変、ためになる本でした。

 

 

22.3.23

田母神塾-これが誇りある日本の教科書だ/田母神俊雄/双葉社

 大変よく纏められた本です。
 田母神氏は、あの出来事から1年以上たった今も時代の寵児となって忙しく講演などをこなしています。そういう多忙な中で、既に10冊近くの本を出していますが、たいしたものです。
 これらの本に書かれていること集約していけば「本来良い国であるわが日本を立ち直らせたい」という熱情の発露ということになると思います。その思いを骨格にして様々な観点から、時には独特のユーモアを交えながら、講演や執筆の活動を通じて、ひろく説き続けている訳です。
 どの本もそうですが、大変読みやすく、従って分かりやすい文章には改めて脱帽です。

 さて、この本のことですが、国民向けの教科書ということで、「1時限目;歴史」「2時限目;政治」「3時限目;国防」と、大きく3章に分けた構成になっています。細部は略しますが、1点だけ最近私も感じている点に触れたいと思います。

 それは、「ミリタリー・リテラシィ」ということについてです。
 前回、「日本有事」という本についての感想のところでも述べていますが、日本においては、軍事というものが、国家の最重要事項であるにもかかわらず、上は国会議員から下は一般庶民に至るまで、そのことがはっきりと認識されていないという異常状態にある、ということです。
 自衛隊員とりわけ上級の幹部や一部の識者には、その強い認識があると思うのですが、国家の実務運営に当たっている国会議員の多くは、そうではないと断言できると思います。今回の選挙で当選した、あのちゃらちゃらした新人達については、ほぼゼロといってもよいのではないでしょうか。
 もちろん、彼らも、口を開けば「国防の重要性」という単語の一つくらいは使えるでしょうが、せいぜいそこまでです。表面的な言葉を知っているというだけで、それが国際社会においてどのような効用を与えているのか、というような、一歩踏み込んだ理解になっていません。
 また、仮に「重要である」と発言したにしても、本心は違います。軍事は忌避すべきもの、汚らわしいもの、人類に不幸をもたらすもの、という基本認識が心底にしっかりと横たわっていますから、最悪です。
 
 現実の世界は力によって支配され、人間の本性(特に諸外国人のそれ)には汚い面があり、社会にはやむを得ぬ必要悪というものが存在し、いやなものだが危機管理は整えておかねばならない等々を直視することなく、架空の世界に逃避をしています。心が痛むことのない、お花畑に逃げ込んでいるのです。

 でも、最近、私はこういう国会議員をのみ非難してもしようがないと思うようになりました。
 なにしろ、日本人全体がこういうセンスですし、国会議員はその代表であるということでしかないからです。

 この本でも、述べられていますが、大学をはじめ、日本の学校教育で軍事に触れられることがほとんどありません。それどころか、逆に軍事は触れるにも汚らわしいものであるとする教育が行なわれているのですから何をかいわんや、なのです。

 問題の根は本当に深いということなのです。戦後64年が経過しましたが、状況は更に悪くなってきています。一体いつになったら、世界の普通の国のようなまっとうな教育が行なわれるようになるのでしょうか。私にはもう想像すらできません。
 こういう問題を語ると、必ず長い嘆息しかでないのが、残念です。

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