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22.3.10 |
日本よ戦略力を高めよ/櫻井よし子編/ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今日の国内政治情勢をみると、諸悪の根源は民主党であり、その中心に鎮座する小沢幹事長にある、といえます。日本はいま、彼によって鼻面を引き回されています。 民主党の考えとは、こういうことなのです。 一方アメリカにも妙な変化があります。 いずれにせよ、劣化する日本国内の情勢に加えて、大変なことになってきているのは確かなことです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
22.3.5 |
人は見た目が9割/竹内一郎/新潮社 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この本の中では、ノンバーバルコミュニケーション(nonverbal communiaction)という言葉が何度も使用されていますが、「非言語の伝達」という意味だそうです。(バーバルという単語がピンと来ませんでしたが、調べてみると「(形容詞)言語による」という意味です。)
非言語による伝達力の大きさというのは、私達が思っているよりも大きいようです。 そういうことですから、自分の脳内に在る情報を相手に伝達(communiaction)する際には、顔の表情や、声の質や、身だしなみ、しぐさなどの言葉以外の93%分について特段の意識をしなければならないということになります。しかし、そういう教育は必ずしもされていない、と著者は嘆きます。というのは、そもそも我々に、7:93の比率であるなどということの認識がないわけですから、やむを得ないことなのでしょう。 ノンバーバルコミュニケーションの一部として、「間」について興味あることが書いてありました。 (志ん生の芸について)「‥小声でボソボソと喋るんです。客は何を言っているのだろうとみを乗り出す。そのタイミングで、くすぐりをパッと入れる。すると客はどうっと受けるんです。」 「弁士が黙るということは、間を置くということである。間が長すぎると客は焦れる。『タルい』という状態になる。逆に間が短すぎると、話が慌しくなってしまう。『バタバタした感じ』に聞こえてしまうのである。 間のない喋りと間のある喋りは散文と韻文の違いである。散文は小説のように、読めば内容を全て受け取ることが出来る。自分で想像力を膨らませなくとも、内容が分かるように書くのが散文である。 良く分かる内容です。 この他、著者は、読み聞かせににおける間についても同様なことを書いており、更には、漫画におけるコマの展開のさせ方にも同様のことが言えると言っております。なるほどねぇ、といった感じです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
21.9.23 |
本能寺の変−四二七年目の真実/明智憲三郎/プレシデント社 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明智光秀という名前を聞くと、主君殺しの悪人という言葉がすぐに頭に浮かびます。 この本はそういう疑問にたって、明智光秀の子孫に当たる方が、ご先祖の汚名をすすぐべく著わされたものです。著者は、三菱電機の元社員で情報処理一筋にこられた方でして、その経歴で培った力をもって論理的な解明を試みておられます。 私の理解はつぎのようです。 天下統一を図る信長にとって、その障碍とみなされたのが家康の存在でありました。そこで信長は、光秀とともに策を弄し、本能寺に家康を招き入れ、これを暗殺することでこれを排除するという計画を策定します。私達はそんな話は全く知りませんでしたが、それもそのはず、この類の証拠は家康などによって消されてしまっており、我々の目に触れることがなかったのです。 ところが、光秀は、その実行前に家康と連絡をとり、両者が示しあわせてこの計画を、逆に信長を殺す計画に転換させたのです。 ところが、ここに誤算が生じます。それは、「中国大返し」といわれるもので、驚異のハイスピードで京都へ戻ってくるという秀吉の行動でした。秀吉は、光秀の謀反実行を知るや、予定どおりにあっという間に毛利との和睦を図り、速やかに軍兵の移動を行なうのです。 概略は以上なのですが、光秀の行為は、単にキレたからというではなく、己の一族を守らんが為という高位の精神から発したものである、ということと、信長、秀吉、家康という権力者による権力闘争の中で、結局は力及ばず斃れていったのだ、ということです。 田母神前空幕長が、日本がアメリカによってすっかり悪者にされた状況を、「歴史は勝者によって作られる」という言葉をもって適切に喝破されていますが、それと同じようなことが427年前に、日本でも行なわれていたわけです。 本書は、そういう意味で大変納得のいく好著だと思います。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
21.9.15 |
秀吉はいつ知ったか/山田風太郎/筑摩書房 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山田風太郎のエッセイ集です。 秀吉がいったい「何を」知ったのかというと、光秀が本能寺で信長を討ったことについてです。 秀吉は、猿と呼ばれ機才を利かせて立身を果たしていくのですが、この時代、それだけでは太閤と呼ばれるまでにはなるはずが無く、非常に冷酷な(といってもこの当時はほぼ当たり前の)面を併せ持っており、ここぞというときにそれを発揮させたのだ、という風に説明されています。明国征服の大野望を持ち、それを半ば実行していったほどの人間ですから、大いにあり得ると思われます。 もちろん、文献的な証拠は秀吉も残していませんし、全ては山田風太郎の推量であるという断りがつけられていますが、私も賛同したいと思いますね。また、このエッセイでも触れられていますが、矢切止夫という作家も「信長殺しは光秀ではない」という本で、事変の背後にいる秀吉を描いています。 その一方、戦国武将に関しては、このようにある種、優しい気持ちで当時の状況の掘り起しが行なわれていますが、近現代史の分野(特に、大東亜戦争における指導者レベルの軍人達)についてはおざなりになっているように思えます。この頃の軍人に対しては、いわば惻隠の情というものなしに、いきなり悪者扱いするわけですから異常だと言わねばなりません。近現代史の歴史家の方たちは、もっとしっくりと私達の腑に落ちるような書き振りをしてもらいたいものです。 さて、もう一つ、このエッセイ集には面白いことが書かれていました。 確かに、面白い例示ですが、その忠臣蔵ももう一つ踏み込むと、そのように忠臣たちによる美談とばかりも言い切れないところがあります。 後段は、山田風太郎の感想ですが、たしかに忠臣蔵の根本原因は、若い殿様がキレたことにあり、その影響を家臣がまともに受けてしまった、ということです。このあたりの受け止め方は、当時も今も変わりはないのではないでしょうか。ひょっとしたら、当時の浪士たちに、なんらかの力が加わっていたのでしょうか。例えば、仇討ちのグループに入らなければ、名実ともに立つ瀬が無くなる、というような‥。 さて、この大野九郎兵衛さん、赤穂開城に際して城にあった資金を分配するのに、身分によって差をつけるべきだと言うことを主張したそうです。身分によって奉公人の数も違うし、所帯の始末の仕方にも相違があるからというのがその論拠ですが、至極当然なことと思いますし、こういったことをはっきりと言う性格でもあったのでしょう。ところが、結果は、その意見が容れられなかったようで、浪士に加わらなかったということもあって、総すかんを食ってしまい、ついには赤穂から出奔せざるを得ない状況にまでなり、その最期は不幸なものであったようです。 大野さんの2つの意見は至極もっともだと思うのですが、現実はそれらが否定されました。逆に非道な行為をした47人は立派な義士であるとして、既に数百年が経過した現在においても賞賛されております。
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21.8.29 |
日本有事 −憲法を棄て、核武装せよ/兵頭二十八/PHP | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
著者は、次のように言います。
「現下の日本の、解け崩れんばかりの状況の原因はどこにあるか。それは、国家の指導的立場にあるものたちの、ミリタリー・リテラシーの欠如にある。そしてそれを補強し続け、あるいは更に劣化せしめている動力が、マックKEMPOH(日本国憲法)である。日本よ、せめて、核武装しようと思うくらいの根性を持て。」 軍事というのはある意味、非日常ですから、体感的に分かり難い点が確かにあります。したがってミリタリー・リテラシーはある程度専門分野の人たちに任せるとしても、ミリタリーマインド(簡単な話が、最後は腕力だ、という程度の認識)は、国民の基礎的素養として持つ必要があります。しかし、現実は、その段階にも至っていません。 このような阿呆な日本人を、狡猾で獰猛な中国人や英米人が取り囲んで冷たい目で見ている、というのが昨今の状況です。日本は、まもなく、振られた女みたいに、(と、ちょっとたとえが下品かもしれませんが)わが身の不幸を思い知り、よよとばかりに泣き崩れるのでしょう。でも、だれも助けはしない。身ぐるみ剥がれて、後ろから蹴飛ばされて、どぶの中で野たれ死ぬだけ‥。とまぁ、死んでしまわないまでも、チベットや、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)のような2等国民とされることは、間違いないでしょう。(チベットなどは、頑強に戦ったのにあの状況です。なにもしない日本は、もっと簡単にそうなるでしょうし、戦うことをしないのですから一顧だにされますまい。) 兵頭氏は、迫り来る中国の脅威を念頭において、その危険な状況を諄々と説いており、大いに納得させられます。 中国は情報戦はお手の物ですから、着々とその成果を日本国内に築いております。永田町や霞ヶ関にはそのエージェントが、うようよしており、中国の国益増進のために身を粉にして働いています。 平壌が実態では北京に対して面従腹背なのだとしても、北京はその外見的な「上下」関係を、第三国(例えば米国)に対する外交上のステイタスに転化できるのである。 そして、肝心の戦争についてですが、 さらに、 日本の核武装は、世界を不安定にするというが、 最後は、シナの北朝鮮にたいするメンタリティの大もと。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
21.8.20 |
核武装論-当たり前の話をしようではないか‐/西部邁/講談社新書 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
私は、日本核武装論者です。 「自分の国は自分たちの手で守らなければならない。守りの最後の手段は武力(物理的破壊力)である。これを全うするためには最強の武力を持たねばならない。最強の武力は核である。従って核を持たねばならない。」 武力は最後の自衛手段であると同時に平時における国際間の発言力の重みに比例するものです。まともな武力を持つかどうかで、手にできる国益の多寡には大きな差異が生じます。 このことは最貧国北朝鮮の核保有騒動で改めて分かったことだと思います。核がなければ洟もひっかけられないが、核があれば、あのアメリカだって重大な関心を持ってくれる。膝詰め交渉にも応じてくれるかもしれない。と、いうことなのです。 ただし、わが国が核保有をしようとしてもNPT(核拡散防止条約)という縛りがある。北朝鮮や支那などと違って信義の国、我が日本はそれを破ってまでも核を持とうというのは、いかがなものか‥、などと考えられています。 この本を手にしたのは、自民党の一部に核武装についての議論が、風呂の中の○のようにふわっと湧いてきたからでした。(でも、やっぱりすぐに消えました。) この本は、核武装の必要性、期待される効果、実装備にいたる工程‥などが書かれているものと期待して読み始めたのですが、そういうものではありませんでした。 核武装をするということは、いうなれば、日本家屋の我が家でライオンを番犬として飼おう、というようなことなのです。 以下、共鳴する箇所の抜書きと感想です。 「ぬちどぅ宝」という言葉が沖縄にあります。人の命こそは至上のものである、というもので軍事問題の論議を停止させるための伝家の宝刀として良く使用されているように思います。これを抜かれると、議論停止にされてしまう訳です。 <引用>86p 我々が夢想する桃源郷のような平和は、実はこの世の中に実在しません。実際の平和な状態というのは、冷酷な力のバランスのなかで存在するものなのです。それは単に「争いごとの少ない状態」でしかない、ということです。ここをしかと認識すべきです。「力」というものが係っていない、純粋無垢な平穏な状態というのは、残念ながら実存しないということなのです。 <引用>110p その前提として、「気概」というものが必要です。そうしようという「意思」といっても良いと思います。
このような考えは、これが言われた当時も今も(いやいや昔からずっと)変わらずに一貫している、と思います。それは、国益が最優先であるという原則が不滅であるからです。まして、義理も人情も感じさせないが金だけは持っているだけの日本なんて、そのうち金の切れ目が縁の切れ目になるのはミエミエなのです。捨てられてから、哀れみを求めても遅い。誰もがお可哀想にとは言ってくれるでしょうが、たぶんそれで終わりです。それと同時に日本の資産分割の相談が始まる訳です。 <引用>210p 古くから、思想家はこの世の理(ことわり)を見抜いています。過去の歴史が、それを語っているからです。 <引用>217p 日本というのは、常識のない、異常の国である。このことは、人間社会でも同じことであって、非常に分かりやすいはずなのですが、そうなっていません。私は、この主因はずばり「アメリカによる占領政策」の後遺症にあると思います。そして、副因は、この時期(含、現在)の日本人の不誠実にあると思います。
ここで非常事態条項と書いているのは「戦争条項」のことです。 そして、 本当は、相当の覚悟をしなければならないのだ、という自覚がないということではないでしょうか。
米国など、まさにそうなっています。 ■NPT(核拡散防止条約)(Wikipedia) |
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21.8.15 |
オバマの仮面を剥ぐ/浜田和幸/光文社ペーパーバックス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
私は、オバマ大統領については選挙戦のころから胡散臭いという感じを抱いていました。テレビを通じての判断でしかありませんが、言っていることは要するに"CHANGE"だけで、選挙民を扇動しているように思えたからです。 この本の目次を見るだけで、それが分かります。 そもそもの始まりは、アメリカ人の気質にあります。日本人と違い、しっかり働いてお金を稼ぎ、それを基盤に身の丈に合った生活をするということの真反対の発想をするわけです。欲しいものがあれば、後先なくローンで買ってしまう。不動産価格は右肩上がりでしたから、将来の値上がり分でなんとかなると売り手も買い手も判断して、それいけドンドンでバブルに突入して、その結果がサブプライムローン危機です。 さて、そのオバマ/アメリカの実態とは、上の目次に沿って要約すると、 ここは、日本はよっぽどしっかりしなくてはなりません。少なくとも上のような情勢認識をする必要があり、しっかりした判断をしなければなりません。と、だれに言ったら良いのか分かりませんが‥。
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21.8.10 |
選挙報道/小栗泉/中公新書 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
総選挙が公示され、我々選挙民に対して「政権選択(?)」が求められています。
見てのとおり、テレビでおちょくられたのはマケインが圧倒的に多く、9月ごろ登場したた副大統領候補のペイリンに対しては、その数字がたちまちのうちに増えています。 そしてその状況が次の調査結果から良くわかります。
A人種・収入別(数字は%)
オバマとメディアの甘言に乗せられた有権者達の姿が良く見えるではありませんか。 |
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21.8.4 |
日中戦争はドイツが仕組んだ/阿羅健一/小学館 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日中戦争(正しくは支那事変)は、基本的には日本と支那との間の戦争です。これにアメリカが援蒋ルートを通じて支那を支援したことで、間接的にアメリカとの戦争が戦われていた、という知識は持っていました。しかし、第二次大戦において同じ枢軸国であったはずのドイツが、アメリカと同じようにして蒋介石軍に積極的に関与し、日本と間接的に戦争状態にあったというのは、この本の話題が出るまで全く知りませんでした。 では、そのドイツは、どういう考えだったのか。 あと、この本では、盧溝橋から第2次上海事変に至る日本、中国、ドイツの動きを非常に上手く描いています。(53p〜)これらのことは、ここに書きしるすよりも、読んでもらうのが一番だと思います。私も、この本はもう一度読見たいと思います。 |
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21.8.1 |
自衛隊が世界一弱い38の理由/中村秀樹/文芸春秋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
著者は防大18期(小生の4期後輩です)、職種は潜水艦です。 この本の目的は、自衛隊を批判することではなく、自衛隊が十分に力を発揮し得ない(戦えない)のは何が問題で、それをどうしたらよいか、ということを明らかにし、それを世に問う、というものです。現下の国際環境を冷徹な目で(なくとも、普通に)見れば、日本は非常に危ない状況になってきています。それを最後に救うのは、あるいはそうならないようにする担保になるのは、自衛隊なのです。しかし、それが、現実問題として軍の体をなしておらず、救国のカードにはなり得ないと、著者は憂うのです。 いろいろと教えられることがありましたが、これまでにあった一つの疑問を解くことができました。それは、軍法会議、軍律法廷に関することです。 自衛隊は建前上、軍ではありませんから、軍司法がありません。憲法において司法権は最高裁判所以下の各裁判所のみに与えており、特別裁判所を認めていないからです(第76条)。こうなると、戦場で敵兵を殺害した場合、その実行者は殺人罪に問われる訳です。この1点でもう、なにをかいわんや、です。また、敵兵、テロリストや工作員の処分についても同様の状況が起こるわけです。この場合は「軍律法廷」によって裁くことになります。この辺のところは、これまで私自身も整理がつかなかったのですが、次のように説明されています。 そうなのです。 |
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