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22.3.10

日本よ戦略力を高めよ/櫻井よし子編/

 今日の国内政治情勢をみると、諸悪の根源は民主党であり、その中心に鎮座する小沢幹事長にある、といえます。日本はいま、彼によって鼻面を引き回されています。
 目を転じて国際社会を見ると、これに該当するのが、中国です。様々な問題について、陰となり陽となって常に、なんらかの形で色々な問題に介在しています。強大な力を持ち、善用すれば世界平和に向けて一歩も二歩も進むのでしょうが、残念ながらその逆の方向へ世の中を推し進めているのです。
 現下の世界の諸問題は即ち中国問題であるといえます。
 
 この本は、「日本よ、‥」という呼びかけになってはいますが、内容はまさにその中国問題が主題とされています。
 今明らかに中国は不具合な存在です。そうであれば、そういう存在であると認識するにとどまることなく、それを是正するような力を加えなければなりません。ところが、多くの国々は、あからさまにはそうすることはなく、特にわが国では逆に彼を増長させるような動きをとっております。
 民主党のトップらが、「日米中正三角形論」なるものを掲げて浮かれているのがその好例です。日米中の正しい見方は、「日米同盟」対「中国」でなければならないのであって、三角形は形成しえないのですが、実際はなんと「日中」対「米国」という姿に持って行こうと考えているのです。まさに友愛のお花畑的発想でありますが、見逃せないのはそれを具体的に推進している点です。
 
 この暁には、名実共に「中国の属国日本」ということになる訳でして、今やその方向へ着実に動いているといってよいでしょう。
<引用>
 小沢氏のみならず、鳩山氏にしても「常時駐留なき安保」が持論で「必要なときだけ基地を使わせ、それ以外は米軍に出て行ってもらいたい」と那覇で主張したこともある。こんな虫のいい主張を米国の一般市民が許すと思うのか。
‥(中略)‥
 INDEXは、アメリカに対し「平等な相互信頼関係を築く」ためにも「日本の主張を明確にします」「日米地位協定の改定を提起」するなど「在日米軍基地のありかた」を「見直す」という‥(略)‥。
 一方、中国相手には「食の安全、人権、環境、エネルギー、軍事力の透明化、東シナ海ガス油田開発等の懸案事項が横たわっています」としながら、「建設的な話し合いによる問題解決を目指します」という高校生のホームルームのような抽象論に終始している。なぜ、中国にも「日本の主張を明確にします」といえないのか?
‥(中略)‥
 マニュフェストにはINDEXでは容認していた海賊対処のための自衛隊活用を明記もしていない。マニュフェストの中にそもそも「自衛隊」という文字さえないのはどういうことか。93p
<引用終わり>

 民主党の考えとは、こういうことなのです。
 練りに練った(かどうかは疑問ですが、その)文面がこれなのですから、暗澹たる思いに駆られます。
 国家国民のことを真剣に考えていないのは明らかで、当面の自分の地位や権益をいかに守るかということしか頭にないわけです。まさに亡国の徒です。

 一方アメリカにも妙な変化があります。
 もともと、国益の追求という行為は普通の国として当然なことですが、最近はそれがゆとりのない露骨なものになってきているようです。経済の冷え込み、中東での苦戦などのために背に腹は変えられないということなのでしょう。政権が、リベラルな民主党オバマに移り、舵取りに不安が出ておりますし、クリントンら中国に近いグループが政権の中央に存在しているということで、その妙な傾向が一層強まったように思えます。
 つまり、ただでも日本は沈みかけている状況であるのに対して、日本に手を差し伸べる止め、無視をさえしようとしている、いや実際に無視していることが明らかになってきました。アメリカも、中国という軍事・経済強国の出現に対して自らの力の不足を感じているように見えます。軍事面では、決して屈していないという見方もありますが、共存という線で妥協するという着地点も考えているのではないでしょうか。

 いずれにせよ、劣化する日本国内の情勢に加えて、大変なことになってきているのは確かなことです。
<引用>
 米国防省は、2009年3月25日、好例の年次報告書『中国の軍事力』を公表した。オバマ政権下で初めてとなる今回の報告書を、ブッシュ前政権下で出されたそれまでの数年間の報告書と比較すると、アメリカの対中軍事政権政策のキーワードだった「ヘッジ」という言葉が、最も目立つ巻頭の「要約」から消えていることに気づく。
「ヘッジ」とは、中国の不透明な軍事力増強に対して「保険をかける」とか「防衛措置を講じる」といった意味で、2006年の同報告書から毎年一貫して使われてきた。
‥(中略)‥
 つまり、増強される中国の軍備が何に使われるか分からないので、「味方」ならば友好的対応をするものの「敵」となるかもしれない場合に備えてさまざまな手法を通じてアメリカは周到に準備しておくべきだという警戒心を表明していたのだ。
‥(中略)‥
 しかし、2009年の『中国の軍事力』では、ヘッジに触れた文章がなくなり、代わりに「アメリカは域内の同盟・友好国と協力して事態を見守り、政策を適宜調整する」という当たり障りのない文章が挿入されていたのである。(114p)
<引用終>
 控えめな書き方になっていますが、実際は趣旨どおりの断定が出来るのではないでしょうか。
 とにかくもう、子供との付き合いはやめよう、というのがアメリカの思いだといえるようです。勿論日本は、文化的な面や衰えたとはいえ経済的な力には侮れないものを持っています。しかし、政治力(この本で言う「戦略力」)は零に均しい、ということなのです。
 今の、鳩山(小沢)政権の様子を見ると、アメリカに対して一言も反論できないのが残念でたまりません。

22.3.5

人は見た目が9割/竹内一郎/新潮社
 この本の中では、ノンバーバルコミュニケーション(nonverbal communiaction)という言葉が何度も使用されていますが、「非言語の伝達」という意味だそうです。(バーバルという単語がピンと来ませんでしたが、調べてみると「(形容詞)言語による」という意味です。)

 非言語による伝達力の大きさというのは、私達が思っているよりも大きいようです。
 「心理学では、実は人間が伝達する情報の中で話す言葉の内容そのものが占める比率は、7%に過ぎない、という研究結果がでいる。(10p)」
 確かに、この前の腰パンのオリンピック選手のように、舌打ちしながら「反省してまーす」と言っても、その態度からは、全く反省していないことが分かるわけですから、確かに、そこには言葉以上のものがあります。
 また、このことは、携帯のメールのやり取りの際にも顕著に現れるように思います。短い言葉のやりとりですから、どうしても言い尽くせない部分が出てきます。面と向かって話しているのであれば、表情などで充分に補完できるはずの部分なのです。これを少しでも補完しようとして、絵文字が使われるのかもしれません。

 そういうことですから、自分の脳内に在る情報を相手に伝達(communiaction)する際には、顔の表情や、声の質や、身だしなみ、しぐさなどの言葉以外の93%分について特段の意識をしなければならないということになります。しかし、そういう教育は必ずしもされていない、と著者は嘆きます。というのは、そもそも我々に、7:93の比率であるなどということの認識がないわけですから、やむを得ないことなのでしょう。
 でも、考えてみれば、確かにそういうことですから、大いに注意しなければならないし、また、大いに活用しなければならない点だと思います。

 ノンバーバルコミュニケーションの一部として、「間」について興味あることが書いてありました。
 著者は、演出をするとき「一間開けてください」、「半間開けてください」ということを言うそうです。
<引用>
 台詞を観客にきちんと伝えたい場合は、その直前に一間置いて貰う。一間というのは、ゆっくり息をする時間である。役者がゆっくり息をすれば、その時間が間になり、観客は、次にどういう台詞が出てくるのだろうと気持ちを乗り出して聞きに来る。次を想像すると言い換えても良い。
 「半間おいて」というときには、一間おくと、くどすぎると思うときである。客にきちんと聞き取って欲しい台詞は、重要な台詞である。だから、あまり間を置き過ぎると、芝居がくどくなりすぎる。大切なものが多すぎると、受け手はうんざりするのである。
 大切な台詞だけをきちんと立てて他はすっと流す、その勘所が台詞術のツボである。」

 (志ん生の芸について)「‥小声でボソボソと喋るんです。客は何を言っているのだろうとみを乗り出す。そのタイミングで、くすぐりをパッと入れる。すると客はどうっと受けるんです。」
 つまるところ、間のよさで客の笑いを取るのである。喋りの上手さは、間の上手さと言い換えても良い。
 私の実感で言えば、舞台上で役者が喋っている間は、観客の意識は舞台から押されている感じになる。逆に、役者が間をとっている時間は、観客は舞台に引き寄せられる感じになる。つまり、役者と観客は舞台と客席の間で押し引きの綱引きを繰り返すことになる。
 これが、舞台と客席の「交流」である。心地よい交流を観客にさせてくれる役者が名優ということになろう。」

 「弁士が黙るということは、間を置くということである。間が長すぎると客は焦れる。『タルい』という状態になる。逆に間が短すぎると、話が慌しくなってしまう。『バタバタした感じ』に聞こえてしまうのである。

 間のない喋りと間のある喋りは散文と韻文の違いである。散文は小説のように、読めば内容を全て受け取ることが出来る。自分で想像力を膨らませなくとも、内容が分かるように書くのが散文である。
ところが韻文は、受け手の想像力によっては、その内容さえ変わることもある。
 『古池や 蛙飛び込む 水の音』
 この句に接したとき、受け手は自分の想像力を働かせなければ、鑑賞することができない。古池やの後に続く『や』は切れ字である。強意の助詞ということもできるが、我々演劇人の視点から見ると、『間をあける場所』でもある。
 『古池や』と言った後に、一間空ける。受け手は古い静かな池を想像する。次に何が起こるんだろうと期待する。受け手は俳句に積極的に参加することになる。そして芭蕉は、池に飛び込む蛙を見せてくれる。蛙が飛びこんだ後の池には、ただ静かな波紋が広がっている。
 『古池や』と切れ字がある場所で、芭蕉と受け手は交流する。そして句を読み終わったときに、芭蕉が提示した世界の広がりに共鳴し、感動を共有するのである。
 話芸で言うところの間は、俳句の切れ字のようなものである。その瞬間を受け手に想像させ、そして次の台詞を言い終わったときに、感動を共有する。
 間があることで、話し手と観客は一体になれるのである。
<引用終わり>

 良く分かる内容です。
 人前で話をするのは、苦痛(特に不得手の内容の場合)ですので、往々にして、早く終わらせてその場から逃げてしまいたい、という気持ちが働きます。そのために、早口で喋ってしまおうということになり、いかにもバタバタした雰囲気になってしまう訳です。と同時に、聞き手の理解が追いつかなくなったり、興味を失わせたり、不信を抱かせたりすることになってしまいます。
 身に覚えのあることです。

 この他、著者は、読み聞かせににおける間についても同様なことを書いており、更には、漫画におけるコマの展開のさせ方にも同様のことが言えると言っております。なるほどねぇ、といった感じです。
 終章において、役者が衣装をつけると役になりきる度合いが高くなるということを例証にして、形から入ることの重要性を述べています。囚人服や警官の制服を身に着けさせることで、何も言わなくともそういう雰囲気がすぐにでてくる、という訳です。「形から入れ」という趣旨の格言があるように、大事な観点であるように思います。
 見た目の9割で見切られるということと、見た目で自分も変わるということだということでしょうか。
 面白い本でした。

21.9.23

本能寺の変−四二七年目の真実/明智憲三郎/プレシデント社

 明智光秀という名前を聞くと、主君殺しの悪人という言葉がすぐに頭に浮かびます。
 織田信長とうまく行かず、最後はキレて、まるで思いつきのようにして主君に対して謀反を起こした。ある意味思慮の足りない人物である、という見方が定着しています。
 しかし、少し考えてみれば、当時、多くの家臣と領民を抱える最高責任者が頭に来たというだけで、軽々とそんなことをしたのだろうか、織田信長という難しい上司に仕え、それなりの地位を得るという見識ある人がそういう短慮なことをしたのだろうか、という疑問が残ります。(こういう意味では忠臣蔵の浅野匠頭も同様でして、こちらについても別途関連の本をその目で読んでみたいと思っています。)

 この本はそういう疑問にたって、明智光秀の子孫に当たる方が、ご先祖の汚名をすすぐべく著わされたものです。著者は、三菱電機の元社員で情報処理一筋にこられた方でして、その経歴で培った力をもって論理的な解明を試みておられます。
 この本を書くに当たっての調査における基本姿勢を、著者は「歴史捜査」という言葉で言い表しておられますが、まさにその言葉どおり、数々の証拠品(書籍、書簡など)を吟味して、当時の時代背景、関係者の相関、当事者達の心理などを分かりやすく解きほぐしておられます。一言でいって、(一部疑問が残る点がありますが、骨子としては)すっかり納得してしまいました。

 私の理解はつぎのようです。
 まず理解しておくべき重要なポイントは、当時、アイデンティティとしての「氏族」という意識が大変強かったということでして、光秀にとってそれは「土岐一族」でした。
 土岐一族は、かって室町時代には隆盛を誇っていたのですが、織田の時代においては、それが衰退しており勢力は各地に分散されている状態でありました。そういうなかで、光秀はしかるべき出世もしており、その土岐一族再建の期待の星という位置づけとして一族から密かに嘱望されていたのです。
 ところが、信長は、そういう状況は知らずに、自らの勢力拡張を図るその過程で、この土岐一族の再興の火を消すような体制を敷こうとしました。
 光秀は、まず、ここにおいて氏族の長の責任として、これをなんとかしなければならない、という気持ちになったようです。単に、個人的にキレたのではなく、土岐一族という全体のためになんとかしようという動機がそこにあったということなのです。
 こういう背景の下、主要登場人物である、信長、光秀、そして秀吉、更にはなんと家康が絡み合って、本能寺の変に向けてのパフォーマンスを繰り広げていきます。
 
 この著作では、逐一証拠を掲げながら「歴史捜査」が進むのですが、ここではその詳細は一切省略して著者の結論だけをなぞると次のようになります。

 天下統一を図る信長にとって、その障碍とみなされたのが家康の存在でありました。そこで信長は、光秀とともに策を弄し、本能寺に家康を招き入れ、これを暗殺することでこれを排除するという計画を策定します。私達はそんな話は全く知りませんでしたが、それもそのはず、この類の証拠は家康などによって消されてしまっており、我々の目に触れることがなかったのです。
 その計画では、家康に対するカモフラージュとして、当時中国攻め(高松城水攻め)を行なっていた秀吉の援護をさせるという名目で、光秀に出兵の準備をさせるという欺瞞が行われ、家康が本能寺に入ったところで攻撃をかけ、殺す、というものになっておりました。

 ところが、光秀は、その実行前に家康と連絡をとり、両者が示しあわせてこの計画を、逆に信長を殺す計画に転換させたのです。
 一方、秀吉は、毛利との戦いの真っ只中にあり、その前哨である高松城を攻略中でした。秀吉は、既にこの光秀らの動きを知っており、その信長暗殺計画が発動される時期を待っていたようです。このために、高松城を一気に攻め落とすというのではなく、水攻め(兵糧攻め)とういう作戦をとり、かつ毛利方とは和睦の下調整を進めていたのです。つまり、タイミングを計っていました。
 信長が本能寺に入り、家康が堺に入ったときに光秀は本能寺攻撃を開始します。そして、それを成し遂げた直後、主要武将及び朝廷との調整に入り、朝廷からはお墨付きを得るという段階まで至ります。

 ところが、ここに誤算が生じます。それは、「中国大返し」といわれるもので、驚異のハイスピードで京都へ戻ってくるという秀吉の行動でした。秀吉は、光秀の謀反実行を知るや、予定どおりにあっという間に毛利との和睦を図り、速やかに軍兵の移動を行なうのです。
 そして、光秀軍との山崎の合戦。光秀は壊滅させられます。
 家康は、不利を悟り、「苦難の」と形容される「伊賀越え」をして三河に戻ります。
 そうこうして、秀吉の時代となり、家康がそれを引継ぐのですが、両者は示し合わせて、以上の経緯を歴史から抹消してしまい、更には、光秀と信長の不仲を強調し悪人とする歴史の捏造をするのです。本能寺にかかわる歴史書の一つとして、秀吉の時代に作られた「惟任(これとう)退治記」(惟任=光秀)というのが、それです。

 概略は以上なのですが、光秀の行為は、単にキレたからというではなく、己の一族を守らんが為という高位の精神から発したものである、ということと、信長、秀吉、家康という権力者による権力闘争の中で、結局は力及ばず斃れていったのだ、ということです。
 これらのことが、綿密な「歴史捜査」によって明らかにされております。

 田母神前空幕長が、日本がアメリカによってすっかり悪者にされた状況を、「歴史は勝者によって作られる」という言葉をもって適切に喝破されていますが、それと同じようなことが427年前に、日本でも行なわれていたわけです。
 力の伴わない正義は正義に値しないといわれますが、まさにそうだと思います。
 また、真実というものは、神のみが知るものであり、我々人間は永久に触れることのできないものですが、出来るだけ納得のいく、確からしいものに触れる努力をしたいものだと思います。

 本書は、そういう意味で大変納得のいく好著だと思います。
 著者は、これが初めての著作だそうですが、見事にご先祖の汚名をすすがれたと思います。

21.9.15

秀吉はいつ知ったか/山田風太郎/筑摩書房

 山田風太郎のエッセイ集です。
 標題に惹かれて読んでみました。
 今回、ここで取り上げるのは「秀吉のこと」「忠臣蔵のこと」です。

 秀吉がいったい「何を」知ったのかというと、光秀が本能寺で信長を討ったことについてです。
 つまり、秀吉は、実は信長殺害に関してなんらかの関与をしていて、したがってそのことを容易に知り得る立場にあり、問題はそれを「いつ」知り得るか、ということであったのではないか、とい疑問が投げかけられています。少なくとも、その発生を非常に高い確率で予測していたのではないかということなのです。
 当時、秀吉は高松城の水攻め作戦を遂行中でして、主君の急を知って直ちに山崎(の合戦)にとって返した、ということになっていますが、このエッセイでは、時間経過や彼の行動などの状況証拠からすると、全てプログラミングされているようだということです。

 秀吉は、猿と呼ばれ機才を利かせて立身を果たしていくのですが、この時代、それだけでは太閤と呼ばれるまでにはなるはずが無く、非常に冷酷な(といってもこの当時はほぼ当たり前の)面を併せ持っており、ここぞというときにそれを発揮させたのだ、という風に説明されています。明国征服の大野望を持ち、それを半ば実行していったほどの人間ですから、大いにあり得ると思われます。

 もちろん、文献的な証拠は秀吉も残していませんし、全ては山田風太郎の推量であるという断りがつけられていますが、私も賛同したいと思いますね。また、このエッセイでも触れられていますが、矢切止夫という作家も「信長殺しは光秀ではない」という本で、事変の背後にいる秀吉を描いています。
 歴史についての、こういう推理小説的な見方というのは大変面白いと思います。当時、彼は何を考えていたのだろうか、というところを、状況証拠を元に推理していく訳ですからね。

 その一方、戦国武将に関しては、このようにある種、優しい気持ちで当時の状況の掘り起しが行なわれていますが、近現代史の分野(特に、大東亜戦争における指導者レベルの軍人達)についてはおざなりになっているように思えます。この頃の軍人に対しては、いわば惻隠の情というものなしに、いきなり悪者扱いするわけですから異常だと言わねばなりません。近現代史の歴史家の方たちは、もっとしっくりと私達の腑に落ちるような書き振りをしてもらいたいものです。

 さて、もう一つ、このエッセイ集には面白いことが書かれていました。
 それは、忠臣蔵に関することです。(こちらも、山田風太郎は、私たちの腑に落ちるような書き振りをしてくれています。)
 その前に、このあいだテレビを見ていましたら、田母神前空幕長がある番組にでていまして、大東亜戦争での日本の悪行を言い募るある出演者に対して、次のように言っていました。
 「忠臣蔵で、討ち入りの場面だけ取り上げると、47人の無頼の徒がか弱い老人をなぶり殺しにしているとしか見えない。ここは当然、そこに至る経緯というものを知った上で、全体としての判断をすべきである。」つまり、大東亜戦争を自虐的、部分的にのみ捉えては、正しい評価は出来ない。あの戦争は、アメリカという敵国及び関連諸外国との関係において把握すべきものである、ということです。

 確かに、面白い例示ですが、その忠臣蔵ももう一つ踏み込むと、そのように忠臣たちによる美談とばかりも言い切れないところがあります。
 浅野の家臣に大野九郎兵衛という六百五十石(序列は上位から四、五位)という人がいて、彼はこの四十七士に加わっていません。山田風太郎は、この大野氏の心中を次のように推量します。
 「彼に言わせれば、復讐などまったく筋の通らない狂気の論理であったにちがいない。殿様が切腹を申し付けられたの痛恨の極みだが、しかし殿中で刃傷をしかけたのは殿様であって、吉良の方は無抵抗の被害者である。おいたわしいが殿様の切腹も止むを得ないことであって、しかもそれは吉良の意思とは無関係の幕府の幕法による処罰である。それを吉良に向かって恨みをかけるなど、公平に見て外道の逆恨み、これでは敵討ちにもならぬではないか。」‥「発端となった吉良の物欲、内匠頭のカンシャク、いずれもたしたことはなく、特に後者はまったく「アタマに来た」だけの、大名にはあるまじき逆上的行為としかない。」

 後段は、山田風太郎の感想ですが、たしかに忠臣蔵の根本原因は、若い殿様がキレたことにあり、その影響を家臣がまともに受けてしまった、ということです。このあたりの受け止め方は、当時も今も変わりはないのではないでしょうか。ひょっとしたら、当時の浪士たちに、なんらかの力が加わっていたのでしょうか。例えば、仇討ちのグループに入らなければ、名実ともに立つ瀬が無くなる、というような‥。

 さて、この大野九郎兵衛さん、赤穂開城に際して城にあった資金を分配するのに、身分によって差をつけるべきだと言うことを主張したそうです。身分によって奉公人の数も違うし、所帯の始末の仕方にも相違があるからというのがその論拠ですが、至極当然なことと思いますし、こういったことをはっきりと言う性格でもあったのでしょう。ところが、結果は、その意見が容れられなかったようで、浪士に加わらなかったということもあって、総すかんを食ってしまい、ついには赤穂から出奔せざるを得ない状況にまでなり、その最期は不幸なものであったようです。

 大野さんの2つの意見は至極もっともだと思うのですが、現実はそれらが否定されました。逆に非道な行為をした47人は立派な義士であるとして、既に数百年が経過した現在においても賞賛されております。
 討ち入りというのは、言葉は悪いですが、いうなれば逆恨みによる押し込み強盗のようなものですから、これはなんかおかしいですねぇ。
 
 そして、山田風太郎は、このことが(悪しき)先例となってしまい、桜田門外の変を起こした水戸浪士や5.15や2.26を起こした青年将校達の脳裡に少なからぬ影響を与えてはいないか、と言っています。
 確かに、ありそうです。
 踏み違えた正義の観念といいますか、このあたりについてのもともと日本人の価値基準が少し偏位しているのでしょうか、それとも討ち入りの時以来捻じ曲がってしまったのでしょうか、面白い命題です。
 さらに、大石内蔵助や当時の幕府首脳はどのように考えていたのか、こういう観点で関連の本をもう少し読んでみたいと思っています。


21.8.29

日本有事 −憲法を棄て、核武装せよ/兵頭二十八/PHP
 著者は、次のように言います。

 「現下の日本の、解け崩れんばかりの状況の原因はどこにあるか。それは、国家の指導的立場にあるものたちの、ミリタリー・リテラシーの欠如にある。そしてそれを補強し続け、あるいは更に劣化せしめている動力が、マックKEMPOH(日本国憲法)である。日本よ、せめて、核武装しようと思うくらいの根性を持て。」

 いかなる分野にせよ「国家」の指導的立場に立つものは、軍事センスを持つ必要があります。これは、諸外国の状況を見ると良く分かります。かれらは軍の出身者であったり、そうでなければ軍との強い結びつきを保とうとしております。国と国とがせめぎあうというのが国際社会の基本構造であることは疑いのない事実である訳ですから、こういう中で生き抜くためには、「力(軍事力)」を持つことが最後の後ろ盾として絶対不可欠なのです。

 ところが、日本人という、絶滅危惧種に分類されつつある我が国民だけがその感覚が極めて薄いのです。いまや、自分の周りのどこを見回しても、日本人全体がほぼそんな状態ですから、この辺の機微がなかなか分からないのです。なんとなく平和な状態が未来永劫に続くような気分で居ます。そして、更には、その機微を分からないようにさせる仕掛けとしてのマックKEMPOHが不磨の大典として大切にされている。
「平和憲法があれば平和でいられる、という妄想」が、これです。

 軍事というのはある意味、非日常ですから、体感的に分かり難い点が確かにあります。したがってミリタリー・リテラシーはある程度専門分野の人たちに任せるとしても、ミリタリーマインド(簡単な話が、最後は腕力だ、という程度の認識)は、国民の基礎的素養として持つ必要があります。しかし、現実は、その段階にも至っていません。
 よく言えば真っ白な状態。普通にいえば、この分野については白痴の状態な訳です。

 このような阿呆な日本人を、狡猾で獰猛な中国人や英米人が取り囲んで冷たい目で見ている、というのが昨今の状況です。日本は、まもなく、振られた女みたいに、(と、ちょっとたとえが下品かもしれませんが)わが身の不幸を思い知り、よよとばかりに泣き崩れるのでしょう。でも、だれも助けはしない。身ぐるみ剥がれて、後ろから蹴飛ばされて、どぶの中で野たれ死ぬだけ‥。とまぁ、死んでしまわないまでも、チベットや、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)のような2等国民とされることは、間違いないでしょう。(チベットなどは、頑強に戦ったのにあの状況です。なにもしない日本は、もっと簡単にそうなるでしょうし、戦うことをしないのですから一顧だにされますまい。)

 兵頭氏は、迫り来る中国の脅威を念頭において、その危険な状況を諄々と説いており、大いに納得させられます。

 中国は情報戦はお手の物ですから、着々とその成果を日本国内に築いております。永田町や霞ヶ関にはそのエージェントが、うようよしており、中国の国益増進のために身を粉にして働いています。

 それを見ているアメリカは、
<引用>41p
 ここから米国要人の「侮日」は本格化した。
 外交辞令では日本を「同盟国」と持ち上げるが、それはあくまでリップサービスで、こころの中では、「ほっておくとシナのエージェントを買って出る、『自由』に価値を認めない奴隷たち」と考えるようにもなった。
マックKEMPOHを50年も廃棄できないのは、もともと根性が奴隷だからか。だったらそれにふさわしく扱ってやればいいだろう。米軍基地のためにもっとカネを出させよう。米国経済のために大蔵省を奉仕させよう‥。
他方では、長期的な日本の政界の改造も計画されることになる。同盟国ならそんなことはしないのだが、戦前のフィリッピン並みの属国と考えてよいのなら、迷うことはない。世界第2のGNPがシナの手にすっかり取り込まれてしまえば、アメリカの国益に大いに反するのだから‥。
<引用終わり>

 ということなんですね。
 程度の差こそあれ、これが基本的スタンスであることは間違いありません。日本は、このことを承知した上で、上手なお付き合いをしなければならないのですが、そのためには、きちんとした武力を持ち、そしてそれをきちんと行使する意思と能力を持たなければ、大人の付き合いなどできないわけです。
上に、かぎカッコつきで『自由』と書いてありますが、その自由とは次のようなことです。

<引用>
 「市民政府論」でジョン・ロックは、「自由」を一から説明しようとしている。
 まず人は誰しも、自分の身体を有している。この所有権が自衛権のもとである。

 旧ローマ帝国の内の、城壁でぐるりと囲まれた、政治的に独立した市民都市。その成員市民の都市行政への参政権は、阻止防衛のための軍事従事義務が前提であった。これぞロックの念頭する「市民」である。市民社会は、このような武侠市民の間で自由が互いに存在する平和状態である。
 もし市民の家に強盗が入ってきたなら、市民はその強盗を殺してよい。なぜなら強盗は、その市民の身体の所有権(=生命)を奪うかもしれない。命を奪われた後で裁判所に訴えようとしても、もう遅い。
 ‥(ただし、単なるコソ泥は、後で盗品を取り返せるのだから殺してはならない。)‥
 家に押し入ってきた強盗を殺すという自衛は、自然法の権利であるばかりでなく、おそらく義務なのだ。すなわち市民が野獣を殺すことで、自由と平和は実現する。
<引用終わり>

 アメリカの要人はロックを引用して、自由を語れるが、日本の要人はマックKEMPOHに基づき、殺し(せ)ませんと答える。これは自由放棄に他ならない。‥と続きます。

 「日中の軋轢が戦争にまで発展するか」という命題に対して、支那人の考え方を元にして、面白い見方が示されています。
<引用>24p
 シナ人の世界では「対等の他者」が存在する場所はない。義侠小説のイデアの世界ではそれはある。しかし、リアル世界ではありえない。そこにもし、男もしくは女がいれば、必ずや、どちらかは上となり、どちらかは下とならねばならぬのだ。
 これがシナの伝統的政治文化であって、いうまでもなくそれは「反近代」的だ。
 近代的世界では、全ての個人は基本的に対等(「天は人の上に‥」)と考えられる。
(しかし)シナ人(と朝鮮人)は、そんなことは胆の中では絶対に認めない(リップサービスでは、いくらでも近代的な外交辞令を吐く。)

 近代人の人生の目的が自己実現だとしたら、反近代人たるシナ人の人生の目的は、「全ての他者の支配」だ。ただし、その支配は、「面従腹背」の外形的なものにすぎなくても構わない。ここが単純な日本人には最も分かり難いところかもしれない。

 平壌が実態では北京に対して面従腹背なのだとしても、北京はその外見的な「上下」関係を、第三国(例えば米国)に対する外交上のステイタスに転化できるのである。
 「我々は金正日を操れます。我々に任せてください」と米国に向かっていえることは、まことに価値がある−とシナ人は考えるのだ。それは、可能性ではあっても、現実的ではなく、ありていは「ウソ」である。だが、ウソでよいのだ。
 米国が「なるほどシナは頼りになるな、ありがたい」と一時的にでも思ってくれて、「では北朝鮮のことはお任せする」と一回でも返事をすれば、そこで、シナ人は米国と「上下」の関係を実現したことになるからである。シナは、その外見的名米国との上下関係を、また他の第三国(たとえばロシアや日本)に誇示できる。そうできることがシナ人にはとても嬉しいのだ。
そうやって米国から庇護してやった北朝鮮が、やがて核武装して北京をミサイルで脅かせるようになったら、どうするのか?−なんてことは、シナ人は一切考えない。「庇護してやった」=「シナが北朝鮮の上であるという構図ができた」。これが彼らの人生では大事なことの全てだからだ。
つまり支那の地理及び歴史では、「平時」から無秩序・無法状態なのは当たり前で、「法秩序に頼る」という考え方は、上下共にレスペクトされなかったし、いまも、将来も、されないのである。
 ヤクザのボスとしても、「庇護してやった目下のチンピラから射殺される可能性」など心配していたら、1日も暮らしてはいかれない。それよりも「より多くの他者から、自分が目上だと思われる」ことに精を出しておいたほうが、「安全、安価、有利」に権力を維持できるのだと、3000年間、経験的に合点をしてきた。だから、いかにも危なそうなチンピラがやってきて「手下になりやすからハジキをくだせぇ」と言ってきたら、持たせて「親分株」を買う。
この癖は100年や200年では改められない。
<引用終わり>

 要するに、価値観が全然違う。
 そういう人種であるということを、顔つきその他に惑わされずに、まずしっかりと腑に落とすことが何よりも大事だということです。

 そして、肝心の戦争についてですが、
<引用>92p
 1979年に大軍をもってベトナムに侵略したシナは、その行為を「懲罰」と唱え、「戦争」とは称しなかった。「戦争」と呼ぶことが不利だと思えば、シナ人は、どんな大戦争のことも「戦争」とは呼ばない。だから、日支戦争はシナ人にとっては、永久に起きない。東京や大阪や長崎に水爆を落としても、シナ人にとって、それは戦争ではないのだ。
 シナ人は近隣諸国を、戦争する相手だとは見なさない。支配し、自分のために利用するのが当然の僕だと思っている。戦争を宣言するということは、相手が自分と対等の強さを持っていることを意味するけれども、シナ人にとって、隣国人は決して対等の他者ではない。だから、「日支戦争」など永久に起こらない。
<引用終わり>

 さらに、
<引用>93p
 シナ人は、相手国が軍事的にシナより強い場合だけ、その言い分に耳を傾ける。現在、日本のGDPは米国に次ぐ世界第2位である。このGDPのわずか3%を軍事に割いただけで、日本は核戦力でシナを凌駕することができる。3%というのは世界の平均だ。それだけ分母が巨大なのだ。
シナは、こうなることを恐れ続けてきた。そこで田中角栄内閣に強く工作して、「1%未満」というだれのためにもならぬ政府方針を内外に向かって公言させることに成功した。経済先進国では賃金水準も当然に高いのであるから、その予算総枠で日本が新たに核武装する余裕もなくなった。

 平時と有事、戦時と無事を分けて考えるのは、第一次大戦以前までの欧米の国際政治観である。シナ人だけは、はるか昔から、宣伝工作こそ最上の政治でありまた戦争術であることをよく知っていた。日本の政・官・財・大学・マスコミの要人をあの手この手で篭絡し、日本に世界平均の防衛努力をさせないようにするという「戦争」を、シナ人は1950年代から日本に仕掛け続けている。
<引用終わり>

 と、こうして、彼は戦争を継続している、のに、一方の日本はそれに全く気がついていない訳です。
 目に見えない、弾が飛ぶこともない戦争(情報戦)が、今、進行中なのです。そして、軍配は中国のほうに上がりそうになっている‥。

 日本の核武装は、世界を不安定にするというが、
<引用>85p
 日本が核武装すれば世界は不安定化するのだろうか?
 話しは全く逆である。
 公平でしかも安定した世界は、各国がそのGNPに応じて重武装することで、実現に近づく。
 なぜならGNPが大きいということは、その国民が世界の秩序化・無秩序化に関して、それだけ大きな影響を現に及ぼしているということだ。
小さな商人が「約束違反」をしても、市場秩序は大きく乱されない。しかし大きな商人が「約束違反」をすれば、周囲の商人の近代的モラルも崩壊するだろう。
 そうなると個人も国家も法律で守られないことになり、強いものが弱いものを支配するだけの、近代以前の世界に戻ってしまう。そこには自由な社会や、個人の実現はあり得ない。
 商人は、「約束違反」を他者から迫られる場合もあるだろう。違法な攻撃を受けることもある。そのとき、身代に応じた護身力や反撃力、報復制裁力を備えていなかったら、結局、約束違反がまかり通る世界に近づいてしまうだろう。
 世界第2のGNPをコンスタントに産出していると認められている日本国は、GNP第3位以下の国々よりも、核武装する責任がある。なぜなら、よりGNPの小さい国から核武力を背景にしておびやかされるや、日本はその巨大な経済力を、自由な社会のためではなく、不法な脅迫者のために差し出さざるを得なくなるからだ。

 大金を抱えていながら軽武装であるために、日本は国政レベルにまで間接侵略工作を受けてしまうのである。
<引用終わり>

 軍事力と経済力とを比べれば、世界に対する影響力としては前者が決定的な力となり得るものではありますが、経済力も相応の大きさを持っています。しかし、経済力には、一定の秩序が保たれているという条件が必要です。弱肉強食のジャングルの中で、野獣たちの餌食になりやすい「富」を適正に運用できるためには、それなりの見識はもとよりそれを実行し得る力がいる、ということです。力のない正義は正義たり得ないのです。

 最後は、シナの北朝鮮にたいするメンタリティの大もと。
<引用>135pシナの北朝鮮への貸し
 北朝鮮は、文字通りシナ人の血の海の上に存続が可能になった。1951から53年まで、米軍と戦争した北朝鮮の軍隊はなく、いたのはシナ兵ばかりなのだ。この事実を中共だけはどうして忘れることができようか。(一説70万人)
<引用終わり>

 6者協議における北朝鮮の横暴ぶりに対して、中国の制御はほとんど効いていません。やくざの親分が一人の手下には匕首(あいくち)だけを持たせていたのですが、ある日核ミサイルを持ってしまって、親分の言うことを聞かなくなってしまった、ということです。親分の恩義などは、屁とも思っていないのでしょう。
 我々も、相手を良く見てお付き合いをしないとなりません。

21.8.20

核武装論-当たり前の話をしようではないか‐/西部邁/講談社新書
 私は、日本核武装論者です。
 「自分の国は自分たちの手で守らなければならない。守りの最後の手段は武力(物理的破壊力)である。これを全うするためには最強の武力を持たねばならない。最強の武力は核である。従って核を持たねばならない。」

 武力は最後の自衛手段であると同時に平時における国際間の発言力の重みに比例するものです。まともな武力を持つかどうかで、手にできる国益の多寡には大きな差異が生じます。
 このことは最貧国北朝鮮の核保有騒動で改めて分かったことだと思います。核がなければ洟もひっかけられないが、核があれば、あのアメリカだって重大な関心を持ってくれる。膝詰め交渉にも応じてくれるかもしれない。と、いうことなのです。

 ただし、わが国が核保有をしようとしてもNPT(核拡散防止条約)という縛りがある。北朝鮮や支那などと違って信義の国、我が日本はそれを破ってまでも核を持とうというのは、いかがなものか‥、などと考えられています。
 ここが、やはり今の日本の情勢判断力、決断力の限界なのでしょう。
 でも、NPTといったって、要は核保有クラブの既得権益を維持しようというだけのもの。政治的な判断で脱退したって良いし、法的にも可能です(第10条 各締約国は‥異常な事態が自国の至高の利益を危うくしていると認める場合には、その主権を行使してこの条約から脱退する権利を有する)。
 しかし、日本にはそこまでの信念も度胸もない、ということなのです、結局は。

 この本を手にしたのは、自民党の一部に核武装についての議論が、風呂の中の○のようにふわっと湧いてきたからでした。(でも、やっぱりすぐに消えました。)
核武装の必要性については一応の理解がされても、その実行段階についてはあれこれ論議がされますが、私はこう考えます。
 確かに、現状、実際に装備することは問題が多くハードルが高いので、当面「『核兵器開発計画書』の作成をのみやる、というのが最も実際的で実効的」と考えるものです。核武装の一歩手前でフリーズするのです。これはNPTでいう「核兵器の製造、取得の禁止」に該当しません。
 いろいろな講釈が述べられるでしょうが、こういえば良いと思います。即ち、
「北朝鮮の核開発状況を勘案し、その対応としては非常につつましいものではあるが、現状できる限りのことをやらせていただくだけのことである。当然今後の情勢如何では、この計画に実行を伴わせることを考えなければならないかもしれない」、と。
若干の凄みを利かせながら、談話として発表すれば効果は非常に高いと思います。
 でも、たぶん、これも出来ないでしょう。
 そう、この本が言いたいこともそういうことなのです。

 この本は、核武装の必要性、期待される効果、実装備にいたる工程‥などが書かれているものと期待して読み始めたのですが、そういうものではありませんでした。
 要は、
「日本がそんな論議をするのはおこがましい。なんの覚悟も無いのに、この大怪物である核を制御することなんかできるわけが無い。」
 というようなことであって、論争以前の問題だ、ということなのです。
 納得しました。

 核武装をするということは、いうなれば、日本家屋の我が家でライオンを番犬として飼おう、というようなことなのです。
 アメリカを始め列国は、広い敷地の中に、頑丈な檻を作り必要な調教師や豊富な飼料を与えるなどして、この獰猛なライオンを制御しながら飼っています。家族たちもメリット・ディメリットを納得しております。また、あの北朝鮮では、自宅の塀も倒れかかった状況で、鎖もボロボロだし、檻も破れかけているのに飼っております。おまけに、飼い主も飼育係もがヤクザそのものですから危なくってしょうがありません。いや、実は、北朝鮮だけでなくアメリカを始めとする列国も元を正せばヤクザみたいなものですから、我が家の周辺は、いつこのライオンたちが暴れこんでくるかもしれないようなそんな状況なのです。
 これはもう、我が家もライオンを飼わなければなりますまい。
 たしかに日本にはその必要性も資格もある。製造する能力もある。しかし、猛獣を飼うという困難を乗り越えながらでも自衛のために踏ん張るという覚悟、あるいはそれを感得する能力がない、と著者は言います。
 たしかに、一言で言えば平和ボケ、周りの状況が全く分からない、分かろうとしない状態なのですから、そのとおりです。バカは死ななきゃ直らない、といいますが、死なないまでも相当の痛い目に合わなければならないということでしょう。
 まもなく行なわれる総選挙で、自民党から民主党への政権交代が現実味を帯びてきましたが、これも同じことでして、後でまたきっと臍をかむ思いをするのが分かっているのですが、それを防止することができない。残念なことです。結局、我々日本国民は、国際政治に至る前の国内政治すら語る資格のないレベルなのだ、ということのように見えます。本当に、残念なことです。

 以下、共鳴する箇所の抜書きと感想です。
<引用>82p
「生命最優先」が「核」への恐怖をもたらす
「生命以上の価値はないのか」、それが「市ヶ谷自衛隊バルコニー」で割腹自殺した三島由紀夫の、日本の「戦後」にたいする抗議の言葉でした。しかしその抗議を心底から受け止めた日本人は、それから累計しても、一万人もおりますまい。人間の生命を諸価値の最高位に置くという考え方が、信念というよりもむしろ単なる風習として、戦後文化に定着してしまったかのようです。
 ここでは解説するのをさけますが、生命はたしかに価値です。「命あっての物種」とか「死んで花実が咲くものか」といったような言い伝えが、生命が価値であることを良く示しています。しかしそれは、あくまで、「手段的」な価値に過ぎません。一般の動植物のことはいざ知らず、精神を有する生き物としての人間は「目的的」に生きます。つまり目的を意識にのぼらせて、その目的に役立つ手段の一つとしておのれの生命を配置する動物なのです。そういう精神のはたらきを「最高の霊長」として褒め称える気は私にはありませんが、良かれ悪しかれ、人間とはそういう生きものなのです。
 生命という手段を第一義の価値にしてしまったら、生の目的が第二義となり、結果、「安全と生存」を確保するために「自尊と自立」を捨ててかかることになります。ニヒリズム(虚無主義)にもいろいろな種類がありますが、この生命第一主義は、人間の精神に対する本格的な関心を最初から放擲しています。その意味で最劣等のニヒリズムといってよいでしょう。

 こうした「生命優先主義」は「価値否定の価値」とでもよぶべきもので、そんな代物が癌細胞のごとく国民精神の深層で繁殖している訳です。したがって「核」という生命の大量殺傷を可能とするような兵器に対しては、非人道的兵器のレッテルを張り、あとは核恐怖におののくばかりとなるほかないのです。こうした傾向が現代世界全体に広がっているとはいえ、この列島において「生命最優先」と「核恐怖」のつながりがことのほか目だって強いのは疑いありません。

 従って、核抑止とは「核武装による核戦争の防止」のことなのだ、という素朴な話の筋道を確認することすらあたわず、の顛末になっています。
<引用終わり>

 「ぬちどぅ宝」という言葉が沖縄にあります。人の命こそは至上のものである、というもので軍事問題の論議を停止させるための伝家の宝刀として良く使用されているように思います。これを抜かれると、議論停止にされてしまう訳です。
 命は確かに宝ですが、ひとつの宝に過ぎない。
 たとえば、川におぼれた我が息子を助けるために川に飛び込んで、自分の命を捨ててしまった母親の、その行為はどうなんでしょうか。バカな行為であるとか、犬死などという人はおりますまい。
 特攻隊の存在を思えば、「ぬちどぅ宝」とはいえません。もっとも、この考えに立つ人は、この母親も特攻隊も犬死だというのでしょう。また、こういう考えの人たちが国民の多くを占めているのも間違いのないことで、大変残念なことです。

<引用>86p
 「話しがここまでくると、「平和」のもともとの意味についても言及しておいたほうが良いでしょう。つまりピースの原義は「パクス」であり、それは−「パクト」(協定)とほぼ同義なのですから−「強国が協定によって弱小諸国を押さえ込むことの結果としての、大きな戦争がない状態」をさすのです。これでなぜ、パクス・ロマーナ(ローマの平和)とかパクス・アメリカーナ(米国の平和)とかいわれるのか、おわかりでしょう。要するに平和とは「平定」のことだったのです。
 試みにパクス・ロマーナあるいはローマン・ピースに辞書でどんな追加的な説明が施されているか調べてみましょう。その第2義は「強国が弱国に押し付ける平和」であり、その第三義は「弱国からの敵意の潜む不安な平和」なのです。強国側からいえば、かってチャーチルが言ったように、「平和は戦いとるものだ」ということになりましょう。しかしそれは、弱国の側かわみると、「押しつけられた平和」でしかないでしょう。
<引用終わり>

 我々が夢想する桃源郷のような平和は、実はこの世の中に実在しません。実際の平和な状態というのは、冷酷な力のバランスのなかで存在するものなのです。それは単に「争いごとの少ない状態」でしかない、ということです。ここをしかと認識すべきです。「力」というものが係っていない、純粋無垢な平穏な状態というのは、残念ながら実存しないということなのです。
 自由というものがある種の制約の中で始めて認識できるものだ、ということに似ています。

<引用>110p
 自主防衛の問題は「日米同盟」とやらへの取り組み方にかかわっております。つまり、自主防衛には二種類あって、一つは、日米安保条約を破棄する方向を目指すもので、もう被採る葉その条約においていわゆるイークォル・パートナーシップ(対等提携)を実現させるよう努めるという方向のものです。

 私が言っているのは、今からでも遅くはないと構えて、時間をかけて対等提携に近づけ、というだけのことです。とりわけ、核武装は、その兵器がWMD(大量破壊兵器)であるおかけで対等防衛への近道であるという事実は、十分な考慮に値します。たとえ通常兵器の面で大きな遅れをとっていても、「核」が‥何十発かあれば、またそれにふさわしい「基地」や「軍艦」が準備されるなら、対等防衛に早く近づけるのです。
<引用終わり>

 その前提として、「気概」というものが必要です。そうしようという「意思」といっても良いと思います。
 日本は、図体だけは大きい幼児みたいなものです。マッカーサーは終戦直後の日本を評して「12歳の子供」と言いましたが、いまだにそのレベルを超えていません。
対等に近づこうという発想もなければ、核というものは善悪の2面性を持っているのだ、などという大人達のものの見方など出来ないわけです。
 どうすればよいか。
 子供な訳ですから「教育」しかない、と思います。


<引用>アメリカの日本に対する見方110p、112p
 カーター政権時に大統領補佐官(安保問題)であったブレジンスキーが日本のことを「アメリカのプロテクトレイト(保護領)」とよんでいることに端的に示されているように、日本はアメリカの半属国であり、自衛隊も極東米軍の半支部である、といっても少しも言い過ぎではありません。

 ニクソン政権時のキッシンジャー大統領補佐官が、当時の中国総理・周恩来に「アメリカの核を日本防衛のために使うようなことはしない」と明言していることはつとに知られています。
<引用終わり>

 このような考えは、これが言われた当時も今も(いやいや昔からずっと)変わらずに一貫している、と思います。それは、国益が最優先であるという原則が不滅であるからです。まして、義理も人情も感じさせないが金だけは持っているだけの日本なんて、そのうち金の切れ目が縁の切れ目になるのはミエミエなのです。捨てられてから、哀れみを求めても遅い。誰もがお可哀想にとは言ってくれるでしょうが、たぶんそれで終わりです。それと同時に日本の資産分割の相談が始まる訳です。

<引用>210p
 こんな始末になったのは、たぶん、戦争と(それがない状態としての)平和のことを自分で想像し自力で思考し決断するとい能力を日本人が失ったせいなのでしょう。「精神のダイナミズムを失った国民は深い昏睡状態に陥る」(オルテガ)、「外部への適応を専らにするのは、その文明にとって命取りとなる」(同)、「ある文明がデマゴーグの手に落ちるほどの段階に達したら、その文明を救済することは、事実上、不可能である」(同)という予測がこの劣等において見事に実現されているということかもしれません。
<引用終わり>

 古くから、思想家はこの世の理(ことわり)を見抜いています。過去の歴史が、それを語っているからです。

<引用>217p
 とくに「核」は、一面からみれば文明の生みおとした「悪」と映り、多面から見れば文明に繁栄と安寧をもたらす「善」ととらえられるような、ヤヌス(二面神)めいた存在なのです。そういう存在にたいしては、それにかかわる諸要素を的確に配置して、それらの関係をできるだけ正確に解釈しておかねばなりません。その配置と解釈は、ふつうならば、常識に従って整えられましょう。つまり、歴史の流れが安定的に連続しているという意味で「普通の国」においては、「核」の多面性をうまく繋ぎ合わせる伝統の知恵が保蔵されていると思われます。しかし、わが国の戦後のように、歴史の断絶と伝統への侮辱に進歩を見出そうとしてきた時代にあっては、そうはいかなかったのです。
<引用終わり>

 日本というのは、常識のない、異常の国である。このことは、人間社会でも同じことであって、非常に分かりやすいはずなのですが、そうなっていません。私は、この主因はずばり「アメリカによる占領政策」の後遺症にあると思います。そして、副因は、この時期(含、現在)の日本人の不誠実にあると思います。


<引用>233p
 日本列島を核武装すべきかどうかの議論は、憲法に非常事態条項を盛り込むべきか否かの論議と併行させられなければならない、と私はいいたいのです。北朝鮮が核実験をおこなったからとか、中国が軍備拡張に励んでいるからとかいった理由付けは、核論議にとってあまりに情勢追随的なやり方です。「核」の政治論がそういう種類のものになるのはやむをえないことでしょう。しかし、核論議はもっと広い世界観のなかに位置づけられるべきものです。一億余の人口と世界第2のGNPを持つ国は核武装をせざるを得ない、それが必然である、というふうに議論が進められて当然です。

「 核」は国家の非常事態に対応すべき武装にほかになりません。互いの国家に懐疑的な危機をもたらす可能性が大きい、でれが「核」というものです。そうである以上、「核」が憲法の非常事態条項のかかわりで論じられるというのが当然と思われます。
<引用終わり>

 ここで非常事態条項と書いているのは「戦争条項」のことです。
 これ自体は、当然書かれていなければなりません。その覚悟すらないのに、核の保有についての論議をするとは、ちゃんちゃらおかしい、という訳です。

 そして、
<引用>
「小型戦術核は現憲法に抵触しない」というような(岸信介の時代から今の安倍晋三の時代に至る)議論の仕方は、「核」を国家の通常状態にあてがおうとするものです。
<引用終わり>

 本当は、相当の覚悟をしなければならないのだ、という自覚がないということではないでしょうか。


<引用>257pシビリアンコントロールのありかた、本来の意味
 軍隊が制御されずに暴走する危険をミリタリズム(武断主義、軍国主義)への懸念として表現するのが常套です。そしてこの武断主義をいわば軍事民主主義の未熟さに、つまり軍隊へのシビリアン・コントロール(文民制御)の未発達に、もとめようとするのも普通のやり方です。しかしこれは声を大にして反対せざるを得ません。というのも、たとえばわが国が典型的ですが、明治憲法第11条における「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という文言を軍隊が悪用して、(世論にもとづくものとしての)軍隊が議会制民主主義の外に出たこと、それが軍隊の暴走とみなされます。そのこと自体よりも、軍隊を議会に結びつけるのが軍隊制御の最善策だ、という民主主義的名軍隊観に安易に寄りかかることへの不信、それをここで表明しておきたいのです。
 世論が武断主義に向かって暴走すれば、議会もその種の暴走へと誘い込まれるでしょう。議会が武断主義に傾けば軍事民主主義の結果として、軍隊もそれに右へ倣えという結末になっていくに違いありません。あの大東亜戦争においてとて、とくに対米戦争を始めるに当たっては、そうした世論と議会との圧力が(日米間の軍事力の格差をよく知っているはずの)軍隊に向けて掛けられ続けました。そういう因果がはっきりをみてとれます。民衆の世論とその代理人たちの議会が軍隊を的確に制御できる、というのは俗説に過ぎないのです。
 このことがより具体的な形で現れてくるのが、軍隊のシビリアン・コントロールという問題においてです。わが国でも、現憲法の第66条第2項に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」と規定されています。ここでの議論においては、防衛大臣を文民にすることの意味は何か、ということです。なるほど、防衛大臣が軍籍の持ち主つまり軍人であれば、その国家の防衛政策に軍隊の意向が直接的に持ち込まれる可能性が高まります。それが国家を武断主義に傾かせる因となりかねません。
 しかし、同時に同時に考えておかねばならないことがあります。それは、防衛大臣には相当の軍事的情報と軍事的経験が要求されるということです。戦後日本では、軍事についてほとんど一丁字もないような政治家が次々と防衛庁長官の職位に就くというようなことが起こっています。
 軍人と文民の区別を「人格」においてとらえてはいけません。それは単に職種にかかわる分類に過ぎないのです。どだい、軍事の知識・経験しか持たぬ軍人はほとんど怪物の類に属します。政治、経済、文化についてほとんど一丁字もない物に軍隊の指揮をまかせるわけにはいかないということです。同じく、軍事の知識・経験をまったく持たぬような文民は、国民としても失格ですが、そんな文民が防衛大臣尾地位に就くなどということがあってはならぬことです。

 もっとも妥当なのは、「長期にわたって軍人であった者」(もしくはそれに相当する軍事的能力を持つと評価される者)がその地位に就く、ただし、就任時および就任後には、その人物の軍隊に関する既得権益を断つために、「軍籍から離脱させる」という意味で文民になる、というやり方でしょう。
人格について論じるのなら、全うな人格の持ち主は、文民性と軍人性の両面を兼ね備えているべきだ、といわなければなりません。それが国民の健全な姿としての「公衆」ということなのです。

「シビル」及び「パブリック」ということの本来の意味は「シティ(都市)という公共空間における義務を引き受ける者」ということなのです。

(そういう点に)勝れている者が軍隊を統括する立場に就く、それがシビリアン・コントロールの本来の意味なのです。
<引用終わり>

 米国など、まさにそうなっています。
 国事における軍事の位置づけが他と同等かそれ以上になっているのです。
 翻ってわが国では、その実体は、まるで忌むべき穢れたものとされています。軍事をはるか離れた最下層に置き、いわば下賎の仕事であるとして、まともに見ようともしていません。世界標準から大きく外れている訳ですが、その実感すらもたれていません。そのために上に述べられてような状況になっています。
 米国は、大東亜戦争後の目覚ましい経済成長を遂げた日本を見る際に、その現実の経済力とかっての軍事能力を重ね合わせ、日本をそれなりの評価をしていた。しかし、ある時期からは、日本人の軍事的センスがどうしようもないほど零に近いということが明らかになってきて、また近年深まった米国自身の苦しい状況がこれにあいまって、ほとんど愛想をつかされて相手にされなくなっていると言ってよいと思います。表面的には、お上手を言うわけですが、心はもう離れています。
 それを決定的にするのが、(軍事的センスが更に乏しい)民主党による政権樹立でしょう。今後、当面は本当に時候の挨拶だけのお付き合いになってしまうものと私は確信しています。

■NPT(核拡散防止条約)(Wikipedia)
条約では、1967年1月1日の時点で既に核兵器保有(被許可)国(核兵器国)であると定められたアメリカ、ロシア、イギリス、1992年批准のフランスと中国の5カ国とそれ以外の国(非核兵器国)とに分ける。前者の核兵器国については、核兵器の他国への譲渡を禁止し、核軍縮のために「誠実に核軍縮交渉を行う義務」が規定されている。後者の非核兵器国については、核兵器の製造、取得を禁止している。また国際原子力機関(IAEA)による保障措置を受入れることが義務付けられる。他に、原子力の平和利用については条約締結国の権利として認めること、5年毎に会議を開き条約の運営状況を検討すること、などを定めている。

21.8.15

オバマの仮面を剥ぐ/浜田和幸/光文社ペーパーバックス

 私は、オバマ大統領については選挙戦のころから胡散臭いという感じを抱いていました。テレビを通じての判断でしかありませんが、言っていることは要するに"CHANGE"だけで、選挙民を扇動しているように思えたからです。
 一方のマケインには誠実さを感じましたし、政策も保守的なスタンスでしたから、本来はこっちが大統領だろうと思っていましたが、結果は、オバマでした。

 就任式にも非常に多くの人が集まり、日本も含め世界中が見守る中、感動的な就任演説が行なわれたようです。(私は、見ませんでしたし演説も読んでいません。)私の知り合いで、常々大変見識があると尊敬している方さえも、演説を聴いていて涙が出たと言ったほどでしたから、相当なものだったようです。でも、それを聞いて、だからこそ私は益々怪しいと思いました。

 わが国にも非常な影響力があるアメリカ大統領のことですから、無関心ではいられませんが、基本的には他国のことですから、その後のオバマについてはあまりフォローしてはいませんでいた。
 そんななかこの本を読んだのですが、ああやっぱりと思う以上に、オバマ自身についてもまたアメリカ人自体も大変なタマなのだという認識を新たにすることが出来ました。彼らは、とんでもない人たちなのです。

 この本の目次を見るだけで、それが分かります。
1 チェンジは口先だけ
2 政治資金の闇
3 ウォール街の代理人
4 出生の秘密と裏人脈
5 荒廃するアメリカ
6 グリーン・ニューディールの罠
7 借金帳消し作戦
8 日本人だけが知らない「チメリカ」

 そもそもの始まりは、アメリカ人の気質にあります。日本人と違い、しっかり働いてお金を稼ぎ、それを基盤に身の丈に合った生活をするということの真反対の発想をするわけです。欲しいものがあれば、後先なくローンで買ってしまう。不動産価格は右肩上がりでしたから、将来の値上がり分でなんとかなると売り手も買い手も判断して、それいけドンドンでバブルに突入して、その結果がサブプライムローン危機です。
 そのような中現れたのが、オバマでした。そして彼の甘い言葉に皆がつられてしまった。

 アメリカがどっかの田舎の国だったら、乞食でもなんでもやって貰って借金を返してもらえば良いのですが、そうではありませんから話は単純ではありません。アメリカは世界の政治経済への影響力が大きいので、簡単に破産されるのも困ります。同時にまた、贅沢に慣れ切った国民がいまさら真面目にこつこつという気持ちも薄いので、ますます借金地獄に向かう訳です。(同時にまた、最貧の生活を余儀なくされる層も増えているようです。)

 日本は、結局はこういうアメリカに対して、こつこつ働いている国民の税金を使って助けることをするのです。放蕩の限りを尽くしている、身なりだけは良いアメリカを、その辺の事情を知ってか知らずか日本人は助けるのです。悲劇というか喜劇というか‥。

 こんなやつ、助ける必要はありません。一気に破産させるのが問題なら、引導をまず渡して、徐々に破産してもらうべきだと思います。

 さて、そのオバマ/アメリカの実態とは、上の目次に沿って要約すると、
1 道義という観念がないのか、公約は選挙に勝つための道具であって、選挙が終われば公約はほとんど無視して良いと考えている。

2、3 オバマにはお金の臭いが凄いようです。怪しげな大口の政治献金がつぎ込まれました。勿論見返りを見越してです。オバマは今後、国民に目を向けるのではなく、これらの献金者のためにの政治をしなければなりません。
 オバマは、ウォール街の代理人に過ぎないといわれています。AIGなどの「救済」といえばカッコは良いのですが、結局は経営責任者個人に、税金をつぎ込んでいるわけです。莫大なボーナスが話題になりましたが、これらの一部も結局はわが国民の税金です。こういうことを、彼らは当然視しています。昔の白人による有色人種に対する植民地政策が続いているのです。

4 オバマは、ハワイ生まれとしていますが、その証拠はないそうです。そして、オバマはこれが明るみに出ないように公権力を使って防いでいます。状況証拠的には、彼はアメリカ大統領の資格がないのです。それが一応とおっているのですから、ほんとに、アメリカという国は恐ろしい国です。 

5 今は、選挙の熱も冷めて比較的冷静になってきているようです。落ち着いてきたというのではなく、市民はこの先に来るであろう混乱に備えることを考える余裕が出てきたということなのです。その端的な指標が銃の販売状況。オバマが予定している銃の規制に備えての駆け込み需要という側面もあるそうですが、銃の売れ行きはそれを凌ぐ爆発的なもので、この本では社会不安の表れと見ています。

6、7(省略。エゴ丸出しのアメリカの姿。)

8 チメリカとはCHINA+AMERICAです。中国は成長する経済力を生かしてアメリカの国債を引き受けており、その額は世界一です。アメリカは中国に頭が上がらないのです。金持ちの野心家と借金も大きいが軍事力も大きい快楽主義者(?)が手を結ぼうとしています。二人ともなりふり構わないタイプですから、しっかりと抱き合うのでしょう。

 ここは、日本はよっぽどしっかりしなくてはなりません。少なくとも上のような情勢認識をする必要があり、しっかりした判断をしなければなりません。と、だれに言ったら良いのか分かりませんが‥。


21.8.10

選挙報道/小栗泉/中公新書

 総選挙が公示され、我々選挙民に対して「政権選択(?)」が求められています。

 その選択を判断する材料は、実際のところ、主としてテレビから得られているといってよいと思います。マニュフェストを我々がいちいち読み比べることはほとんどありませんし、新聞記事をじっくり読み込むなどということもあまりありません。テレビが見せてくれる状況(雰囲気?)を眺めてそこから判断するというのが多大多数の選挙民の姿ではないでしょうか。
 
 我々がそうするのは、それが一番楽だからです。更には、私達には、カメラが捕らえる映像というものに真実があるという思い込みがある上に、各放送局が嘘偽りを流すはずはなくその大看板は信用できるという心優しい思い込みがあるからです。
 
 ところが実際はそんなことはなく、テレビは大いに偏向しているといわねばなりません。映像の加工はどうにでもなるし、見せ方によっては反対の印象を持たせることだって出来ます。サブリミナル効果などという、いわば騙しのための高等映像技術が存在するくらいなのです。

 また、各放送局は確かに見かけは立派な姿をしていますが、所詮人間が運営しているものでして、オマンマの元をスポンサー様に握られているわけですから、もうこの段階で、ある種のバイアスがかかってくるのは当然のことです。

 唯一NHKは”皆様の受信料”で賄われていますから、そんなことはないはずですが、影のスポンサーとしての中国やサヨク勢力の存在というものががあって、それらが民放におけるスポンサーの代わりを果たし、隠然たる影響を与えているのです。つまり、テレビ放送は、決して正しい情報を配布しているとは言えず、従ってこれを信用してはいけないということなのです。

 さて、この本ですが、結論として述べているのはざっくりしたところ次のようなことです。
「テレビ報道は、現在放送法によって不偏不党が定められているが、アメリカの状況を観察したり、法曹界、政界の意見を元にして考えれば、テレビは政党支持を表明すべきである」、と。

 でも、私にはそう思えません。
 現状、既に政党支持をしているのが実情ではないでしょうか。それも明らかな民主党支持(アンチ自民党)です。
 NHKまでもが、放送人としての見識もプライドもありません。つまり、未熟です。そういう人たちのタガがこれ以上外れたらどうなるでしょうか。あからさまに、あるいは、あからさまでなくともより陰湿によい巧妙に、プロパガンダを始めるに違いありません。実際アメリカでは、今回のオバマ選出にあたって、結局はカネにものを言わせてメディアを動かし、そうしたではありませんか。このアメリカの場合もその影が見え隠れしますが、中国マネーが日本の放送局に流れ込んで、中韓を信奉する民主党をまさに傀儡として手中に収めるということになるでしょう。
 
 報道、特にテレビは、あくまで公正中立を(せめて建前だけでも)目指して運営されるべきです。
 この本を書いた小栗泉さんは放送側にいた人(日本テレビ)ですから、こういう見方になるのかもしれません。きれいごとだと思います。


 この本の中で興味を引いた部分がありました。
 それは、アメリカ大統領選挙におけるジョージメーソン大学メディア公共政策センター(CMPA)による調査結果です。
■一つ目は、候補者達が人気トークショウでジョークのネタになった回数。

ジョークの対象
1月〜10月合計
9・10月合計
1
マケイン
1240
591
2
ブッシュ
890
226
3
ヒラリー
660
37
4
オバマ
638
176
5
ペイリン
557
540
6
バイデン
89
73

 見てのとおり、テレビでおちょくられたのはマケインが圧倒的に多く、9月ごろ登場したた副大統領候補のペイリンに対しては、その数字がたちまちのうちに増えています。
 ここには、ある意図がありさらにそれを動かす裏の意図が見え隠れします。黒人オバマに対する判官びいきのようなものもあると思われますし、また、オバマ側がうまくなんらかの操作をしているということだろうと思います。

 そしてその状況が次の調査結果から良くわかります。
■アメリカ大統領選挙における有権者の投票行動(米メディアの出口調査)
@人種・学歴別(数字は%)

オバマ
マケイン
その他・回答なし
白人・大卒以上
43
55
2
白人・大卒未満
41
58
1
非白人・大卒以上
65
34
1
非白人・大卒未満
79
20
1

A人種・収入別(数字は%)

オバマ
マケイン
その他・回答なし
白人・
年収5万ドル以上
38
61
1
白人・
年収5万ドル未満
48
51
1
非白人・
年収5万ドル以上
65
34
1
非白人・
年収5万ドル未満
84
16
1

 オバマとメディアの甘言に乗せられた有権者達の姿が良く見えるではありませんか。

21.8.4

日中戦争はドイツが仕組んだ/阿羅健一/小学館

 日中戦争(正しくは支那事変)は、基本的には日本と支那との間の戦争です。これにアメリカが援蒋ルートを通じて支那を支援したことで、間接的にアメリカとの戦争が戦われていた、という知識は持っていました。しかし、第二次大戦において同じ枢軸国であったはずのドイツが、アメリカと同じようにして蒋介石軍に積極的に関与し、日本と間接的に戦争状態にあったというのは、この本の話題が出るまで全く知りませんでした。

 その関与の仕方は、アメリカのような主として後方からの支援ではなく、後方支援のほかに直接に戦争(戦闘)指導をしていたのです。日本は、薄々は把握していたようですが、それが実際の戦闘に対して具体的に対策が採られることもなく、第2次上海事変の際に、蒋介石軍と対峙して初めて、そのことを身に染みて認識するのです。

 ドイツは、武器を供与し、トーチカの設営を指導し、作戦を指導したばかりでなく、兵の訓練まで施すのです。これにより、蒋介石軍は、それまでは北支での戦いにで多く見られた、すぐに遁走する軍隊だったのですが、大きく変貌をとげ物理的にも精神的にも強力な軍隊になっていたのでした。

 この本に収録されている、上海上陸作戦の様子、上陸後の対トーチカ作戦の様子など、戦闘記録を元にして再現された状況を読むと、大変な苦戦の様子が良く分かります。

 具体的には、日露戦争における旅順要塞戦が4ヶ月半で死傷者6万人、これが上海では、3ヶ月で死傷者4万1千余人だそうですから、そのことが分かります。旅順攻略では、肉弾をつぎ込見続けなければならないという消耗戦を強いられたわけですが、上海でもそれと類似の状況に陥ってしまったわけです。
そして、重要な点が、それを我が軍に強いたのは、かの同盟国ドイツであったということなのです。

 後に、ドイツはソ連を対象にしていた日独伊防共協定をあっさりと踏みにじって、独ソ不可侵条約を結び、結局は独ソ戦を戦う訳ですが、このときも律儀の国日本は、ただただ翻弄される訳です。当時の平沼内閣は、「複雑怪奇」という言葉を残して総辞職してしまいます。

 その後、ドイツとは、一応枢軸国側として第2次大戦を戦うことになりますので、私達はなにかしら戦友としての親しみを感じているのですが、それは所詮、日本人の大甘な点でしかありません。ドイツから見れば、己の国益に照らしてたまたま都合が良かったというだけの話であって、我々が抱くようなロマンティシズムなどほとんどないと思われます。ましてや、相手は東洋の山猿です。利用できるんだったらこの際利用しよう、という感覚でしょう。この辺の認識が甘いために、相思相愛だと勝手に思い込んでいたら実は遊ばれていた、ということが最近分かった、ということなのです。

 では、そのドイツは、どういう考えだったのか。
 この本では、そのあたりのことから、解き明かされていきます。

 一つは、自国の軍需工業に必要な戦略物資でああるタングステンを、中国から入手したいという、経済的側面の国益の追求。
 もう一つは、日本人である我々が見習わなければならないことだと思うのですが、第1次大戦の敗北に伴ってドイツが大きく制約された軍事機能をなんとか維持していかねばならないという、軍事的側面の国益の追求。

 後者についてもう少し敷衍すると、次のようです。これは、凄いなぁと思います。日本のようにあっさりと身をゆだねてしまうのではなく、連合国側の目を盗んでもあくまで反抗の意思を貫き通そうという執念が垣間見えます。

 第1次大戦に負けたドイツ軍は骨抜きにされます。様々な制約が加えられ、規模も縮小されます。この時のドイツ軍の後始末を担当したのが、ハンス・フォン・ゼークト当時大佐でした。彼は、ドイツ参謀本部の機能や陸軍大学の機能、、軍事にかかわる調査研究の機能や、パイロット育成の機能等々を、連合国軍事顧問団の目を欺きながら、下部の部隊の内部組織内、国立公文書館、国土測量局、運輸省民間航空局などに実質を保有させました。後世の再起のためです。こうして、軍の機能や精神は持続されたのですが、戦車、飛行機などの主要武器の禁止という問題が残され、武器、戦術の開発や技術の修得などの手段が確保できませんでした。そこで、ゼークトは、この問題を海外に移転することで解決しようとしたのです。

 相手先の一つはソ連。
 第1次大戦後、重工業の建設を目指したソ連はドイツの機械工業力に目をつけに援助を求めます。ドイツは、それを受け入れ、その代わりに、「禁止されている砲弾や化学兵器の製造をソ連国内で行い、ドイツ将校が飛行機や戦車の訓練をソ連国内で受けれるように求めた。」のです。後者については、秘密軍事協定が結ばれ、実行に移されました。

 なんとまぁ、凄いことではありませんか。
 国が生き残るには、軍事が死活的に重要であるという認識が骨の髄まで染みているから、ここまでの執念をもってやるわけです。日本人が持っている、柔らかな認識とは雲泥の差があるのです。

 ドイツは、この方式をトルコやボリビアなどにも展開していき、軍の訓練に当たるだけでなく実際の戦争指導をも行い、そのことでまた、自分達の知識技能の向上を図っているのです。これは、中枢にいたゼークトが偉いからだけでなく、末端の指導的軍人達が共通の認識としていたからなのだろうと思います。

 その後紆余曲折がありますが昭和2年(1927)頃、蒋介石は、もともと関心を持っていたドイツ軍との接触を持ち、昭和3年には本格的な軍事顧問団を招聘します。このときから、ドイツと中華民国は深い結びつきを持ち始めるのです。その結びつきは、単なるアドバイザーではなく、戦闘場面によっては直接の指揮も執らせたようです。
 
 ここに、生身の兵隊だけが中国産で、武器、思想、訓練等などは全てドイツ製という状態が生起するわけです。先に記したように、上海地域には、日本軍を苦しめたトーチカの建設までも行われました。

 ここで着目しなければならないのは、国益における軍事に関することです。つまり、ドイツは、禁止されていた軍事活動を、その重要性に鑑みて非合法でもなんでも良いからなんとか生き残らせた。それは勿論、中国を救うためなんかではなく、ただひたすらドイツの国益のためであったのです。ほんとに凄いではありませんか。

 昭和7年(1932)1月第1次上海事変が勃発。ドイツ顧問団養成の2個師団が日本軍との戦闘に初めて投入されます。そして、翌8年(1933)3月熱河作戦。ここでは、ドイツ顧問団は中国軍の戦闘指揮を執ります。

 その後の指導は戦術面にとどまらず、戦争指導にまで及び、蒋介石と顧問団は対日戦争のあり方について議論を交すようになっていくのです。それを受け入れる中国も中国ですが、ドイツも押しが強いというか、自他が認める能力と自信があったということだろうと思われます。

 この戦争指導という段階は、ドイツ政府の意向を大いに受けながらのことだろうと思われます。いずれにしろ念頭にあるのは、くどいですが、国益です。

 こういう、軍事側面での働き掛けと同時にこの軍事顧問団はタングステンの取得ばかりでなく、トータルの貿易も活性化させていきます。軍人と商人の2足のわらじをしっかりと履いているのです。こうして、ドイツと中国は相互のメリットを一致させ、いわば蜜月状態を深めていきます。
 知らぬは、敵視されている日本ばかり、でした。

 あと、この本では、盧溝橋から第2次上海事変に至る日本、中国、ドイツの動きを非常に上手く描いています。(53p〜)これらのことは、ここに書きしるすよりも、読んでもらうのが一番だと思います。私も、この本はもう一度読見たいと思います。

 非常に良い本でした。

21.8.1

自衛隊が世界一弱い38の理由/中村秀樹/文芸春秋

 著者は防大18期(小生の4期後輩です)、職種は潜水艦です。
 潜水艦艦長のほか情報本部、幹部学校、防衛研究所戦史部などの配置を歴任しています。

 この本の目的は、自衛隊を批判することではなく、自衛隊が十分に力を発揮し得ない(戦えない)のは何が問題で、それをどうしたらよいか、ということを明らかにし、それを世に問う、というものです。現下の国際環境を冷徹な目で(なくとも、普通に)見れば、日本は非常に危ない状況になってきています。それを最後に救うのは、あるいはそうならないようにする担保になるのは、自衛隊なのです。しかし、それが、現実問題として軍の体をなしておらず、救国のカードにはなり得ないと、著者は憂うのです。

 著者が潜水艦艦長になることは防衛大入校の頃からの夢であったようで、そういう人柄がにじみ出ている著作になっています。(自衛官のなかでも、こういう特殊な乗り物に乗りたいと思う人というのは、一途な人が多いです。)

 著者は、この本の中で、なぜダメなのか、という理由を分かりやすく説明していくのですが、それらのことを突き詰めるとそこにマッカーサー憲法があり、更にその向こうには、それを是と考えている(というか、実はなにも考えていない)圧倒的多数の国民の支持があるのです。
 だから、憲法についての国民の意識を変えねばならないのだ、ということです。

 私も全く同感ですが、この種の問題を突き詰めていくと、結局このような結論になります。そして、これを変えることが非常に難しいという思い、というか諦観に至ります。昨今の自民党の凋落と民主党の異様な躍進をみるにつけ、もう嘆息することしかありません。

 いろいろと教えられることがありましたが、これまでにあった一つの疑問を解くことができました。それは、軍法会議、軍律法廷に関することです。

 自衛隊は建前上、軍ではありませんから、軍司法がありません。憲法において司法権は最高裁判所以下の各裁判所のみに与えており、特別裁判所を認めていないからです(第76条)。こうなると、戦場で敵兵を殺害した場合、その実行者は殺人罪に問われる訳です。この1点でもう、なにをかいわんや、です。また、敵兵、テロリストや工作員の処分についても同様の状況が起こるわけです。この場合は「軍律法廷」によって裁くことになります。この辺のところは、これまで私自身も整理がつかなかったのですが、次のように説明されています。
<引用>219p
 軍法会議というのは裁判機関であり、司法機関である。軍刑法に抵触した被告を裁く刑事裁判所だ。旧日本軍の場合、常設と特設の軍法会議があった。
 また、混同しやすいが、軍律法廷というものもある。(参;映画「明日への遺言」)
 軍律というのは、交戦下、国内を含む作戦地や外国の占領地などで敵国の軍人や民間人を取り締まる規則である。これは統帥権の下、軍司令官や艦隊司令長官の権限事項である。ただし、国際法や当該国の法律に基づくものであり、陸海軍省の法務部との調整を経て制定されている。例外はあるが基本的に自国民は対象にならない。自国民には一般法が適用されるからだ。
 要するに、軍法会議が自国の軍人や軍属を自国の法律(陸海軍刑法)で裁くのに対し、軍律法廷は、占領地、作戦地において、規律違反をした外国人(敵国軍人を含む)を裁くものである。
 当然ながら、軍法会議や軍律法廷は、一般の裁判とは違う。例えば公訴権は検察ではなく、軍法会議や軍律法廷の長官にある。裁判官は法曹資格を必要とせず、兵科将校が任命される。被告の行動の是非を判断するのに、法律知識より軍事知識、用兵の経験が重要だからである。裁判が恣意的で違法にならないよう、法曹資格をもった軍人(法務士官など)が参画する。

 また、軍法会議で判決が下れば、計の執行機関も必要になる。軍刑務所や営倉とよばれる施設、機関のことである。現在の自衛隊には容疑者を拘留したり、有罪になった囚人を収容したり、あるいは計を執行する施設はない。 軍法会議同様、憲法でこれも禁じられているからだ。
<引用終わり>

 そうなのです。
 あれもこれも、マッカーサー憲法という異常な枠組みのなせる業なのです。そして、その先には、それを異常と思わない、異常な国民が、これまた異常な平和を貪っているという図式なのです。
 私たちは、この部分をまずしっかりと認識しなければなりません。

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