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20.8.1

み国始めの物語・どこまでわかるヤマタイ国/三潴(みつま)信吾・三好誠/高木書房

 「み国始めの物語」と「どこまでわかるヤマタイ国」の2部構成になった本です。90ページ程度の薄い本で価格は400円。ですが、内容は非常に良いものであると思いました。

 「み国始めの物語」は、日本の国の始まりである神話の時代のことを子供向けの絵本として、また合わせてそれを読み聞かせるお母さんのための解説書という体裁になっていまして、そういう発想がまず素晴らしいと思いました。親に対する教育を行う必要がある、ということなのですね。

 神話はもとより、歴史上の事件ではありませんが、神話という事実(真実と言っても良いと思います。)、あるいは昔の人たちがそのように考えていたという事実なのです。科学的には真実とはいえないのでしょうが、物語としては真実なのです。このことは、サンタクロースは居るのか居ないのか、神様は居るのか居ないのかという論議に似ています。サンタクロースや神様は、そう信じる心の中に確かに存在するという意味では、真実であると言えます。なにが言いたいかというと、科学的であるとか実際に目で見られる、手で触られるというものにしか「真実」という名を与えることはできず、それ以外のものは「真実」とは言えず、取るに足らない価値なきものだ、という考え方はおかしい、ということです。

 例えば、便所には便所の神様が居る、だから、いつもきれいにしておかなければならないということを、私は小さい頃母から教えられました。神様に見られていたんじゃ、きれいにしなきゃいけない、というわけです。このとき、便所の神様の存在は、私にとって真実でした。
 同じように、江戸時代の「お天道様が見ている。」という俚言もそうです。この言葉が当時の世の中の秩序の維持に果たした役割は大変大きく、お天道様の存在は、当時真実であった訳です。
 私は、唯物論だけでなく唯心論にも重きをおいたものの見方考え方をすべきだ、といいたいのです。

 この考えは、「命は宝(ぬちどぅたから)」というような価値観と対極をなすものです。今の世の中にそういう考え方が支配しているのは、子供の頃に知るべき神話を(科学的でないという理由で)否定し去っていることに端を発していると私は思います。僕たち私たちの日本は、こういう風にして神様たちが創ってくれたのだという匂い立つような民族のロマンに触れるかどうかというは、良日本人を形成する上での大きな分かれ目になるのではないでしょうか。

 そういうことを、この本から感じながら読みました。
 また、絵本としてはもう少し明るくきれいにした方が良いのではないか、僭越ながら思いました。最近はやりのFLASHで作ったら面白いのではないか、という気も致しました。

 第2編は、魏志倭人伝について邦訳と解説をしたものですが、魏志倭人伝をひとことでいうならば、「魏(中国)の都合で中国国内向けに作り上げたいわば宣伝書であって、取るに足らないものである」ということです。それなのに、これをまるで金科玉条にして我が国歴史の始まりを語るものとして、歴史教科書の冒頭に必ず出しているのは全くおかしなことである、という訳です。
 
 魏志倭人伝の内容は、陳寿という人が聞き取りによって纏めたもので、目的はいうなれば中華思想の高揚ということです。結局、今も昔も中国が行なっている「手」なのです。「倭」「卑弥呼」という用字にも、また記述の内容にも日本を見下し、貶め、相対的に自国を持ち上げるという考えがみえみえです。

 要は、こんな愚書をあがめることから目覚め、古事記、日本書紀という天下に誇る歴史書を大事にすべきだということなのです。
 もろ手を挙げて賛同します。

 

20.7.15

「満州国」見聞記-リットン調査団同行記/ハインリッヒ・シュネー/講談社学術文庫

 著者はドイツ人政治家で、リットン調査団5名のうちの1員です。
 
 1931年(昭和6年)9月18日夜に発生した柳条湖事件について、9月21日には中華民国は国際連盟に対して「何らかの処置」を取るよう要請し、これを受ける形で連盟は日中との調整を図りながら、12月10日調査団を派遣するという決議をします。調査団の任務は、現地であらゆる条件を調査し日中間の平和を脅かそうとしている諸原因を国際連盟理事会に報告することでした。
 
 報告書は1932年(昭和7年)9月に署名され完成しますが、ほぼ同時期(9月15日)に満州国が日本によって承認されます。日本は、いわば既成事実を作ってしまい、調査の意味もうすれてしまう訳です。

 国際連盟において満州問題についての話し合いが続けられる間にも、日本は戦闘の場を熱河まで拡大します。結局は、連盟は調査団の報告に基づいて、紛争中に行なわれた日本の軍事行動は自衛行動とは認められない旨の勧告案を採択し、「満州国」の建国は、自発的な真正の独立運動によるものではないとの見解を出します。また、この勧告案では、満州における中国の主権を認め、日本軍が満鉄付属地域以外の満州に駐屯することは中国の主権と相容れないことを確認し、この地域から日本が撤退することを求めます。

 中国はこの勧告を受け入れますが、日本は次の理由によって連盟を脱退する旨の意向を示します。
 即ち「中国は組織化された国家ではなく、中国の内部事情や国内の諸関係は極度に混乱し、複雑になっているため異常な例外的性格を形作っている。したがって、諸国間の通常の関係を規制する国際法の慣習を中国に適用する場合は、これをかなり変形しなければならない」ということです。
 リットン調査団報告書に対する日本の対応の状況は以上のようでした。

 さて、調査団は1932年(昭和7年)2月に東京に来て、日本に関する調査を皮切りに以後中国へ渡り、当然ですが満州を中心に視察し、北京で報告書の作成を行ないました。

 本書ではその1員であるシュネーが両国で見聞した出来事を書いているのですが、その記述内容から受ける印象としては、中国よりのスタンスであったように感ぜられます。中国は侵攻され、日本は侵攻した側である。日本は、有色人種の、しかも新参者であるのに生意気だ、というような感情があったのではないでしょうか。

 そういう、いわば先入観と両国の調査団に対する対応振りも大きかったのではないでしょうか。中国は、今もそうですが、このような状況での供応が非常にうまいということがあります。他方、日本は必ずしもそうでなく、相手の価値観に合わせるという観念が薄く、自分の価値観によるものが相手も喜ぶというようなとらえ方をしがちではないでしょうか。事実、日本の音曲に彼はやや不快を示すなどの記載がありますし、日本の真の文化に触れさせ得たとは思えません。一方の中国では、大衆の生活の低さに驚きながらも、数千年の歴史・文化の存在を賛美し、中国人はそれを継承した優れた民族であるとの認識を示したりしています。現実はそうではないのですが、難点をうまく隠し、逆の認識を持たせることに成功しているのです。中国人の政治力が非常に良く発揮されているように思われます。

 北京において報告書が作成されたということについても、なんらかの中国の影響力を感じさせます。論戦以外の以上のような点についても日本は負けていたように思えます。
 
 また、この見聞記では、あのイザベラバードの旅行記のような細やかな観察力で当時の満州の状況が描かれていることを期待したのですが、その意味ではそういう記述が少なく、随分とがっかりしてしまいました。


20.7.1

【新訳】孫子/兵頭二十八/PHP

 「孫子とはなにか」ということではなく、孫子に書かれた数多くの記述を兵頭氏が現代語訳を行い、必要に応じて解説するという形態の著作です。つまり兵頭流の翻訳書です。

 ここに書かれている、数多くの戦いの原則から我々は学び取るものがあり、それが、サブタイトルとして掲げてあります「ポスト冷戦時代を勝ち抜く13篇の古典兵法」とういうことなのでしょうが、私個人としてはフムフムと深くうなづけるようなものあまりありませんでした。
一つだけ、なるほどねぇと思ったのは、次のくだりでした。それは、はしがきに書いてあった次のようなものです。

<引用始>
 古代シナの兵卒は、すなわち農奴でした。
 農奴をかき集めた部隊を、貴族の将軍が率いて、自国の勢力範囲外に連れ出す遠征戦争が、本書の「計篇」でいわれる「兵」です。
その遠征戦争の目的は、新たな農奴をできるだけ多数、獲得することでした。金属器の普及に伴って、人手さえあれば開墾可能となる土地は、ありあまっていたのです。
 ところが、農奴兵には、愛国心や忠誠心や勇気は、からっきしありません。
 厳罰が怖いので、いやいやながら従軍しますけれども、内心では、いかに怠け、楽をし、怪我をせずに、逃亡や投降や裏切りをしてでも生き残り、家族のもとに帰れるかと、それだけしか、考えていません。
そんな頼りにならぬ部下たちに、どうやってヤル気を出させて、敵部隊と生死をかけた激闘をさせることなどが、可能になるのでしょうか?
答えは「九地篇」で説かれているのでしょう。
 指揮官は、彼らを騙して、知らず知らずのうちに「死地」に投ずればよいだけです。死地とは窮地のことではなく、大衆を束ねる意識的リーダーにとっての理想的なシチュエーションのことなのです。
このような秘術を堂々と教えるテキストが、シナでは、古代から現代まで、全国の有力政治家たちによって、珍重されてきた。なんとおそろしい政治先進国でしょうか。
 シナでは、政治家は、集団を、国民全体を、死地に投ずる方法を知っていなければならないのです。この大衆操縦術は、冷戦時代の核抑止戦略にも大いに有効でしたし、ポスト冷戦時代の対アメリカ外交でも有効なのです。比べて見て、我が日本の現代政治家はどうでしょうか?
 戦前の中国国民党から今日の中国共産党までひきつづいている反日教育や反日宣伝は、まさに、愛国心のないシナ大衆を「死地」に投じて支配力を固めるための工作の一環です。『孫子』を勉強していなければ、日本人と日本国政府は、ひたすら彼らの遠謀に翻弄されるだけとなるでしょう。
 『孫子』は、大衆時代の今こそ、再読される価値がある軍事外交マニュアルであるといえます。
<引用終>

 上記のことを、孫子が述べた箇所が「勢」篇にあります。その部分の兵頭訳が次です。
<引用始>
 合戦は、英雄を自負する指揮官が一人で獅子奮迅して勝てるものではなく、部隊全体の勢いをうまく作為して勝つのが無理がなく、ムダがなく、味方の共同体を益します。
 そのような部隊指揮ができるものをこそ、一線の司令官として任じましょう。徴集した農民からなる部隊に勢いをつけて合戦させるのは、ちょうど、生きていない材木や石を転がす作業と似ています。
 材木も石も、低いところに置かれたままでは動きませんが、高いところでかたむけてやれば、すぐに動きます。
 形や地面が転がすのに不適当ならば、すぐ止まってしまいます。逆に、位置取りや攻撃方向や隊伍の粗密がうまく適合していれば、隷下の部隊はどこまでも止まりません。
 合戦のうまい指揮官は、あたかも円い石を高い山からころがし落とすようにして、隷下の部隊に勢いをつけられるのです。
<引用終>

 このようなことを、数千年にわたって、そして今も行っているのが中国なのです。シナ大陸の指導者達は、まるで砂のように、握っても握っても指の隙間から逃げていってしまい、決して纏まることのない民衆を統御することに腐心し続け、相当のノウハウを蓄積しているのが中国なのです。
 つまり、良し悪しは別にして、人の扱いに相当の苦労をしている訳です。
 この点、我々はしっかり学ばなければなりません。


20.6.15

京都に原爆を投下せよ/吉田守男/角川書店

 先の大戦中、京都が空襲から免れたのは、米国の文化財尊重という素晴らしい考えがあったからだ、という見方があります。私もこの本を読むまでは、そう考えておりました。ところが、事実はそうではないようです。著者による資料発掘も含めて数々のデータをもって、そのことを敢然と否定したのがこの本です。
 
 結論的にいうと、京都は、米国の高邁な思想によって助かったのではなく、原爆の効果を把握しやすいように空爆が控えられ("reserave"され)ており、原爆を投下する直前に終戦になってしまっただけのことである、ということなのです。

 冒頭のような誤解がされたのは、他の都市が空襲を受ける中、京都、奈良などが空襲を受けないことの理由について、親日的と目されていた米国人東洋美術研究家のウォーナー博士が、京都、奈良などの古都市の空襲中止を米当局に請願し、それが功を奏したというかってな思い込みがその発端でした。戦後、知己であった日本人が、それを裏付けるような文書を発掘し、しっかりした分析をせずに思い込みでそれを読み間違い、ウォーナー博士の功績であると喧伝します。本人はというと来日したおりに、その質問に対して、積極的な否定をせず、そのことをまた奥ゆかしいと日本人が勝手に思い込み、ますます真実であると、これを固定化していきます。戦後、日本を占領したGHQもまた、これ幸いと、このことに便乗し、逆にそれをあおるのです。

 こうして京都は米国の良識の代表ウォーナー博士によって救われたということになり、全国6ヶ所に彼を顕彰する記念碑が建立され、命日には慰霊(感謝)の法要などが行われており、そのことは常識中の常識になってしまったのです。
 
 日本人が持っている気持ち(文化財は守るべきだ)は世界でも共通であるという思い込み、そして世界は実はその逆に殺伐としているということを知らない、うぶでお人よしの民族性がモロに出ているのです。

 アメリカは、原爆の投下にあたり投下すべき都市の選定を行うにあたり、目標選定委員会なる会議を1945.4.27以来、数次にわたって開催し検討するのですが、その際の投下目標の選定基準を次のようにします。

1直径3マイルをこえる大きな都市地域にある重要目標であること。
2爆風によって効果的に破壊しえるものであること。
3来る八月までに攻撃されないままでありそうなもの。

 ここには、文化都市を除外するなどの考慮は一切ありません。ただただ、原爆の効果を発揮できて、その効果をあとで評価できることが考慮用件であったのです。

 こうして選ばれたのが、
@京都、A広島、B横浜、C小倉、(のちD新潟、E長崎)
でした。

 このうち、京都は次の点で最良であるとされました。(目標選定委員会)
1 百万の人口を持つ大都市
2 戦時下で罹災工業がこの都市に流れ込んできており、軍事目標を持つ
3 市街地の広さが東西2.5マイル、南北4マイルあり、人口密集地が広い
4 日本人にとって宗教的意義を持つ重要都市であり、この破壊が日本人に最大の心理的ショックを与えることが出き、その抗戦意欲を挫折させるのに役立つ
5 三方を山に囲まれた盆地であり、爆風が最大の効果を発揮しうる地形をもっている
6 知識人が多く、原爆のなんたるかを認識した彼らが政府に早期降伏を働きかける期待が持てる
7 まだ爆撃による被害をこうむっていない

 つまり、文化財保護どころか原爆で一切合財吹き飛ばそうと計画していたのです。
 長崎は当初候補に上がっていませんでした。これは長崎が細長く東西2つの山に挟まれているために爆風が南北に拡散してしまい、原爆の効果がうまく発揮できないという理由であったからでした。
 以後最終的な2発の原爆投下までに、横浜が候補からはずれ新潟が候補に浮上し、京都がはずれ長崎が浮上するなどの変遷がありましたが、この間はいずれも積極的な空爆は控えられreserveされたわけです。
 そして最終的には、広島と長崎(小倉の予備)に原爆が投下され、京都ははずされます。
 
 その理由はなにか。
 著者の調査では、陸軍長官スチムソンの進言によるところである、といっています。
 それによると、要は京都ではインパクトが大きすぎるということです。
 彼らは、当然ながら戦後における国際社会の力関係を読んでいました。戦後の日本は、対日参戦をしたソ連に付くか原爆を投下したアメリカに付くか、大事なところだ、という訳です。両方とも悪であるが、多少程度の良い悪にとどめるべきだ、ということなのです。100万都市の京都を破壊し尽くしたら日本人を敵に回してしまうという計算なのです。これで、京都がパスされ、2発目が長崎に回って行きました。

 なお、奈良や鎌倉(*)が空襲を受けなかったのは彼らの爆撃基準である都市としての大きさ、軍需工場の有無などの点で下位にあっただけの話であって、戦争が長引いていれば徐々にその対象に入っていく運命であったのです。
 
 また、京都は第3発目の原爆投下目標としてreserveされ続け、終戦までついに無償でありました。つまり、終戦が遅れ、第3発目の原爆製造が間に合えば原爆の惨禍に合う可能性がありました。ちなみに第3発目以降の製造は、7月23日時点での見通しでは、第3発目は8月24日ころ、9月には新たな3発、12月には7発〜、ということだったようです。8月10日の時点では、これがさらに早まり、「8月17日か18日以降の最初の好天に日に投下できる」という状態であったようです。

 この部分は余分な話かも知れませんが、ぎりぎりまで京都にはその可能性があったといういことで、文化財を守ろうなどという甘っちょろいものは一切ないということです。
 
 本当に世界は腹黒く、日本人はよく言えばやさしく普通に言うと、どうしようもないうぶでお人よしということです。はやく目覚めなければなりません。

(*)JR鎌倉駅前の記念碑(29p)
 この記念碑は、鎌倉市内の政・財界人、文化人、市民らの寄付によって、「ウォーナー博士の記念碑を建てる会」の名前で建立された。これは、1986(昭和61)年が古都保存法施行20周年にあたることにちなんで計画され、その翌年の1987年4月に建立されたものである。
 記念碑は、鎌倉西口の小さな広場に立つ。2mほどの御影石にウォーナーの顔の浮き彫りがほられている。ウォーナーの遺徳をたたえる碑文の上には、「文化は戦争に優先する」というスローガン(?)まで刻まれている。また、6月9日の命日前後には、碑前で毎年法要が行われているという。

20.6.1

昭和天皇の研究/山本七平/祥伝社

 単に偉大な天皇であった、というより「考えて見れば全く稀有(けう)の存在である。」(著者まえがき)と言えます。そして、「人類史上おそらく前例がなく、今後も再びこのような生涯をおくる人物は現れまい、と思われるのが昭和天皇である。」(同)

 その昭和天皇は、どのような人であったか、を山本七平氏は語り始めます。昭和天皇もさることながら、この山本氏もまた、古書店の店主でありながら、数々の著作を世に問うており、そのいずれもが読み応えのある内容になっておりまして、この本もまたその例にもれず、昭和天皇の内心がわかったと感じさせるものになっています。山本氏というのは、古書店のオヤジが本を書いているというのではなく、歴史家あるいは社会学者がたまたま古書店のオヤジをやっていた、ということだろうと思えます。

 この本では、「天皇は強く自己についての規定をしておられる」というのが一つのテーマになっています。
 その規定の内容とは、明治天皇が定められた「立憲君主制」の下での君主である、ということで、これを逸脱するようなことは微塵もお考えになっておりませんでした。そのひとつの証左が、ご自身の言葉「2.26の時と終戦の時と、この2回だけ、自分は立憲君主としての道を踏み間違えた‥(入江侍従長による記録)」に表れています。しかし、これらのことも実は、そのいづれもがいわば政府が機能しなくなった非常時に際してのことであって、天皇の意思が示されないと収拾できないような事態だったからなのですが、陛下はそれさえも「踏み間違った」とおっしゃっている訳でして、その自制の強さが分かります。

 このような、お考えをもたれるようになったのは、素地もあったでしょうが教育によるところが非常に大きいようです。陛下は、学習院初等科をご卒業後は、宮中の御学問所で7年間、数人のご学友とともに学業を積まれます。その際に大きな影響を与えた先生の一人が杉浦重剛(しげたけ)という倫理を担当した化学者でありまして、彼は「道徳を絶対視しつつ、科学を重んじる」という教育方針で陛下の教育にあたったそうです。
 
 歴史の教育については白鳥庫吉博士。
 これらの人が、天皇のありかた「立憲君主」を形作っていったのです。

 昭和天皇のご性格について著者は「簡単にいえば天皇は、何事も地道にこつこつと積み上げていき、その際、一点一画もおろそかにしない「生物分類学者」的なタイプである。そして常に原則に忠実で、一つのことをはじめたら決してやめない。少々驚くべき持続力を持っている。」と言っておりますが、このことが全編にわたって描かれています。

 天皇はあたかも独裁者であるかのような印象を持っている人がいます。最近では、加藤紘一という国籍不明の人が「金正日は天皇のようなもの」という発言をしていましたが、これなどはその典型でしょう。あの唾棄すべき独裁者と比較すること自体が不敬なのですが、天皇に対してなんとなくオールマイティの印象をもっているからなのでしょう。しかし、我が天皇は憲法の下の君主であったわけで、ご自身もそれを生涯きつく守られたのです。

 ご意見やご希望に類することを洩らされることはあっても、強制を伴わせることは全くありませんでしたし、内閣の決定事項となったものについては、必ず御裁可されています。俗に、今次戦争も止められたはずだ、と言われる場合がありますが、それは出来ないし、なさらないわけです。また、戦争(事変)の開始にあたって軍部の独走であったと非難されることがありますが、それもありえないのです。この本から引用します(332p)。
<引用>
 戦後になると、「軍が独走した」「軍部が悪い」「統帥権は独立しているから、これを押さえられなかった天皇の責任だ」ということになる。だが、「軍の独走」などということは現実にはあり得ない。
 私自身、軍の下級将校で、部隊本部にいたからよく知っているが、「予算」がなければ何も出来ないのは他の官庁と変わりはない。軍もまた膨大な官僚機構である。簡単に言えば三度の食事さえ、正規の「食事伝票」を切らねば支給されない。被服・兵器・弾薬・車輌はもちろん、民間の軍需産業からの購入であり、移動には全て運賃を払っており、膨大な給料を支払っている。その一大官僚機構を「予算」なしに動かすなどということは、もとより不可能であり、その予算は、内閣と帝国議会が握っており、軍が握っているわけではない。
 「独走」というが、軍と内閣が「野合」しても「帝国議会」の承認がなければ、軍は動かせない。問題はその自覚が強烈だったのが軍であり、その自覚がなかったのが政治家で、その典型が、「不拡大方針」を声明しながら「拡大予算」を組んでいた近衛(文麿)である。

内閣は議会の信任によって成立しているのだから、その決定を(天皇が)拒否することは「タテマエ」から言えば、天皇と国民との正面衝突ということになる‥。
<引用終>

 天皇は、冒頭に記したように、まさに「稀有の人」です。
 日本国、日本民族のこをのみ念頭において、困難を極める中を常に冷静な観察と判断をされ、最後には、自分の身も投げ出されたのです。
 「無私」であることの凄さがここに表れていると思います。これは、天皇でなければ絶対に出来ないことでしょう。
 まさに「稀有の人」です。


20.5.15

畏るべき昭和天皇/松本健一/毎日新聞社

 日本について考える際、天皇の存在をはずすことはできません。過去においてもまた現在においても常に日本国の中心として存在され、国家としての大きな方向転換を求められる局面などで重大な決断をし、我国の安泰を守ってこられている訳です。
 寛仁親王殿下のお言葉に「天皇というのは大きな振り子の軸のようなもので、世の中が左右に振れても、常に動かずに世の中の中央に位置している。そして軸であるから、振り子が元に戻る原点になっている。」というのがありましたが、まさにその通りだと思います。

 戦前、昭和天皇は神格化され「畏れ多い」存在とされていましたが、実は天皇ご自身は極めて合理的な考えを持った方で、そのことを(言葉が思い浮かびませんが)疎ましく思っておられたようです。更には、非常に高いバランス感覚と責任感をお持ちで、大東亜戦争に関して国全体が上っ調子になっていく情勢のなか、ただ一人冷静にその推移を見ておられました。

 また、(当然かもしれませんが)高い矜持を持っておられ、アメリカへのご旅行の際、マッカーサーの墓の近くまで行かれた際に、遺族からの招聘もあったのですが、それに応じられなかったそうです。終戦時、国家と国民のためにやむなくマッカーサー元帥のもとにおいでになりましたが、その時の屈辱的な思いがあってそうされたのでしょうか。(個人としての屈辱感というより国家国民を代表する天皇としての屈辱という感じだと思います。もとより、天皇には「私」はありませんから。)そういう点に大変強い意思の力を感じさせます。

 その他、昭和天皇の凄さ(畏るべきさ)をあらためて知ることができました。あの国難の時代にしかるべきお方がおられたことに感謝しなければならないと思います。

 さて、上記のことを非常にうまく浮き彫りしているのがこの本なのですが、一点、承服し得ない点があります。そのためにこの本は、私にとっては、全体の価値が下がったものになってしましました。
それは、2006年7月に日本経済新聞がスクープした「富田メモ」に対するこの著者の評価が大変適切を欠く点です。
  「A級戦犯の合祀」に天皇が「不快感」を抱かれ、そのために「靖国参拝を以後中止」され、「それが私の心だ」とされたのだという、あの事案です。

 著者は、この富田メモを「真実」であるとして、これを論拠として論を進めています。しかし、その論拠となっているのは新聞紙上に発表された数枚のメモ(手帳の一部)です。前後も分からないし、現物の手帳は、その新聞社が保管しており、しかるべき公的な調査がされている訳ではありません。そのような、あやふやなものだけを元にして、天皇の「心」を断定されているという風に私には見えます。学者としていかがなものでしょう。また、仮にいわゆるA級戦犯の一部に対して不快を持っておられても、それだけで200万柱に及ぶ英霊達を袖にされるということがあるのでしょうか。
 この点、著者は間違っている、と私は思いますね。


20.5.1

大東亜戦争はアメリカが悪い/鈴木敏明/碧天舎

 735ページの大著です。
 大東亜戦争に至る歴史を、今横行している自虐史観/東京裁判史観の反対側の立場から、懇切丁寧に記述してあります。

 そして、驚くべきことに、この著者はいわゆる歴史家などではなく、ご本人の言葉では「一介の定年サラリーマン」なのです。一度も本など書いたことはなかったそうですが、59歳のとき(1997)家永裁判(教科書問題)の最高裁判決が新聞に載って世間を騒がしていたため、彼の著書を読んだそうです。そして、そのあまりにもひどい日本非難の内容に怒りを感じ、本を書くことを決心したそうです。

 お仕事は商社関係であったようで、諸外国に対する感覚は国際的なものを持っておられたわけですが、その上に、強い愛国心と、更に強い意志の力を兼備されていたということです。著者は非常に多くの本をお読みになっており、それらを逐次参照しながら、読者に対して大東亜戦争の過程を分かりやすく説明してくれています。

 お話しのテーマは、私が自衛隊の中で講演させて頂いているものと全く同じでありますが、裏づけの厚みが大分違います。

 そのテーマは、思い切って短く言い切ると、
「横暴狡猾な白人」と「うぶでお人よしの日本人」、目覚めよ日本人。
ということではないかと思います。(著者は、「うぶでバカでお人よしの日本人」と念が入っています。)

 たしかにそのとおりですが、「横暴狡猾な白人」が今も変わらないと同じように「うぶでお人よしの日本人」も、筋金が入っています。こういう気質のようなものは骨がらみになっていて、なかなか変わらないのではないか、と思われます。しかし、だからといって、なにも施さなければなんら改善は得られないわけでして、これに目覚める人を一人でも多く作るという努力が必要となります。敵は、その気質を続行しても痛くもかゆくも無いわけですが、我々はこれを少しでも変えなければ後退する一方になってしまう訳です。
 
 この本は、その点を強く意識された労作でして、その点がまた遺憾なく発揮されております。
 ちなみに、この本は知人から借用して読んだのですが、既に絶版になっていまして(出版社が廃業?)手に入れることができません。アマゾンの中古を調べたら数万円の値がついておりました。なんとか、欲しい本です。

 この本の内容に関して、全編同意するものですが、1点だけ違和感を感じました。
 それは、著者が何箇所かで述べられている「日本人の気質の根底にあるのが、『大勢迎合主義である』という点です。この語感から受けるのは、卑屈になって権力におもねるという姿です。確かにそういう見方にもなると思うのですが、私はそうではなく、自然に逆らわない、あるいは自然には逆らえないという諦観のようなものが日本人にあって、そこから、大きな流れにはことさらに逆らわない生き方、和を重視する生き方になっている、ということではないか、と思うのです。同じことでしょうが、卑屈な日本人という切り捨てるような見方は、そうかなぇと思います。

 ただし、いずれにせよ、この考え方は、白人優位思想で練り固まった国際社会に立ち向かうには全く不適ですから、この点を意識改革しなければならない、という点で著者と私は一致を見るのですね。


20.4.15

菊と葵の物語/高松宮妃喜久子/中公文庫

 喜久子妃殿下は最後の将軍徳川慶喜のひ孫に当たります。幼少の時に慶喜に抱かれた写真がありますが、御本人には慶喜の具体的な思い出はないそうです。18歳で高松宮殿下とご成婚。

 この本では、これ以後の色々な話題が語られています。これを読むと、皇族の方々の生活というのは全く雲の上のことではなく、当たり前のことかもしれませんが、私的な部分では我々と同じなんだなぁという感じを持ちました。

 戦時中は食料の確保が大変で、畑を作っておられました。そこまでやらなくとも良かったのかも知れませんが、自分達だけ特別という気持ちにはなれないということがおありになったということです。それについて、次のような印象的なエピソードが書かれています。

 戦争も終わりに近づき、5月22日の空襲で宮城も大宮御所も秩父宮邸も全部丸焼けとなり、高松宮邸のみが助かった。宮城も全部焼けたというので喜久子妃が急遽、皇太后(貞明皇后)のところへ参上したら、防空壕の中におられて「これで私も国民と同じになった」といわれたそうです。それに対して、喜久子様はそのとき、「うちだけ残ってしまって申し訳ない、という想いがあったので、いっそ火をつけて焼いてしまおうか、そう思ったのをはっきり覚えています。」ということがあったそうです。

 その他、このようなエピソードがたくさんあるのですが、生活の私的な部分は特殊ではあっても特別ではないとうことで、一方、公的な面では「国平らかに民安けれ」に徹しておられるということでしょうか。

 そういえば、私は高松宮殿下のお言葉を頂いたかもしれません。かもしれません、などという言い方は大変失礼な話ですが、大事なかつ光栄なことなのにどうも良く覚えていないのです。遠洋航海に出発する前に、我々新米3尉は、出発前のご挨拶のために皇居に参上するのですが、その際にどこかのお庭でパーティをしていただきました。そのパーティで、殿下の近いところに居た事は確実ですが、お声を直接聞いたような聞いていないような、そんな感じなのです。
 恥ずかしながら、全くの若気の至りで、皇室についての理解をしていなかったので、記憶が定かでないのです。つまり、ほとんど緊張していなかったのだと思います。今考えると本当に赤面の至りです。

20.3.30

失敗の中国近代史/別宮暖朗/並木書房
 中国近代史は失敗の連続であった、ということを著者は述べていくのですが、どうしてどうして日本もそれに劣らず外交面での拙劣さが目立ちます。いうなれば、シナは根っからの悪(わる)で、日本はどうしようもないお人よしということでしょうか。
 中国の行動の原点は中華思想にあると思いますが、それをより具体的に解説したのが、「まえがき」にある次のような文章です。

<引用開始>
 日本と中国とは国のあり方が全く違っていた。‥‥江戸時代より前、日本における官吏は、人口の5%以下にすぎない武士が独占しており、かつ世襲であった。中国では「科挙」と呼ばれる公務員任官試験で官吏は選抜された。‥‥科挙の試験内容は、四書五経から時事問題についての解決策を、八股文(はっこぶん)という修辞に従って書き上げられるというものであった。
 問題の内容についての調査、他国における解決策をみるのではなく、古代の結論に現代を押し込める必要があった。マルクスやレーニンの著作から回答を発見したり、コーランから結論を出したりする、共産主義やイスラム原理主義によく似ている。いったん試験に合格した官僚は、試験内容に反する世界観には徹底的に反抗する、上下関係しかない役所から出られず、広い世界に出ることを嫌がり、因循固陋(いんじゅんころう)の考え方にとらわれ、人事にしか興味が向かず、冒険より官職を奪われまいとする。
 汽船が発明されると軍隊を含めて全世界的な人の移動が始まった。科挙官僚はその世界観から、いっさい外国人との対等の交際ができなかった。外交そのものを拒否したのである。‥‥清朝はいっさいの対等外交を拒否した。理由は単純で、四書五経には外夷の貢礼についての規定しかなく、皇帝も科挙官僚も夷人と対等の交際をやれば国が滅亡すると思っていてしまったのだ。
 そもそも儒教の統治方法とは「礼楽」である。「礼」とは日本語の意味と異なり儀式一般であり、「楽」とは音楽であった。‥ ‥
 中国人からすれば、「博物地大」の国に、日本人と欧米人が押しかけ、勝手なことをしたので、責任は全て外国人にあるとみえるのである。加えて、中国が中華であるためには、中国人は、もっと富裕でなければならず、今自分たちよりも富裕な人々は嫉(ねた)ましい。‥ ‥
 あるアイデアが中国人の脳裏に閃いた。それは、「中国が近代化できないのは外国人のせいだ」という責任転嫁であった。政府は排外主義宣伝を行い、自分たちの失政は外国人のせいだと子供に教え込んだ。中国人にとって20世紀は、外国人の発展をあらゆる手段で妨害した時代になった。日本人と欧米人は中国において蛇蝎のように嫌われることになった。
<引用終り>

 さらにこの因果を探ることもできるでしょうが、これで十分と思われます。
 こういう考えが、まさに4千年とかいう時間をかけて骨の髄まで浸透している訳ですから、理性的に話し合いで物事を解決しましょうなどということは、あと2千年間くらいは無理でしょう。
 この本には、アヘン戦争〜南京事件までを捉えて、そんなシナがやってしまった失敗の顛末が描かれています。
 孫文だったと思いますが、「シナは一人の皇帝と砂のような人民からなっている」という言葉がありますが、秦の始皇帝あたりから中共の胡錦濤に至るまで、国のトップにたった人たちは、人民を砂粒程度にしか思わない究極の利己的存在としての皇帝を目指したのではないでしょうか。(人民側も人民側で、結束するということのない砂に甘んじ続けたのです。)
 孫文や蒋介石は日本とも縁が深かったようで、日本人のシンパも相当の支援を惜しまなかったのですが、結局は実にあっさりと裏切られています。いや、むしろ中国人とはそういう人種なのだということが、お人よしの日本人には見えなかったということかもしれません。
 特に、どういう訳か、肝心の外務省役人にこの辺の認識がうすい人が多数輩出しているのは残念なことです。幣原喜重郎や広田弘毅など外務官僚上がりの外務大臣が、国益を放擲し中国等に譲歩するなど大きな失敗を重ねました。前に「落日燃ゆ」という本を読んだとき、その本には広田をいわば偉人として描いてあることに違和感を覚えたのですが、やはりそうだったかとこの本を読んで合点が行きました。多分、現代に引き写せば、福田、加藤、山崎などの議員がそれに近いのかもしれません(それ以上?)。外務官僚出身の加藤紘一などがこの最右翼でしょう。そう捉えると、当時の様子がある程度理解できます。彼らの言動からすれば満州事変当時の関東軍の行動やそれを支持した当時の国民の存在もわかります。

 この本は、わりと専門的で、当時のシナに割拠した軍閥レベルの言動や師団レベルの軍の動きをも描いてあり、それだけに付いて行くの大変でして、完全に理解出来ませんでした。
もう一度読むことをトライしたいと思います。

 

20.3.15

神は妄想である−宗教との決別/リチャード・ドーキンス/早川書房

 なにかの書評を読んで手にした本です。
 私は図書館を利用するのがほとんどでして、この本はその図書館で予約をして手にしたのですが、予約をしてから手にするまでかなりの期間がかかりました。それほど読まれているということです。

 しかし、私は10分の1ほどを読んで止めてしまいました。前評判の割には興味を覚えなかったからです。多分、私の前にこの本を読んだ方たちも同じような感想をもったのではないでしょうか。ところが、この本の宣伝文句には、「発売されるや全米ベストセラーとなった超話題作」とあります。
 面白くない本が超話題作? 
 
 なぜかというと、アメリカ人にとっては、この本は意表をつくような面白さがあるのですが、我々日本人にとっては、つまらぬことを大げさに言い募っているとしか思えないからなのです。
 
 この本のテーマは、平たく言えば「宗教は捨てられる、こだわる必要は無い、なぜなら神はいないからだ」というものなのです。
 本文の10分の1と目次しか読んでいないのですが、いろんなことを考えさせられました。

 基本的にまず思うのは、「宗教を捨てよ」という点に対する疑問です。やはり、それがどのようなものであるにしろ、人間を超越するなにものかの存在に対する「畏れ」というものがないと、まずいのではないかということです。この人間界、人智の及ばないものごとや白黒付けられないグレーの部分や矛盾だらけのことや複雑すぎて解決できない問題などなどで満ち満ちています。ところがそれらを一刀両断解決してくれるのが宗教だろうと思うのです。これがなくては、苦しくて苦しくてたまらないと思うのですがどうでしょう。

 次に思うのが「キリスト教でいう神は知らず、我々日本人が感じているカミは良いなぁ」ということです。(逆に言うとキリスト教徒は可哀そう。)
 ユダヤ教もイスラム教もそうですが、いわゆる「唯一絶対神」な訳ですから、堅苦しくて息が詰まりそうな雰囲気があります。これが極端に走ると、いわゆる原理主義というわけでして、絶対に自分達は正しくてそのほかのものは絶対に許せない。したがって、究極には相手を排除(殺)してしまわなければならない、というところに行く。相手の考えや存在を認めるというおおらかさの幅が狭くなり勝ちな傾向があるように見えますね。

 その点、多神教というのは良いと思いますね。いろんな神様がいろんな場所に居て我々人間を見ている、という考えです。私が小さい頃、便所にも神様が居る(便所の神様)、だから汚してはいけないなどと母親から言われたことがあります。今思えば、子供ながらに「畏れ」を感じました。しばらくは、便所に行くと、どこに神様がいるのだろうと、便所の隅々を目を凝らしてみたものでした。
 これは小さな例ですが、こういうことを通じて、大昔から私達は自分達の生活を律してきたわけです。(「お天道様が見ている」というのは、その代表です。)
 単純ですが、ポイントは押さえられているように思います。なによりもおおらかな点が私(達)にはぴったりです。

 ところが、一神教では唯一絶対の神との契約の下に自分達が存在する、というきっちりした約束事があって、それを守らなければならない。だから、アメリカ人は「神」に縛られていることできつくてたまらないのですね。無神教などと人から言われるのは、もう想像を絶することなのです。そこで、このような本が「超話題作」の「ベストセラー」になる訳です。どうしたら、神の束縛から逃げられるか、と。

 最近日本の文化力を輸出すべきだというハナシがあります。それは、漫画やアニメ、もったいない精神、等などですが、この多神教も世界に広まったら良いとおもいますね。
 それにしても、この点については、日本に生まれて本当に良かったと思います。


20.3.1

蕎麦と江戸文化-二八蕎麦の謎-/笠井俊弥/雄山閣出版
 なぜ二八というか?
 謂われているのは、@値段説(2×8=16文)、A配合比説(蕎麦8割、つなぎ2割)ですが、次に記す理由からわかりますように、両方ともに完全ではありません。

 @の値段説についてですが、二八蕎麦という言葉が使われるようになったのは享保年間(1725頃)ですが、この頃以降の値段は8文程度で16文に値上げになる前でも12文であったそうです。16文になるのは文化の後半(1811頃〜)だそうでして、慶応元年(1865)には更に値上がりして16文ではなくなるそうです。したがって、二八蕎麦が食された140年の中で該当するのは50年程度ということになります。よって、値段説は「?」ということになります。

 次にAの配合比説ですが、もしそうなら、八二というべきであろうのにそうなっていないし、決定的なのは二八うどん、二六うどんなどという言葉がある、ということです。うどんに配合比はありませんから、Aの配合費説も「?」ということになります。

 そこで、著者は次のような仮説を立ててその立証を試みます。結局、決定的な証拠がなく傍証の列挙ということになるのですが、私としては大いに納得しました。証拠となる文献がないのは、そういう言い方が当たり前過ぎてそれを書いて説明するという必要がなかったからです。「なぜ『手打ち』というか」という問に似ています。

 さて、著者がたてた仮説は「2杯で18文ということで、10が省略されて、二八と言われた。」というものです。
「2杯で」については、2杯を食べるというのが通常の姿であったことを、当時のならわし、川柳、絵などで説明されています。もともと1杯というのは忌むべきことでした。死んだ人の枕飯(まくらめし)が1杯盛切り、出棺の前に近親者が食べる出立飯(でだしめし)も1杯限り‥。居候(いそうろう)でさえも、2杯は当たり前で3杯目をそっと出したわけです。
 
 で、一杯が9文ですから、2杯で18文。
 ではなぜ10の位を省略しているのか、については、そうすることが当時は極々当たり前だったからです。卑近な例が年齢を聞く時で、「おいくつですか?」「2になります」と答えれば52か62かは見て分かるから言わない、ということです。この省略は数字に限らず、色々なところで行われています。「いわずと知れた‥」ということなのです。

 その後、物価の上昇に伴い、ついに一杯が16文の時代になり、その際には、二八・十六の掛け算の使われ方になります。そして現代は、もっぱら配合比の二八になった、という訳です。

 蕎麦がテーマの本ですが、江戸の人たちの考え方、人生観のようなものが分かりました。特に省略の美学。四の五のぐたぐた言わずに、スパッと略して、それを楽しむ‥。
この本のプロローグに次の記述があります。

 「江戸文化のキーワードのひとつは、粋(いき)(意気)。粋は「遊び―遊び心」に咲いた洒落た花ともいえます。人々は豊かな遊び心に生きました。
 粋はまた、趣向を解するゆとり心でもありました。
 「趣向(イキ)といふ事は、俗にええおもひつきといふ義也」(安永8年『大通法語』)
 趣向は、あからさまでない、一ひねりも二ひねりもしたちょっと気の利いた遊び感覚です。日常の言葉についても、趣向センス、遊び感覚も粋の大切な部分でした。言葉のなかで、「数」のパズル趣向・遊び感覚は江戸時代、大いに華やかで盛んでした。」

 なお、典型的な例としての「時刻表記」が面白いので以下に記します。
 「一日の時間の基点の午前零時が九ツで、夜明けが明け六ツ、日没が暮れ六ツとなるように割り付けます。九ツが午前零時で、八ツ、七ツ、六ツ、五ツ、四ツまで進み、そこからまた九ツに戻って、八ツ、七ツと四ツまで進みます。時間がたつにつれて数字が小さくなる、と思っておられる方がほとんどでしょうが、そんな順算法でない時間の数え方など、世界中に存在しません。
 夜半(真夜中)と正午をそれぞれ九ツでスタートするのは、易の思想で九ツが究極の陽数だからです。
九ツ(午前零時・午後零時)は九かける一で九ツ。これから陽数の九にかける数字が、二、三、四、五、六と順次多くなっていきます。
八ツ(午前二時・午後二時)は、九かける二で十八。その十はわかりきっていることなので無論カットしますから、八ツ。
七ツ(午前四時・午後四時)は、九かける三で二十七。その二十はわかりきっていることなので無論カットしますから、七ツ。
(以下略。四ツまで)」

 わかりきっているので、ここまで略してしまう訳です。こうなるともう想像すらできない世界ですね。

 

20.2.20

蕎麦 江戸の食文化/笠井俊彌/岩波書店

 軽妙洒脱というのは、こういう本を言うのでしょうか。それでいて、さりげなく押さえるべきところは押さえてあり、著者の知識の幅と深さがよく分かります。資料となっている一句一句の川柳に対するよみの深さと断定を避けた謙虚さは大変好感が持てます。こういう語り口は、私は好きですね。

 蕎麦は江戸時代後半に爆発的な発展を遂げるのですが、その爆発さ加減が尋常でないということがよく分かります。当時、深大寺などの寺に蕎麦うちの技術が大いに発達し、うまい蕎麦が作られ、それが江戸中の人たちに大いに支持されました。自分で蕎麦を打ち、自分で味わったり贈答に使ったりすることは、当時はごく普通の姿であったようです。
  自分でやってみると、うまい蕎麦を打つというのは、なかなか難しく、相当の技術が必要です(だからこそ、面白いという面があります)。私もこの数年、蕎麦打ちを趣味としてやっていますが、会心の一打ちというのがなかなかできません。
 当時は今と違って製粉技術も低かったでしょうから、相当の技術を用いて打ったはずです。

 当時の蕎麦うち人口の構成について、この本を通じて得た私のイメージは、称往院道光庵や深大寺などの坊さんたちが、アマチュアとして技術の追求をとことん行い、高度の技術を作り上げ、それが市井に広まり、武家や町人の家庭でまでも普通に打たれるようになったということのようです。

 今、私は「なぜ『手打ち』というのか」、「『コシ』とはなにを指すのか」ということに関心を持っておりまして、それに関する記述をメモします。

 「打つ」という言葉についての著者の使い分け(3p)
 「蕎麦粉をこねて打って切ったものを蕎麦切と言い、やがて蕎麦と略されるようになります。」
 →著者は、蕎麦打ち作業を「こねる」「打つ」「切る」という区分で捉えています。つまり「玉の状態になった蕎麦粉を延す段階」のことを「打つ」といっている訳です。この言い方は、現代のある高名な蕎麦屋さんによる蕎麦談義の際にも、出てきたことがありました。なぜ、「延し」の作業の段階をこのように「打つ」というかというと、麺棒が関係しているに違いなく、単純ですが、棒を使うから「打つ」と言ったのでしょう。江戸っ子達のちょっとした言葉の遊びだと思われます。
 また、著者は、別のところで麺棒のことを「打ち棒」と表現(176p)しておりまして、その昔からそういう言い方が行われていたということだろうと思います。

 ついでに「手打ち」について(117p)
 「…道光庵と云へるあり。この寺にて蕎麦切を製するに味ひ他に勝れ、…これより所々にて手打の生蕎麦を商う者、家号をば庵と呼ぶ事にはなりぬ。近きことなれども、その物の流行よりその名の始まりとはなりぬ」(著者続けて)なお、文中の「生蕎麦」は現在では乾蕎麦でないウエットなナマソバととられかねませんが、二八のようにつなぎを入れない、蕎麦粉百%の「生粉(きこ)打ち」の蕎麦のことです。」
 →道光庵は当時のそば切りの最高峰でありました。この名前にあやかって、手打ち(上等のそば)を打てる店であるという意味を込めて庵という名前をつけた訳です。

 コシについての記述(215p)
 「江戸蕎麦は小盛りの蕎麦を、蒸篭(せいろ)の上にさらっと薄く置き、ボテボテ重ねるのは野暮としました。もっとも、子母沢寛の『そばの味』によれば、『江戸中の蕎麦屋は一と並べで、重ねるのを不粋とした』のは、天保以降としていますが…。
 釜から掬い上げたら二、三本くっつき合っているなど論外ですが、しんなりと盛り重ねるのではなく、少量ながら蕎麦と蕎麦の間を、蝿がくぐれるくらいの隙間があるようにやや立体気味に盛りました。木を見て安らぎを感じるのは、葉と葉の間に木漏れ日を通す合間が多くあるからですが、蕎麦もこの盛り方の絶妙な隙間が、粋なやすらぎ、くつろぎを感じさせたのです。
 そして、このような蕎麦の粋な盛り付けは、蕎麦がちょっと生きているかのように然るべく堅く締まって、腰がある仕上がりだからこそ可能なのです。」
 →コシという言葉は、通常は、麺自体の固さそのものを指す言葉として使用されています。歯ごたえがあるとかコリコリ感があるとか等という使われ方ですね。私は、なんとなく素直に納得できません。麺は堅ければ良いというものではない、と思うからです。私は、「コシ=腰」という言葉を使っている点に注目を要すると思います。上にも書かれている通り、「しんなりと盛り重ね」られた蕎麦はうまくありません。麺が適当な「張り」をもっており、その「張り」の力で麺がへたっていない状態のことを腰がある(強い)というのではないでしょうか。そしてその「張り」を実現させるのは、麺自体の固さに加えて麺の適度な太さである、といえるのではないかと思います。麺が細いと、その腰(強さ)が発生せず、まるでもずくのようにぐにゃぐにゃになってしまって、全く美味しくありません。つまり、コシとは、適度な堅さと適度な太さによる張り(張力)のことではないかと思うのです。

 

 「打つ」のいわれについてはあれこれ考えたことがありましたが、単純な解釈で良いように思えます。また、コシについては、ハエが飛行して通過可能なリングができるような「張力」のある蕎麦ということではないかと思います。

 

20.2.10

江戸っ子はなぜ蕎麦なのか?/岩崎信也/光文社新書
 以前、著者「岩崎信也」氏の講演を聞く機会がありまして、この本を手にしました。
 
 本の内容は、その時の講演と同じく、単に蕎麦の歴史を紐解くというものではなく江戸文化の担い手であった江戸っ子たちの生活ぶり、考え方などに焦点を当てて、蕎麦文化との係わり合いが分かりやすく解説されています。分析の仕方も根拠(主に文献)を押さえながら、そこから踏み出すことなく行なわれておりまして、大変好感が持てます。この多くの参照文献のなかで、精彩を放つのが川柳でして、当時の生活と密着した蕎麦文化が生き生きと蘇さらせられています。
 
 今に伝わる蕎麦きりの文化発祥についてですが、それが形作られ、完成されたのは意外と最近のことで、江戸時代後半の文化文政から幕末にかけてであったようです。江戸は新興の地でありまして、徳川家康が政治の中心として建設するわけですが、移住してきた武家たちを支えるために近在からいわゆる町人たちの流入があって徐々に繁栄の道をたどっていきます。

 この本のテーマである蕎麦文化の発祥について言うと、当初は、それほど着目されるようなものではなく、江戸でもうどんが主体であったようです。また、うどんに限らず酒や醤油その他諸々のものが、関西から下(くだ)って来たものですから、新興ながら政治の中心都市の住民としては、ある種のコンプレックスがあったようで、それが、逆にバネとなって、うどんに対抗するものとして蕎麦が育てられていきました。蕎麦文化の発展にはこのような新興都市住民の反骨精神が根本の要因としてあるように思います。

 このようにして、応急食でしかなく、たいして美味くもないものであった蕎麦が、一つの文化として育てられていき、文化文政(1804〜)にその最盛をむかえることになります。ほんとに最近のことです。その後、明治維新になり、蕎麦は不遇の時代を迎えることになります。蕎麦は江戸文化に密着していたものであるが故に欧米化を阻害するものであるとして、冷遇されます。実際の店舗の数も激減するなどのことがあり、更には機械による製造が行なわれるなど、蕎麦文化が廃れる状況になっていきます。

 そして、今はどうか?
 一部の老舗や気概ある蕎麦職人、そして我々アマチュア蕎麦打ちの手によってその伝統が復興され守られていると言ってよいのではないかと思います。(かなぁ‥)

 非常にまじめにきめ細かく書かれた本で、蕎麦関係者の必読の書といってよいのではないでしょうか。

 関心を持った記述を何箇所か抜書きします。

1「『手打ち』とは『上等の』という意味で、二八蕎麦などとの差別化のために作られた言葉である。」について(100p)
 「ところで、『蕎麦全書』(寛延四年・1751)によれば、当時はまだそばを商っていても「うどん屋」と名乗る店が多かったが、同時に、蕎麦の人気が高まるにつれて肝心のそばの品質に問題のある店も増えていたようで、いろいろと苦言を呈している。要するに、つなぎの小麦粉の配合割合の問題だ。ひどいのになると、通例はそば粉4に小麦粉1のところを3対1にしているなどと自慢するそば屋すらあった。著者の日新友蕎子もさすがに「呆れた」と書いている。‥(中略)‥ただし、友蕎子はことのほかそばの品質について厳格な人であり、手ずから上等のそば粉のみでそばを打っていたというから、この批判は厳しすぎる嫌いもあるかもしれない。‥(中略)‥寛延から宝暦にかけての頃(1748〜64)はまだしも、その後、二八そばは「駄そば」の代名詞になってしまったとされる。そういう堕に流れ勝ちだったそばやの風潮のなかで看板に掲げられたのが「手打ち」という名目であった。もちろん製麺機など想像すらできなかった時代のことであり、そばは手で打つに決まっている。それでもあえて「手打ち」と称したのは、二八そば屋に対する差別化の意思表示以外のなにものでもないだろう。‥(中略)‥
『守貞謾稿』(天保から嘉永期・1830〜54)は、当時のそば屋の状況を次のように記している。
従来二八、後に二十四文の物を商ふを、駄蕎麦と云。駄は惣(すべ)て粗を云の俗語也。駄にも、行燈等には手打と記せども、実は手打と云は、別に精製を商ふ店あり。真の手打蕎麦屋には、二八の駄そばはうらず。」

2「そばきり」という言葉について(73p)
 「そばの場合は意味の混沌とした時代が戦国時代まで続く。そして江戸時代に入ってようやく、、麺の場合は明確に「そば切り」と表記されるようになるのである。そのため、蕎麦史では「そば切り」という表記がなされえいた場合に限って、麺としてのそばと認めるということになっている。‥(中略)‥現在のところ麺としての初見とされるのは、「そば切り」という言葉が初めて見つかった『定勝寺(じょうしょうじ)文書』である。‥(中略)‥(それはともかく、)戦国時代になってなぜ、「そば切り」という名称が独立して使われるようになったのか。この疑問に対しては、従来の「そば」とは明らかに違う食品、つまり麺としてのそばが発明されたためという解釈が成り立つ。そばの麺を特定する必要から新たに「そば切り」という言葉ができた、という解釈だ。」

3 もりそばの食べ時について(なんでも早ければ良いというわけではない)(265p)
 「そばは茹でて洗ってからひと水切れたところが食べ時で、水が滴っているようなそばではつゆものらない。」


20.1.30

神社の系譜−なぜそこにあるか/宮元健次/光文社新書
 日本人は仏教徒であるといいます。私の場合も、あなたの宗教はなにかと問われれば「仏教です。宗派は浄土真宗です。」と答えることにしています。しかし、日常的にお経や念仏を唱えているということはありませんし、仏様にお祈りをするなどということを発想することすらありません。

 葬式の時に念仏を唱えているでしょう?と言われるかもしれませんが、よくよく考えてみるとあれは仏様にお祈りしているのではなく、私の意識は亡くなった人に向けられています。あくまで、仏になられたその人であっていわゆるみ仏様ではないのです。仏壇があるお宅では、日々お祈りをしていると言われるかもしれませんが、実際は、亡くなられた肉親などがその対象になっているように思います。
 つまり、私は、というか私たち日本人は本当の姿の仏教徒ではない、と言えるのではないかと思います。
 
 では、私たちの宗教はなにか。
 それは「祖先崇拝」であると言ったほうが実際に近いのではないかと思うのです。ただ、もう少し説明を付け加えて、その「祖先崇拝」に「神道」が合わさったものと言ったが良いと思えます。

 私達の伝統的な感覚には、人が亡くなるとカミになってどこか山の向こう側とか、雲の上かなんかに住むことになり、時々我々現世の人間を遠くから見ている。そして、盆や正月には、提灯や門松を目印にしてもと住んでいた家に帰ってくる。と、こういう感じです。(カミと書いたのは神(God)ではなく、私達の『上』に連なっているご先祖様という感覚が強いから、こう表現したほうが適当と思います。)

 以前、靖国神社に参拝したあと宮司さんのご挨拶を聞く機会があったのですが、最後にこう締めくくられました。
 「‥皆様に、英霊のご加護がありますように。」
 これには、びっくりしました。

 私は、英霊への感謝と鎮魂、平たく言えばお慰め、のために靖国神社に参ったわけですが、逆に英霊が私達を守ってくれるというのです。でも、考えてみれば、祀られている方々は神様になられている訳ですから、ある種の力をもって子孫どもを守っていただけるというのはいわば当たり前のことなのですね。
 ただ、一般には、神社にはそのコミュニティ内で尊敬を受けるに値する人が祀られている訳でして、皆が皆祀られているわけではありません。しかし、私達が手をあわせるときには、その特定のご神体も含めて私達につながるご先祖様たち全体を念頭に置いているような気がします。
そんなことを思っていますので、ひょっと目に付いたこの本を読んでみたわけです。

 この本によると、神社の位置というのには大きな意味がある、というのです。今の感覚では、土地が空いていて、土地代が安いからそこに建てようという発想になると思うのですが、そうではなく、なにしろその昔は立てる場所はいくらでもあったわけですから、そこに建てるにはしかるべき理由があって、それが優先されるわけです。
 
 この本の前段は、平将門の首塚、神田明神その他の関連神社のことについての話題です。
平将門は、平安京を開いた桓武天皇の7代目の孫にあたる皇族であり関東一帯を領地とする豪族でしたが、939年、自らを「新皇」と称して挙兵します。しかし、敗退し結局首をとられてしまいます。その後、京都七条河原でさらし首にされますが、その首は3日後に関東に飛んで行きます。着地点は武蔵国豊島郡柴崎村(今の大手町付近と思います)。実際のところは、「首と胴を一緒にしないと祟りがある」として家臣の要請で僧侶が運んだということのようです。首塚に納められたあとも祟り続き、荒ぶる神であったようです。

 江戸幕府を開いた家康は、将門が朝敵であるということも踏まえてか、将門関連のご神体を江戸の要所要所に配置して江戸の安寧を計ったということのようです。

 首は首塚に埋められ大手門の近くに、手は浅草橋門付近の鳥越神社に納め奥州道の守り神として、また胴は神田神社のご神体とされて日光道に対応、足は中仙道の出入り口に当たる牛込門の脇の筑土八幡神社に、甲州道には四谷門の付近の鎧神社に、東海道は虎ノ門の兜神社‥という風です。つまり、江戸に繋がる街道筋に神社を建てて、そこに荒ぶる神である将門をご神体としておまつりした、という訳です。すなわち、神社の位置には意味があるという一つの例です。

 この本の後段には、日本各地の神社の地理的位置をつなぐと、夏至冬至の際の日出没の方位線に合致するという話が述べられています。夏至や冬至を、太陽の力が小さくなる、あるいは大きくなるという捉えかたをして、その方位線に大きな意味を見出したということのようです。おおもとには太陽崇拝というのがあるのでしょう。ただ、この本ではそういう位置関係を見出すことができ、それは偶然ではない、という言い方に止まっています。これだけの事例があればそのことを書いた文献がありそうに思いますが、そのことは調査されていないようです。大変興味深い内容で、大いにうなづけるのですが、いまいちの感が否めません。惜しい。

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